私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨日、私の現役サラリーマンの時代に勤めていた中のひとつの会社の懇親会が開催されて、
出席した・・。
私は25歳を過ぎた1970(昭和45)年の春、
この当時は大手の音響・映像メーカーのある会社に、何とか中途入社できた。
そしてこの音響・映像メーカー会社は、この中のひとつとして音楽事業本部があり、
レコードの有力な幾つかのレーベルを管轄していた。
私は入社試験の面接の最終時に、テレビ・ステレオなどのハード系より、
何かしらソフト系のレコード部門に心身相応(ふさわ)しいと思っていたので、懇願して配属して貰った。
入社した直後、現場を学べ、と指示されて、
横浜の新子安にある工場の一角で、商品管理の部署に勤めていた時、
まもなく大手のレーベ関係ルが、レコード会社として独立した外資系の会社となり、私も転属された。
やがて私は、10ヵ月後に本社のコンピュータ専任として異動させられた。
本社は赤坂見付駅前の東急ホテル・ビルの一角にあり、私は1971(昭和46)年の1月から数が月程、通った後、
5月に本社が六本木に移転した。
この後の海外の親会社の要請で、
資本系列が同じのあるレコード会社と統合される1993(平成5)年の4月までの22年ばかり、
私は六本木の界隈の空気と共に過ごした。
その後の私は統合されたレコード会社に勤め、渋谷に近い池尻大橋の本社に勤め、
やがて音楽業界がリストラ烈風となり、
まもなく私は取引先のCD、DVDなどの音楽商品を扱う物流会社に出向となり、
やがて2004〈平成16〉年の秋に定年退職となった。
今回の懇親会は、私が25歳の時に新設されたレコード会社であり、
統合されるまでの22年間勤め会合であり、
前回は2000〈平成12〉年以来で、久々であった。
こうした中で社員の人事募集は、統合されるまでであったので、
一番若い人でも、40歳以上であり、現在でも音楽業界で栄進されご活躍される方もいるが、
殆どの方は第一線を離れた65歳以上の方たちであった。
そして本社が22年ばかり六本木に所在していたので、懇親会の場所も六本木となり、
一次会は午後の2時から、その後の二次会は午後の5時半と、
幹事役の方の指定文書に認(したた)められていた。
私は自宅の付近から路線バスに乗り、そして小田急線の成城学園前から千代田線の乃木坂で下車した。
私の現役時代に通勤したコースであったが、六本木の情景は大幅に変貌してきた。
1971(昭和46)年5月に本社が六本木の所在となった当時は、
中心地の四丁目の交差点から100メートルぐらいにあるビルで勤務し、
この当時の四丁目の四つ角に於いては、
本屋の『誠志堂書店』、そして喫茶風の飲食店の『アマンド』、或いは三菱銀行の六本木支店があり、
最寄には『俳優座』や中華料理の『楓林』があった。
そして近くには都の経営する大衆的な『六本木食堂』があったり、
イタリア料理の『カーディナル』、日本料理の大衆店の『正直屋』などの小料理店があったりした。
喫茶店は洋菓子の『クローバー』、『貴奈』をはじめとし、数多くの喫茶店があった。
こうした中で 『俳優座』のビルが新築過ぎた頃から、街は急速に変貌をはじめた・・。
やがてレコード店の大型店の『WAVE』、そして本屋の『青山ブックセンター』出来たり、
或いは日本料理の『美濃吉』を利用したりしていた。
こうした中で六本木のはずれに、防衛庁があった。
六本木の地下鉄の駅を出ると、四丁目の交差点があり、
ここから200メートル前後に東西南北に小さな複合ビルが立ち並びんでいた。
この繁華街のはずれに防衛庁があったので、何となくとりとめのない感じを持った。
防衛庁の塀は、安すぽいコンクリートで囲みを造り、正門は頼りのない感じであった。
私は最初にこの正門を通った時、私が高校一年の時の1960〈昭和35)年の安保闘争の時、
