今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

学校の集団神話

2025年01月26日 | 心理学

「集団心理学」のレポートで、過去の不快な集団経験を尋ねていると、大学生は異口同音に小〜高校時代のクラスでの経験を挙げる(それ以外だと現在のバイト先)。
それを読んで痛感するのは、小学校〜高校で、集団運営の方法が正しく教育されないということだ(自分の生徒時代を思い出してもそう思う)。

公教育の場である学校は単に勉強を学ぶ場でなく、社会的存在として、個人と社会とを仲介する”集団”を経験する場でもある。
すなわち、学校は”集団”を、ぶっつけ本番ではなく、教育的に経験する場であるべきだ。

ところが、先生たちは生徒たちを集団にすればそれでいいと思っているフシがある。
生徒たちは授業中のグループ討議、学園祭でのクラス企画でぶっつけ本番の”集団”として放り出される。

先生は生徒たちを集団化しておしまいで、具体的(効率的)な集団運営の仕方を教えない。

なぜなのか。
集団を無条件に「良いものだ」とする思い込みがあるためだ。
集団化すれば、それで自律的に集団の効能が作動すると思い込む「集団神話」だ。
その信奉者たちは、「三人寄れば文殊の知恵」という格言を論拠にする。
実はそれに対する反証が社会心理学で提出されている(「ブレイン・ストーミング」作業実験での生産性:個人>集団)。
集団神話に陥っている人は集団には”負”の効果があることを知らない。

責任分散による「社会的手抜き」や「同調」、「集団思考」、「内集団ひいき」などに思いもよらない(これらは集団において自然発生する)。
※:集団によって意思決定の質が下がる現象で、これこそ「三人寄れば文殊の知恵」の反証。社会人になればこれら集団の負の効果を把握できるが、「集団神話」への信仰までは改まらないようだ。

ダイレクトな社会環境としての集団の力は、個人ではその力に抗し難く、それによって個人が潰されていく。
特に学校では、インフォーマルな”グループ”の階層化すなわち「スクールカースト」が放置され、それがグループ内からクラス全体に広がる日本固有の”集団的いじめ”に発展していく。
※:特定のいじめっ子によるのではなく、それを含めた協力者・傍観者たちのいじめ集団がクラス全体を構成する。
かように子供たちは学校の集団で傷ついてきた。

効率的な集団運営とは、(単なる集まりに過ぎない)集団を”組織”として構造化することである。
リーダシップのあり方、個々の成員の役割分担、成果のフィードバックと再調整。
集団目標の共有と、個々の責任・役割の自覚、そして同調圧を過大にしないリーダーシップ、これらを体験させて、実行する能力を育成する。
学校でもクラブ活動ではこれらが体験されることが多いが、顧問が上述した内容の集団教育に関心がないと、そうならない。
はやり、教室内でまずは集団教育を実施すべきだろう。