夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

海の情景に初めて魅了された頃の想いで・・。

2010-07-19 12:57:09 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
『海の日』を迎え、
このサイトに【里彦の私、初めて海の匂いを感じた時は・・。】
と題した投稿文を綴ったりした。

先程、【YouTube】で、『浜辺の歌』を聴いたりした後、

♪松原遠く消ゆるところ
 白帆(しらほ)の影は浮かぶ。

【『海』 作詞、作曲・不詳】

と心の中で唄いながら、何か海に関しての名曲は、と検索していた。

サザンの曲は良いが、私は桑田さんの作詞は優れていると思ったりしているが、
何よりはもる発声が苦手で敬遠しているので、
やはり加山雄三さんの『海・その愛』しかないかしら、微苦笑したりした・・。

http://www.youtube.com/watch?v=CzLh-Ia91sA
【『海・その愛』 作詞・岩谷時子、作曲・弾厚作、唄・加山雄三 】


もとより加山雄三さんは、父親は俳優の上原謙さんであり、戦前戦後の大スターであり、
湘南海岸の茅ヶ崎で裕福な児として育ち、海を心身ともに愛着し、
その後は俳優、作曲も手がける歌い手として現在でも活躍される方である。

私は映画少年、そして映画青年の真似事をした体験もあるが、
私の場合は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受け、
農家の児として育ったので、加山雄三さんのような方とは遥かに出自、そして素養が違うので、
遠い存在の人でもある。

しかし、父上の上原謙さんが死去された後、
何かとご足労をされたと知り、加山雄三さんの評価を改めたりした。

このように思い馳せたりしていると、
ぼんやりと私は、初めて海の情景に魅了された若き頃の旅先が思いだされた・・。

私が初めて独りで旅行に思い立ったのは、
1960(昭和35)年の高校1年の夏休みの時であった。

夜、晴海埠頭(はるみ・ふとう)から乗船し、早朝に伊豆大島を訪れた後、
観光船で伊豆半島の下田港に向かい、下田に宿泊する。
翌日は半島の西岸を北上しながら観光めぐりした後、
修善寺に宿泊した後は、帰京するプランであった。

このプランは、ご近所の旅行会社に勤めていた方から立案して頂き、
クーポン券のような周遊予約済の観光ルートであった。


旅行鞄のボストンバックを提げて、
ワイシャツと黒の長ズボン、革靴と通学とまったく同じ様な容姿で、
東京の晴海埠頭から東海汽船の観光船で、大島行きに乗船した。

確か夜の10時に出航し、翌朝の4時前に大島の岡田港の沖で着いて、
島の朝が動き始める6時頃に入港した、と記憶している。

この間の乗船していた時は、大部屋のゴロ寝のような感じで、
私は大広間の片隅に横たわり、警戒心もありボイトンバックを握りながら、
不安げに眠れない深夜を過ごしたのであった。

岡田港に下船した時、高波警戒の注意報の掲示板があり、
少し不安げに私は見つめていた。

私は午前中に大島の観光バスで半日周遊をした後、
午後、元町港から下田港行きの観光船に乗り、
下田の観光ホテルに予約済みであったのである。


このような思いがあったので、うつろな思いで、
初めての大島の情景を車窓から眺めていた。

半日周遊観光の終点は元町港であったが、
下田港方面は本日欠航、
と私は掲示板を見て、小心者の私はどうしょう、
と内心うろたえたのである。

しばらくした後、下田港、伊東港は欠航、
熱海港は2時過ぎに出航、と報じられた・・。

私は遠う廻りであったが、熱海港行きの観光船に乗船したが、
観光客で満席となり、私は客室に入らず、
ボストンバックを握り締め、サン・デッキ付近の小さな椅子に腰掛けた。


空一面は、わずかな雲で快晴の青空が拡がり、
私は燦燦と照り昼下りの陽射しを全身に浴び、果てしなく海原が広がる情景を眺め、
そして潮風を受けながら、私は心身爽快な心となった・・。

この頃の時代は、俳優の加山雄三が演じた若大将シリーズ映画が、
映画館で上映されていた時代であったせいか、
海に魅了される人たちの思いも解かったように心持となったのである。