全学連等のデモ隊が押し寄せた場所だったのか、と考え深げであった。
私はいつも退社後、地下鉄の駅に向かうと、繁華街を目指した人々とすれ違った。
ビジネスマンは少なく、遊びに来ている人のほうが圧倒的に多かった。
この繁華街のはずれに防衛庁があったので、誰しも違和感を持っただろう・・。
その後、地下鉄の千代田線が開通となり、『乃木坂』駅が出来て、この駅から防衛庁の正門前を通り、
四丁目の交差点までの大通りに客足が増えた。
確か1982〈昭和57)年頃と記憶しているが、防衛庁も塀、門扉を一新し、小奇麗になった。
そして私は退社後、この通りを歩いて『乃木坂』駅に向かった。
途中、黒人兵が日本の若い娘と腕を組んだり、或いは若い娘のグループたち、
そして30前後の女性の一部が、ノーブラで高価なブラウスを召して、さっそうと歩いてくるのを、
パブル経済の最中といえども、街中でもかょ、と私は苦笑したりした。
その後、ディスコ・ブームとなり、六本木の繁華街は益々大人のおもちゃ箱をひっくり返したの様に、
活気と喧騒につつまれていた。
しかし、この大通りの200メートル前後の防衛庁だけは、いつもひっそりしていた。
その後、防衛庁は市ケ谷にある自衛隊の基地に移転したが、
この跡地から江戸時代の小判が出てきた、と風の噂さで聴いた。
やがて防衛庁の跡地の「東京ミッドタウン」が出来たり、
この少し前には四丁目の近くに「六本木ヒルズ」が完成したりしたが、
私は六本木のあの時代の空気を知っているひとりとして、
この威容なビル群は、魅力もなく興味がないのである。
そして指定された場所に私は30分前に到着したが、
早くも30数名の方が談笑されていた。
私はこの会社の時は、管理畑の商品管理、情報のコンピュータ関連などを務めいたが、
制作畑の邦楽、洋楽のポピュラー、クラシック、録音など、
営業畑の販促、営業所、そして総務、人事、経理など多彩な人々の中、
私はビールを飲みながら、盛んに談笑を重ねた。
そして『XXさん、お元気そうで・・』と私は殆どの人に話しかけて、
しばし談笑したりした。
或いは『XXさん、少しお肥(ふと)りになられましたねぇ・・』
と懐かしい人から声を私は声をかけられ、談笑したりしていた。
こうした一次会の出席者は90名前後の中、首都圏にお住まいの方が圧倒的に多い中、
地方の都市にお住まいの方も参加して頂き、更に盛会となった。
そして今回やむなく参列できなかった82名方もいたが、
何よりも無念ながら早くも亡くなわて天上の人となった30名の方に、
私たち一同は黙祷を捧げたりした。
このように3時間半は早くも過ぎ去り、散会となった。
その後の二次会は近くのワインを中核とした食事処で、
40名近くの人の中、やはり私もワインを飲みながら、各部署に勤められた方たちと談笑を重ねたりした。
そして9時過ぎになると、有志の10名の方たちと三次会となり、
付近の食事処で、ビール、日本酒を飲みながら談笑し、
お開きとなったのは夜の11時過ぎであった。
私は名残り欲しく、また逢う日まで、と言ったりし、独り『乃木坂』駅に向かい、
途中でタクシーに乗車し、自宅に向かい、帰宅したのは12時少し前であった。
このコースは、私が40歳の前後に於いて、システム開発、部分改定などで、
深夜まで奮闘し、帰宅は深夜の2時過ぎが多い時期でタクシーを利用してきたので、
30年前の頃だった、と思い馳せたりし、車窓から懐かしい情景を見たりした。
尚、一次会は、『Paradis Tokyo(パラディ・ウキョウ)』、
二次会は、『LB6(エルビーシックス)』、そして三次会は『ようざん』であったが、
もとよりプライベート保護に伴い、撮影はお互いに自粛したので、今回も心象記となったことを付記する。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪strong>
