前 章 退職後でも少しは
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
近眼で少し老眼が増しているが、顔の1部と思い、少しのこだわりを持っている。
一昨年の初夏の時、愛用していたメガネのフレームが痛んでいるのに気付き、
駅前のメガネ店に行き、新調した。
フレームは、その人なりの顔立ちの表情を表わし、
それなりの個性が感じられるので、
展示品の中から、私が魅了された3種類は数分で決まったが、
最終選定には30分を要したのである。
結果として、程々の品位が感じられるフレームに決定したのである。
店内にあるカタログの一面に於いては、
《・・
1991年には新しいローデンストックの哲学、
『眼鏡は人間の個性を強調するものである。
現在のフレームコレクションは斬新かつ軽量、機能的になっている。』
というブランドイメージとブランド思想のもと、“R”マーク付きの新しい
ローデンストックのロゴを採用。
・・》
と掲載されていた。
このことと私のこだわりが一致して、
確信を得ながら、決定した要因である。
そして、もう1度、少し照れながら、鏡を手前に引き寄せて、
フレームを掛けたりした・・。
第一章 初めて近眼と気付いた時
私は1960(昭和35)年の中学3年の三学期の終りの頃、
私は職員室で担任の先生から呼ばれ、
『XXくん・・あなた眼・・悪いわね・・
0.3って・・』
と担任の女の先生は、健康診断書を見ながら、私に云った・・。
『・・どうして・・今まで黙っていたの・・
メガネを掛けないと・・黒板の字も見えないでしょう・・』
と先生は云った。
私は教室の後部に座って、黒板の字もかすれていたが、
皆もこのようにと思い、信じていたのである。
兄達、妹達もメガネをしていないので、それなりに思い込んでいたのである。
帰宅後、亡き父の妹である叔母に、
『・・今日、先生から云われたのだけれど・・
眼が悪いので・・メガネを掛けなさい・・と云われたの・・』
と私は云った。
母は外に働いていたので、
未婚の叔母に私達の兄妹は、料理、洗濯、掃除などで、甘え、育ってきたのである。
結果として、高校の入学から、私は生まれて初めて、
メガネを掛けたのである。
宅地の丘の外れから、遠望の丹沢の山並み、富士山を観た時、
くっきりとした景観が観え、行く先々の情景も余りにも明確に見えて、
私は驚き、ため息をした・・。
中学に入学し、野球部の練習に明け暮れていた。
レフト付近に3人で守備位置に付いて、外野フライのノックを受けていたのであるが、
何かしら私だけが打球の判断がのろいのである。
私は運動神経が悪く、練習すれば、打球の飛んで来る判断も良くなると、
思っていたのである。
高校時代は、授業時間以外は、メガネを掛けるのが恥ずかしく、
通学バックに仕舞い込んでいた。
そして、文学と歴史に興味を持った私は、文庫本などを読み耽り、
映画を観るために盛んに映画館に通いつめたりした。
そして布団の中で、こっそりと好色な本も読んだりしたせいか、
近眼の度数が悪化した・・。
第二章 盲目への恐怖心に慄(おのの)き
私は東京オリンピックの頃、大学を中退し、
アルバイトをしながら、映画・文学青年の真似事をしていた。
この頃は、近眼の度数も一番上の検査表がやっと見える0.1となり、
布団に入る時以外はメガネを付けていた。
こんなある日、自動車の普通車免許があれば、
何かと便利、将来に食べられなくなった時は、
タクシーの運転手になればよい、
と安易な思いで、教習所に通ったりした。
教習所の教習課程を終え、試験所で本免許の受験する為に、
教習所のマイクロバスで私達受験生10名は送って貰ったのである。
ご存知のように、普通免許の場合は、
視力は0.7以上は必要であったが、
私はメガネを掛けた上でも、視力試験で落ちたのである。
そして私だけが、とぼとぼと試験場から去ったのである。
後日、1.0が確実に視(み)得るメガネを新調したが、
レンズは厚くなり、それなりに私は気になったのである。
この後、試験場で合格し、
次兄や友人に助手席に座って貰い、指導を受けした後、
私なりに一人前のドライバーとなった。
しかし、心の奥底から、この先は一体どこまで近眼が進むのかと、
恐怖に慄いたのである。
後年、作家の曽野綾子・女史が随筆で、
盲目になりかけ、何とか手術で救われた、と読んことがあるが、
私は深く共感できたのである。
最終章 私の現役時代の時は
私は25歳で、遅ればせながら企業に何とか中途入社し、
年収より背伸びし、メガネだけは程々高価な品を買い続けた・・。
近眼が酷く、レンズも厚いので、
なるべく厚さの目立たない加工したレンズ、
そして厚さをカバーするフレームを限定して、選定してきたのである。
通勤用は0.7程度で、運転用には1.0前後の2つを所有していたが、
幸いに視力の低下は、20代の終りの頃、
0.07程度で横ばいとなり、安堵したりした。
そして50代のなかば頃からは、少し老眼を感じたが、
20代の近眼進度の悪化した時の思いを考えれば、
それなりに受け入れ微笑さえできたのである。
家内は結婚当初、視力は2.0と抜群に良かったが、
50代の初めに老眼となり、メガネに馴れていないので、
落ち着かないようすがしばしばである。
そして、ときおり老眼鏡を掛け、新聞、旅行雑誌などを読んだりしている。
この後、どこかに置き忘れて、探す時もあり、
私は微笑みながら、共に探したりすることもある。
私は近眼には、それなりに苦労し、
メガネの選定に多少のこだわりの半生でもあった。
そして、私はフレーム選定の時、
数多くの国産、海外品を愛用してきたが、
再びローデンストックかしら、と微苦笑したのである。