わずか1時間半ばかり航路であったが、
熱海港を下船後、私は東海バスの下田行きの路線バスの乗車場所を何とか探し、
乗り込んだのである。

この時代は、伊東から下田までの伊豆急行が開通前の時期で、
盛んに工事をしていたので、埃りっぽい中をバスで南下したのを、
おぼろげに記憶している。


このようなささやかな旅の始まりであったが、
海上からの美景も良いかしら、と思いを深め、
定年後の今、国内旅行をして、佐渡島、小笠原の父島など、
或いは新潟港から小樽港までフェリーに乗船したり、
仙台港から名古屋港もフェリーから陸上、海上を眺めたりしている。



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里彦の私、初めて海の匂いを感じた時は・・。

2010-07-19 09:47:55 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見て、『海の日』と朱記されていたので、
私は苦笑しながら、ネットで調べたりした・・。

私は何かと信愛している【日本文化いろは事典】のサイトを開き、

http://iroha-japan.net/iroha/A02_holiday/09_umi.html
☆【日本文化いろは事典】、『海の日』 ☆

《・・
7月は祝日が無い月ですが、海をもっとも感じる季節です。
そのような理由から、海の仕事に従事している関係者の間で「
海の記念日」を祝日にしようという運動が起こりました。
現在7月の第3月曜日が「海の日」と制定されています
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


このように明記されていたが、
《・・1996(平成8)年に「海洋国家として広く国民に海への理解と関心を求める日」として休日・・》
と解説されているが、私は実感に乏しく、
燦燦の夏の陽射しを照らす庭のテラスに下り立ち、
そして緑陰に身を寄せながら煙草を喫ったりした・・。

ぼんやりと私は、初めて海の匂いを感じたのは・・、と思いを馳せたりした。


私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

私は小学生の時、先生から『山彦海彦』の話を優しく教えて頂いた時、
少し戸惑ったのである・・。
山の幸で生活されている両親に育った『山彦』でもないし、
海辺で生計をたてている両親の児の『海彦』にも属さないのである。

この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と先生たちは称していた。
この当時の私は、山辺も知らなかったし、海も観たことのない少年であった私は、
やむえず里の児の『里彦』だ、と心に決めたりしていた。


このような心情が私の心の奥底に今だあるが、
海の匂いを初めて感じたのは、映画の『二十四の瞳』であった・・。
確か1955(昭和30)年の小学4年生だったと思われるが、
学校の高学年の4年生以上、先生に引率され学年別に指定された日に電車に乗り、
映画館で『二十四の瞳』を観賞した・・。

後年になると、木下惠介・監督の『二十四の瞳』の名作と知るのであるが、
この当時の私は、小豆島の海の情景、修学旅行に行く瀬戸内海の景観に、
呆然と観て、海かょ、と衝撃をを受けたのである。
そして、ストーリーも完全に理解できない私は、数多くのシーンで涙を浮かべたりしていた。

この映画で何よりも心を震わせ、感極まって涙を流したのは、
敗戦後の恩師の大石先生の教員復職の祝賀会を成人した生徒が開き、
戦争で失明した磯吉は一年生のときの記念写真を指差しながら、全員の位置を示すシーンであり、
この時に廊下にたった生徒が『浜辺の歌』を唄うシーンであった。

この『浜辺の歌』の歌は、圧倒的に海の匂いを感じ、
その後、私は国内旅行で海辺を観たり、海岸を散策したりすると、
心の底で、『浜辺の歌』を唄ったりしている。


先程、【YouTube】で、『浜辺の歌』を検索していたら、
木下惠介・監督の『二十四の瞳』が15話で掲載されており、
私は仰天しながら、著作権は大丈夫かしらと思いながら、見惚(みと)れていた。
この中で、私が最も感銘したシーン
・・恩師の大石先生の教員復職の祝賀会を成人した生徒が開き、
戦争で失明した磯吉は一年生のときの記念写真を指差しながら、全員の位置を示すシーンであり、
この時に廊下にたった生徒が『浜辺の歌』を唄うシーンであった・・。

もとより著作権の保有する松竹映画、
そして木下惠介に敬愛し、恐れ多いが掲載させて頂く。

http://www.youtube.com/watch?v=L8VSiE5_E6k&feature=related
☆松竹映画 木下惠介・監督の『二十四の瞳』(製作・1954年=昭和30年) ☆


尚、私が初めて海を観たのは、小学6年の夏、
独りで江ノ島に行き、海岸、展望台から海を観て、
田舎者の里彦の私は言葉もなく、呆然としながら長らく見つめたりした。



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