夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

都心にあこがれ、そして長年苦楽を共にした私は、定年後は遥か遠い存在となり・・。

2013-06-04 16:50:44 | 定年後の思い

昨日、私たち夫婦は、久々に新宿の『伊勢丹』(デパート)に買い物に行き、
帰路も小田急線を利用して、最寄駅のひとつの『成城学園前』で下車した後、
私は人出の多い都心は、定年後は何かと苦手意識を増しているので、
地元の地域に還(かえ)った、と安堵したりした・・。

私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の高齢者の68歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後35年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

私が住んでいる近くに生家もあり、この地域で1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けて、
結婚した前後の5年間を除き、これまでの60数年間をこの地で過ごしてきた・・。
                    
過日、正井泰夫・監修の『東京の昭和 ~地図で暮らしを読む』(青春出版社)を再読したりした。
概要としては首都の東京都心の敗戦後から今日まで急激に変貌してきた実態を
それぞれの街並みを誰でも理解できるように表現した本であった。

私は読みながら、そうでしたよねぇ、と感じたり、未知のこともあり改めて教示されたりした。
こうした中で、六本木の外れの『東京ミッドタウン』に関しての記事を読んだりすると、
遥か遠い世界のようだ、と微苦笑しながら感じたりした。
          

私は2004(平成16)年の秋に定年退職した後、
少しばかり理由により年金生活に入り、平素の買物は私は自主的に専任担当となり、
もとより独りで買い物に行ったりしているので、
家内と共に2人で買物に行くことは月に1度ぐらいとなっている。

私は自宅から最寄のスーパーに行くことが多いが、
週に1度ぐらいは京王線の『仙川』駅、小田急線の『喜多見』駅などの駅前に散策を兼ねた出かけて、
本屋に寄ったり、コーヒーショップの『ドトール』でコーヒーを飲んだりしている。

このような生活を9年近くしていると、調布市の中核の京王線の『調布』駅の駅前さえも、
人の多さに驚き、まして『新宿』駅の付近の専門店、デパートに買物をしたりすると、
ただ人の多さに圧倒されて、疲れが増すのが定年後の心情となっている。

ときおり家内と京王線の『調布』の駅前に買物に行ったりしたが、
『パルコ』の中の衣料専門店で家内が婦人衣料品を眺めだした時、
私は『ドトール』でコーヒーを飲んで待っている、と告げて、
私は本屋に寄り、一冊の本を買い求めて、『ドトール』で煙草を喫いながら、本を読んだりすることが多い。

私は高齢者4年生の68歳の身であるが、齢を重ねるたびに、人の多い場所は疲れ果てて、
苦手意識を増している。
          

        第一章

私の現役サラリーマン時代は、中小業の音楽業界の苦楽が激しいあるレコード会社に35年ばかり勤め、
音楽に直接携わる制作畑でなく、管理畑の情報システムの部署が多く、
開発・運営に奮闘していたので、大半は都心の本社に勤務していた。

私は地元の調布市の小学、中学校を卒業した後、
1960〈昭和35〉年の春から都心の高校に通学した。

それまでは幼年期に於いて、母に連れられ、新宿の伊勢丹(デパート)に行ったりして、
階段の踊り場、そして新宿の地下の通り道などで、
不幸にして戦争で身体の一部を失くされ、軍歌の音色とも、その容姿を見るのが恐かった。

小学校の高学年になると、付近の調布、布田、千歳烏山の映画館に、独りでよく通ったりした
映画少年のひとりで、
こうした中、次兄から都心の日比谷にある映画を観ようと、
新宿から築地行きの都電を乗ったが、乗り物の酔いで私はしょげたりした・・。

確かあの当時の都電は、運賃は均一13円と記憶しているが、
下車したら当然もう一度支払う必要があったので、日比谷まで頑張れ、と次兄に励まされ、
青ざめた顔で日比谷で降りた記憶が残っている。
          
高校は中野区に所在していたが、新宿を経由し通学したので、
荻窪行きの都電を利用したり、或いは中央線で中野駅から登校したりした。
下校は殆ど新宿の繁華街を通り、食べ盛りであったので、
街中の食堂でカツ丼、親子丼、ラーメンを午後の3時過ぎに食べることが多かった。

そして、独りで映画館に立ち寄ったりしていた。
こうした中で、『小田急デパート』が開業したり、やがて『京王デパート』が開業されたりし、
特に新宿の西口は激しく変貌し、その後に高層ビルが林立していった。

こうした中、私は読書も好きだったので、神保町の古本街に行ったり、
ときにはロードショウと称された映画の封切館で上映された日比谷の映画街なども通ったりしていた。

1964〈昭和39〉年の秋に東京オリンピックが開催された数年前の出来事である。

           
        第二章

大学に入学してからは、映画鑑賞に没頭していたので、新宿、日比谷の映画館を中心で鑑賞していたが、
名画が上映すると名高い池袋の『人生座』と銀座の『並木座』は、私なりに欠かせない映画館となっていた。