にほんブログ村
昨日、私の現役サラリーマンの時代に勤めていた中のひとつの会社の懇親会が開催されて、
出席した・・。
私は25歳を過ぎた1970(昭和45)年の春、
この当時は大手の音響・映像メーカーのある会社に、何とか中途入社できた。
そしてこの音響・映像メーカー会社は、この中のひとつとして音楽事業本部があり、
レコードの有力な幾つかのレーベルを管轄していた。
私は入社試験の面接の最終時に、テレビ・ステレオなどのハード系より、
何かしらソフト系のレコード部門に心身相応(ふさわ)しいと思っていたので、懇願して配属して貰った。
入社した直後、現場を学べ、と指示されて、
横浜の新子安にある工場の一角で、商品管理の部署に勤めていた時、
まもなく大手のレーベ関係ルが、レコード会社として独立した外資系の会社となり、私も転属された。
やがて私は、10ヵ月後に本社のコンピュータ専任として異動させられた。
本社は赤坂見付駅前の東急ホテル・ビルの一角にあり、私は1971(昭和46)年の1月から数が月程、通った後、
5月に本社が六本木に移転した。
この後の海外の親会社の要請で、
資本系列が同じのあるレコード会社と統合される1993(平成5)年の4月までの22年ばかり、
私は六本木の界隈の空気と共に過ごした。
その後の私は統合されたレコード会社に勤め、渋谷に近い池尻大橋の本社に勤め、
やがて音楽業界がリストラ烈風となり、
まもなく私は取引先のCD、DVDなどの音楽商品を扱う物流会社に出向となり、
やがて2004〈平成16〉年の秋に定年退職となった。
今回の懇親会は、私が25歳の時に新設されたレコード会社であり、
統合されるまでの22年間勤め会合であり、
前回は2000〈平成12〉年以来で、久々であった。
こうした中で社員の人事募集は、統合されるまでであったので、
一番若い人でも、40歳以上であり、現在でも音楽業界で栄進されご活躍される方もいるが、
殆どの方は第一線を離れた65歳以上の方たちであった。
そして本社が22年ばかり六本木に所在していたので、懇親会の場所も六本木となり、
一次会は午後の2時から、その後の二次会は午後の5時半と、
幹事役の方の指定文書に認(したた)められていた。
私は自宅の付近から路線バスに乗り、そして小田急線の成城学園前から千代田線の乃木坂で下車した。
私の現役時代に通勤したコースであったが、六本木の情景は大幅に変貌してきた。
1971(昭和46)年5月に本社が六本木の所在となった当時は、
中心地の四丁目の交差点から100メートルぐらいにあるビルで勤務し、
この当時の四丁目の四つ角に於いては、
本屋の『誠志堂書店』、そして喫茶風の飲食店の『アマンド』、或いは三菱銀行の六本木支店があり、
最寄には『俳優座』や中華料理の『楓林』があった。
そして近くには都の経営する大衆的な『六本木食堂』があったり、
イタリア料理の『カーディナル』、日本料理の大衆店の『正直屋』などの小料理店があったりした。
喫茶店は洋菓子の『クローバー』、『貴奈』をはじめとし、数多くの喫茶店があった。
こうした中で 『俳優座』のビルが新築過ぎた頃から、街は急速に変貌をはじめた・・。
やがてレコード店の大型店の『WAVE』、そして本屋の『青山ブックセンター』出来たり、
或いは日本料理の『美濃吉』を利用したりしていた。
こうした中で六本木のはずれに、防衛庁があった。
六本木の地下鉄の駅を出ると、四丁目の交差点があり、
ここから200メートル前後に東西南北に小さな複合ビルが立ち並びんでいた。
この繁華街のはずれに防衛庁があったので、何となくとりとめのない感じを持った。
防衛庁の塀は、安すぽいコンクリートで囲みを造り、正門は頼りのない感じであった。
私は最初にこの正門を通った時、私が高校一年の時の1960〈昭和35)年の安保闘争の時、