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私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
近眼で少し老眼が増しているが、顔の1部と思い、少しのこだわりを持っている。
一昨年の初夏の時、愛用していたメガネのフレームが痛んでいるのに気付き、
駅前のメガネ店に行き、新調した。
フレームは、その人なりの顔立ちの表情を表わし、
それなりの個性が感じられるので、
展示品の中から、私が魅了された3種類は数分で決まったが、
最終選定には30分を要したのである。
結果として、程々の品位が感じられるフレームに決定したのである。
店内にあるカタログの一面に於いては、
《・・
1991年には新しいローデンストックの哲学、
『眼鏡は人間の個性を強調するものである。
現在のフレームコレクションは斬新かつ軽量、機能的になっている。』
というブランドイメージとブランド思想のもと、“R”マーク付きの新しい
ローデンストックのロゴを採用。
・・》
と掲載されていた。
このことと私のこだわりが一致して、
確信を得ながら、決定した要因である。
そして、もう1度、少し照れながら、鏡を手前に引き寄せて、
フレームを掛けたりした・・。
第一章 初めて近眼と気付いた時
私は1960(昭和35)年の中学3年の三学期の終りの頃、
私は職員室で担任の先生から呼ばれ、
『XXくん・・あなた眼・・悪いわね・・
0.3って・・』
と担任の女の先生は、健康診断書を見ながら、私に云った・・。
『・・どうして・・今まで黙っていたの・・
メガネを掛けないと・・黒板の字も見えないでしょう・・』
と先生は云った。
私は教室の後部に座って、黒板の字もかすれていたが、
皆もこのようにと思い、信じていたのである。
兄達、妹達もメガネをしていないので、それなりに思い込んでいたのである。
帰宅後、亡き父の妹である叔母に、
『・・今日、先生から云われたのだけれど・・
眼が悪いので・・メガネを掛けなさい・・と云われたの・・』
と私は云った。
母は外に働いていたので、
未婚の叔母に私達の兄妹は、料理、洗濯、掃除などで、甘え、育ってきたのである。
結果として、高校の入学から、私は生まれて初めて、
メガネを掛けたのである。
宅地の丘の外れから、遠望の丹沢の山並み、富士山を観た時、
くっきりとした景観が観え、行く先々の情景も余りにも明確に見えて、
私は驚き、ため息をした・・。
中学に入学し、野球部の練習に明け暮れていた。
レフト付近に3人で守備位置に付いて、外野フライのノックを受けていたのであるが、
何かしら私だけが打球の判断がのろいのである。
私は運動神経が悪く、練習すれば、打球の飛んで来る判断も良くなると、
思っていたのである。
高校時代は、授業時間以外は、メガネを掛けるのが恥ずかしく、
通学バックに仕舞い込んでいた。
そして、文学と歴史に興味を持った私は、文庫本などを読み耽り、
映画を観るために盛んに映画館に通いつめたりした。
そして布団の中で、こっそりと好色な本も読んだりしたせいか、
近眼の度数が悪化した・・。
第二章 盲目への恐怖心に慄(おのの)き
私は東京オリンピックの頃、大学を中退し、
アルバイトをしながら、映画・文学青年の真似事をしていた。
この頃は、近眼の度数も一番上の検査表がやっと見える0.1となり、
布団に入る時以外はメガネを付けていた。
こんなある日、自動車の普通車免許があれば、
何かと便利、将来に食べられなくなった時は、
タクシーの運転手になればよい、
と安易な思いで、教習所に通ったりした。
教習所の教習課程を終え、試験所で本免許の受験する為に、
教習所のマイクロバスで私達受験生10名は送って貰ったのである。
ご存知のように、普通免許の場合は、
視力は0.7以上は必要であったが、
私はメガネを掛けた上でも、視力試験で落ちたのである。
そして私だけが、とぼとぼと試験場から去ったのである。
後日、1.0が確実に視(み)得るメガネを新調したが、
レンズは厚くなり、それなりに私は気になったのである。
この後、試験場で合格し、
次兄や友人に助手席に座って貰い、指導を受けした後、
私なりに一人前のドライバーとなった。
しかし、心の奥底から、この先は一体どこまで近眼が進むのかと、
恐怖に慄いたのである。
後年、作家の曽野綾子・女史が随筆で、
盲目になりかけ、何とか手術で救われた、と読んことがあるが、
私は深く共感できたのである。
最終章 私の現役時代の時は
私は25歳で、遅ればせながら企業に何とか中途入社し、
年収より背伸びし、メガネだけは程々高価な品を買い続けた・・。
近眼が酷く、レンズも厚いので、
なるべく厚さの目立たない加工したレンズ、
そして厚さをカバーするフレームを限定して、選定してきたのである。
通勤用は0.7程度で、運転用には1.0前後の2つを所有していたが、
幸いに視力の低下は、20代の終りの頃、
0.07程度で横ばいとなり、安堵したりした。
そして50代のなかば頃からは、少し老眼を感じたが、
20代の近眼進度の悪化した時の思いを考えれば、
それなりに受け入れ微笑さえできたのである。
家内は結婚当初、視力は2.0と抜群に良かったが、
50代の初めに老眼となり、メガネに馴れていないので、
落ち着かないようすがしばしばである。
そして、ときおり老眼鏡を掛け、新聞、旅行雑誌などを読んだりしている。
この後、どこかに置き忘れて、探す時もあり、
私は微笑みながら、共に探したりすることもある。
私は近眼には、それなりに苦労し、
メガネの選定に多少のこだわりの半生でもあった。
そして、私はフレーム選定の時、
数多くの国産、海外品を愛用してきたが、
再びローデンストックかしら、と微苦笑したのである。
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