東京オリンピックの開催していた1964(昭和39)年の秋、
京橋の『近代美術館』に於いて、日本映画の昭和初期からの名画特集を上映していたので、
私は日参したりしていた。

そして映画を観る以外は、新宿の『紀伊国屋書店』、このビルの中にある喫茶の紅茶専門店を利用したり、
ときには新宿御苑を散策したりした。

その後、映画の脚本家になりたくて、大学を中退し、芸能専門養成所のシナリオ科に通った頃は、
銀座の『松坂屋』の裏手のビルに教室があり、数寄屋橋から歩いたりしたが、
お金に余裕のない私は、大人の街である銀座の高級店には縁がなく、
もっぱら大衆向けの店を利用したりしていた。

そして映画青年の真似事の生活を過ごし、
アルバイトや随時契約の単発仕事で何とか生計を立てていたが、
養成所の講師の知人の新劇の長老から、
映画は益々衰退して、脚本家で飯(めし)が食えるのは、少ないので、
同じ創作するならば小説を書きなさい、とアドバイスを頂いたりした。

そして私は文学青年に転身して、契約社員をしながら習作をし、
こうした中で純文学の小説の新人募集に3回応募したが、最終予選の寸前で敗退したりし、
叔父からは、30過ぎた時、きちんと家庭を持てるだけの力があるの、と言われたりしたので、
根拠のない自信ばかり過ごしてきた私でも、敗北宣言をして、通常の社会人に戻る決心をした。
          
もとよりこの時代は高度成長期であったが、大学を中退し、企業の中途入社は容易ではなかったので、
やむなくコンピューターの専門学校でソフト科に1年間学び、
何とかこの当時は大手の音響・映像メーカーに中途入社できたのは、
25歳を過ぎた1970(昭和45)年の春であった。

この音響・映像メーカー会社は、この中のひとつとして音楽事業本部があり、
レコードの有力な幾つかのレーベルを管轄していた。
私は入社試験の面接の最終時に、テレビ・ステレオなどのハード系より、
何かしらソフト系のレコード部門に心身相応しいと思っていたので、懇願して配属して貰った。

入社した直後、現場を学べ、と指示されて、
横浜の新子安にある工場の一角で、商品管理の部署に勤めていた時、
まもなく大手のレーベ関係ルが、レコード会社として独立した外資系の会社となり、私も転属された。
          
やがて私は、10ヵ月後に本社のコンピュータ専任として異動させられた。
本社は赤坂見付駅前の東急ホテル・ビルの一角にあり、私は1971(昭和46)年の早春から数が月程、通った。
この東急ホテル・ビルの2階は小売専門店が並んで、
おしゃれな高級店も数多くあったが、私は喫茶店を利用できる程度であった。

この当時も赤坂は、銀座と同様に大人の街であったので、
若いサラリーマンの身の私は、TBS方面の小料理店で昼食を食べたりした。

まもなく本社が六本木に移転したので、
この後の1992(平成4)年までの20年ばかり、私は六本木の界隈の空気と共に過ごした。


        第三章            

1971(昭和46)年5月に本社が六本木の所在となり、
四丁目の交差点から100メートルぐらいにあるビルが勤務地となった。
この当時の四丁目の四つ角に於いては、
本屋の『誠志堂書店』、喫茶風の飲食店の『アマンド』、三菱銀行があり、
最寄には『俳優座』や中華料理の『楓林』があった。

そして近くには都の経営する大衆的な『六本木食堂』があったり、
イタリア料理の『カーディナル』、日本料理の大衆店の『正直屋』などの小料理店があったりした。

喫茶店は洋菓子の『クローバー』、『貴奈』をはじめとし、数多くの喫茶店があった。
こうした中で 『俳優座』のビルが新築過ぎた頃から、街は急速に変貌をはじめた・・。

レコード店の大型店の『WAVE』、そして本屋の『青山ブックセンター』に通ったり、
或いは日本料理の『美濃吉』を利用したりしていた。
          
こうした中、 私は1972(昭和47)年頃から、シャンソンに熱中したので、
銀座の『銀巴里』でコーヒーを飲みながら、数多くのシャンソン歌手の唄声を聴いたりした。
そして、ときには水割りのウィスキーを呑みながら『蛙たち』でシャンソンに酔いしれた。
或いは、渋谷にもカンッオーネを主体の店にも足を運んだりした。