全学連等のデモ隊が押し寄せた場所だったのか、と考え深げであった。
私はいつも退社後、地下鉄の駅に向かうと、繁華街を目指した人々とすれ違った。
ビジネスマンは少なく、遊びに来ている人のほうが圧倒的に多かった。
この繁華街のはずれに防衛庁があったので、誰しも違和感を持っただろう・・。
その後、地下鉄の千代田線が開通となり、『乃木坂』駅が出来て、この駅から防衛庁の正門前を通り、
四丁目の交差点までの大通りに客足が増えた。
確か1982〈昭和57)年頃と記憶しているが、防衛庁も塀、門扉を一新し、小奇麗になった。
そして私は退社後、この通りを歩いて『乃木坂』駅に向かった。
途中、黒人兵が日本の若い娘と腕を組んだり、或いは若い娘のグループたち、
そして30前後の女性の一部が、ノーブラで高価なブラウスを召して、さっそうと歩いてくるのを、
パブル経済の最中といえども、街中でもかょ、と私は苦笑したりした。
その後、ディスコ・ブームとなり、六本木の繁華街は益々大人のおもちゃ箱をひっくり返したの様に、
活気と喧騒につつまれていた。
しかし、この大通りの200メートル前後の防衛庁だけは、いつもひっそりしていた。
その後、防衛庁は市ケ谷にある自衛隊の基地に移転したが、
この跡地から江戸時代の小判が出てきた、と風の噂さで聴いた。
やがて防衛庁の跡地の「東京ミッドタウン」が出来たり、
この少し前には四丁目の近くに「六本木ヒルズ」が完成したりしたが、
私は六本木のあの時代の空気を知っているひとりとして、
この威容なビル群は、魅力もなく興味がないのである。
そして指定された場所に私は30分前に到着したが、
早くも30数名の方が談笑されていた。
私はこの会社の時は、管理畑の商品管理、情報のコンピュータ関連などを務めいたが、
制作畑の邦楽、洋楽のポピュラー、クラシック、録音など、
営業畑の販促、営業所、そして総務、人事、経理など多彩な人々の中、
私はビールを飲みながら、盛んに談笑を重ねた。
そして『XXさん、お元気そうで・・』と私は殆どの人に話しかけて、
しばし談笑したりした。
或いは『XXさん、少しお肥(ふと)りになられましたねぇ・・』
と懐かしい人から声を私は声をかけられ、談笑したりしていた。
こうした一次会の出席者は90名前後の中、首都圏にお住まいの方が圧倒的に多い中、
地方の都市にお住まいの方も参加して頂き、更に盛会となった。
そして今回やむなく参列できなかった82名方もいたが、
何よりも無念ながら早くも亡くなわて天上の人となった30名の方に、
私たち一同は黙祷を捧げたりした。
このように3時間半は早くも過ぎ去り、散会となった。
その後の二次会は近くのワインを中核とした食事処で、
40名近くの人の中、やはり私もワインを飲みながら、各部署に勤められた方たちと談笑を重ねたりした。
そして9時過ぎになると、有志の10名の方たちと三次会となり、
付近の食事処で、ビール、日本酒を飲みながら談笑し、
お開きとなったのは夜の11時過ぎであった。
私は名残り欲しく、また逢う日まで、と言ったりし、独り『乃木坂』駅に向かい、
途中でタクシーに乗車し、自宅に向かい、帰宅したのは12時少し前であった。
このコースは、私が40歳の前後に於いて、システム開発、部分改定などで、
深夜まで奮闘し、帰宅は深夜の2時過ぎが多い時期でタクシーを利用してきたので、
30年前の頃だった、と思い馳せたりし、車窓から懐かしい情景を見たりした。
尚、一次会は、『Paradis Tokyo(パラディ・ウキョウ)』、
二次会は、『LB6(エルビーシックス)』、そして三次会は『ようざん』であったが、
もとよりプライベート保護に伴い、撮影はお互いに自粛したので、今回も心象記となったことを付記する。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪strong>
にほんブログ村