この当時、私の勤務上、兄弟会社のようなレコード会社が原宿のピアザビルにあって、
原宿駅、表参道などからシステムの業務提携の関係で数年通ったりした。


この間、私は六本木にある会社に通勤していたが、この六本木のはずれに、防衛庁があった。
六本木の地下鉄の駅を出ると、四丁目の交差点があり、
ここから200メートル前後に東西南北に小さな複合ビルが立ち並びんでいた。

この繁華街のはずれに防衛庁があったので、何となくとりとめのない感じを持った。
防衛庁の塀は、安すぽいコンクリートで囲みを造り、正門は頼りのない感じであった。
最初、この正門を通った時、私が高校一年の時の1960〈昭和35)年の安保闘争の時、
全学連等のデモ隊が押し寄せた場所だったのか、と考え深げであった。
          

私はいつも退社後、地下鉄の駅に向かうと、繁華街を目指した人々とすれ違った。
ビジネスマンは少なく、遊びに来ている人のほうが圧倒的に多かった。
この繁華街のはずれに防衛庁があったので、誰しも違和感を持っただろう・・。

その後、地下鉄の千代田線が開通となり、『乃木坂』駅が出来て、この駅から防衛庁の正門前を通り、
四丁目の交差点までの大通りに客足が増えた。
確か1982〈昭和57)年頃と記憶しているが、防衛庁も塀、門扉を一新し、小奇麗になった。

そして私は退社後、この通りを歩いて『乃木坂』駅に向かった。
途中、黒人兵が日本の若い娘と腕を組んだり、或いは若い娘のグループたち、
そして30前後の女性の一部が、ノーブラで高価なブラウスを召して、さっそうと歩いてくるのを、
パブル経済の最中といえども、街中でもかょ、と私は苦笑したりした。

その後、ディスコ・ブームとなり、六本木の繁華街は益々大人のおもちゃ箱をひっくり返したの様に、
活気と喧騒につつまれていた。

しかし、この大通りの200メートル前後の防衛庁だけは、いつもひっそりしていた。

その後、防衛庁は市ケ谷にある自衛隊の基地に移転したが、
この跡地から江戸時代の小判が出てきた、と風の噂さで聴いた。

このようなことを思い馳せたりしたが、六本木のあの時代の空気を知っているひとりとして、
私は防衛庁の跡地の「東京ミッドタウン」は魅力もなく、興味がないのである。
          
1992(平成4)年の5月過ぎに、レコード会社の合併により、渋谷の外れの勤務となり、
私が20代の後半に散策したパルコ、スベイン坂、道玄坂を懐かしんだりした後、
東急の文化村を知ったりした。

私の現役時代は、中小業の会社であり、管理畑が大半であったので、
世間がよくいう社用族として、銀座の一流と称されるバー、料亭などの世界は知らない。

従って、私は大手企業で昇進を重ねるエリートの方たちとは、程遠いサラリーマンの身なので、
シティ・ホテルなどに関しては、『帝国ホテル』、『ニューオータニ』、
『六本木プリンス』、『京王プラザ』等ぐらいしか利用した程度である。
          
つたない私としては、駅付近の商業ビル内の食事処、街中の専門料理店、
居酒屋をたびたび利用していた。
そして、ときには血気盛んな若き頃は、風俗店に行ったりしていた。


       最終章 

定年退職後、都心の人混みに疲れたせいか、齢を重ねたせいか、
六本木ヒルズ、東京ミッドタウン、新丸ビル等の興味がない。

ときおり、新宿の『伊勢丹』、『小田急デパート』、『京王デパート』、
或いは登山、ハイキングのアウトドアの専門衣料店で買物はするが、
帰路の最寄の『成城学園前』の駅ビル、付近の食事処で食事をするのが、
何かしらほっとし、気楽に食べ、呑んだりしている。

日常の多くは、小田急腺の『成城学園前』、『喜多見』、『狛江』、
京王線であったならば、『仙川』、『つつじヶ丘』、『調布』の駅付近で充分と思っている。
          
何より気楽なのは、自宅の小庭の落葉樹の四季折々のうつろいを眺めながら、
コーヒーか煎茶を飲みながら、家内とおしゃべりをしたり、
食事をするのが心身の波長に最良となったりしている。

或いは私は独りで、自宅の周辺を散策したり、或いは川沿いの遊歩道を歩いたりしながら、
小公園の常緑樹、落葉樹の季節のうつろいに心を寄せたりするのが多い。
                         

私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味のひとつであり、ときたま旅行を重ねているが、
自宅から一時間ばかりの東京駅を利用する時が多いが、高層ビルの並ぶ都心を眺めたりすると、
心の中で、めまいを感じたりしていることが多い。

そして旅先で料理、和菓子、日本酒をほめ、仲居さんにからかわれたり、
或いは温泉に入浴したりして、
その地の風土を愛(め)でるのが心の良薬となっている。

このように長年に於いて苦楽を共にした都心であったが、
私の心は遥か彼方遠くなっている。

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