私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して南の空に向かい、黙祷したのは朝の6時半過ぎであった。
私は1944〈昭和19)年9月下旬に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に、日本は敗戦となった。
そして敗戦時は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
少なくとも沖縄戦が事実上集結したこの日の6月23日は、
『沖縄慰霊の日』と命名された厳粛な日として認識している。
恥ずかしいことを告白すれば、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年、
私は大学2年で中退し、映画、文学青年の真似事をしている中、
たまたま中野好夫、新崎盛輝の両氏による共著『沖縄問題二十年』(岩波新書)を読み、
高校時代以来、何かと時事に興味を抱き、ベトナム問題と同様に
まとまりつかない沖縄問題に思考に整理できず、深く悩んでいた・・。
そしてこの本に出会ったのは、21歳の時だった。
若き私は感受性が豊かな時であったので、年長者の確かなアドバイスを頂いたようになり、
この本の言葉に導かれて、私は沖縄に対しての理論整然と見方として教示され、基軸となった・・。
これ以降、やがて社会人となり、そして定年退職後の生活を送っている今でも、
沖縄、オキナワ・・ことばを読んだり聴くたびに、
何かしら今だに後ろめたい気持ちを引き摺(ず)っている。
私はこの一冊の本に寄り、安易な沖縄観光気分で訪れる避け、
この後30年後の50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、更に思いを深めたりした・・。
もとより太平洋戦争で、日本の国土である沖縄列島が直接に戦闘地域となり、
軍人の死もさることながら、一般の人々までが戦場の中で多大な犠牲の上、
沖縄戦は事実上集結した日である。
そして沖縄県は『慰霊の日』として、この日は戦没者追悼式が行われている。
何よりも戦時中、日本の本州の防波堤となり、
直接にアメリカ軍との激戦地となり、民間の住民まで戦禍にまみれ、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。
このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
この『慰霊の日』は、沖縄に向って、満22歳より黙祷をしている。
私よりご年配の方はともかく、私より若き世代の人たちの一部に、
『沖縄慰霊の日』の由来を誰でも解り易く、簡潔に記した書物は、
私が知る限り、知識人の藤野邦夫(ふじの・くにお)氏の書かれた『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)であり、
この中で、この『沖縄慰霊の日』を明記している。
そして私は若き人たちと共有致したく、今回あえて転記させて頂く。
《・・
太平洋戦争が最終段階に入った1944年(昭和19年)3月、
本土決戦を引き延ばす目的で、沖縄に第32軍(牛島満・司令官)が配備された。
そして全島を要塞化する計画が推進されたが、
10月10日の大空襲で守護隊は大きな被害を受けて、那覇市は全焼。
548人の一般市民の死者をだした。
この後、守護隊の主力部隊が、フィリピン作戦、に狩り出された為、
軍首脳部は県民の中から、人員を補充せざるを得なかったのである。
沖縄戦が始まった時点の兵力は、約10万人とされるが、その3の1は、前記のような補充兵だった。
これに対し、ミニッツ太平洋艦隊司令官の基に、バックナー中将の率いるアメリカ軍の艦船は、約1500隻。
兵力は17万3000人で、後方支援部隊も合せると、実に44万人に達したという。
兵器と爆薬の面でも、心もとない守護隊に対して、アメリカ軍は圧倒的に優位にたっていたのである。
このアメリカ軍が、1945(昭和20年)年3月23日、沖縄諸島に激しい艦砲射撃をくわえた。
彼等は、26日に慶良間列島を確保した後、4月1日から沖縄本島に対する上陸作戦を開始した。
日本軍の主力が、首里を中心に配備されていたので、アメリカ軍はさほどの抵抗も受けずに上陸を完了し、
沖縄本土は南北に分断した。
この後、アメリカ軍は、南部にいた日本軍に対する総攻撃を開始。
両軍の激戦は40日におよび、劣悪な条件で戦った日本軍の抗戦には、すさまじいものであった。
しかし、この戦いの為、守護隊の主力は壊滅した。
残った約4万人の兵力は、5月22日に、更に南部に撤退した。
ここには推定で約10万人の県民も避難した為、沖縄戦は過酷な様相を呈することとなった。
勢いに乗るアメリカ軍の激烈な攻撃にさらされる極限状況の中で、
日本軍による一般人の虐殺、食糧の強奪などが発生。
更に、女子学生で組織された看護隊『ひめゆり部隊』の悲劇にみられるような、
県民達の凄惨な事件が続発した。
そして6月23日、牛島司令官の自決。
ここで日本軍の組織的な抗戦は終結した。
しかし、引き続き行なわれたアメリカ軍の掃討作戦で、6月末までに、約9000人の日本兵が犠牲となった。
この三ヶ月間の戦闘死者は、日本軍6万5908人、県出身の軍人2万8228人、
アメリカ軍1万2281人で、計10万5417人。
そして一般の県民は、推定で9万4000人が亡くなった。
軍人よりも一般人の犠牲者が多い所が、沖縄戦の非人道的な面が如実に現れている。
沖縄県では、沖縄が事実上終結した6月23日を『慰霊の日』とし、1951(昭和26)年から祝祭日に指定。
糸満市の『平和記念公園』で、戦没者追悼式が行なわれている。
・・》
注)原文よりあえて改行を多くした。
私は転記しながら、改めて再確認しながら、戦争とは、かくも果てなき残虐の行為である。
私は50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、初めて沖縄諸島を観光で訪れたが、
この中のある時、海原を観ていた時、ガイドさんが、
『あの海の彼方は・・アメリカの艦隊でいっぱいだった・・
とご年配の方から教えて貰いました・・』
と私はガイドさんから教えて頂いた。
そして私は、前方の海原にアメリカの艦隊がひしめき、
そこから艦砲射撃がされ、沖縄本土が被弾する状況を想像した時、
私は胸が熱くなり、そして涙があふれていた・・。
私はこの日の『沖縄慰霊の日』、そして原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、8月9日の『長崎被爆』、
そして 敗戦となった8月15日は、
たった一枚の赤紙(召集令状)で徴兵され、戦場で亡くなわれたお方たち、
或いは戦時下、空襲などで亡くなわれた多くの人々に哀悼の意を表して、
毎年この日に黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
尚、掲載した数々の写真は、過ぎし2007〈平成19〉年10月29日から8泊9日間で、
私たち夫婦は家内の母と共に、沖縄本島の一部を訪れた時に撮ったものである。
1930〈昭和5〉年生まれの家内の母は、
この数か月前に、死ぬまでに一度は沖縄の《ひめゆり塔》を参拝したい、と家内に言ったりした。
家内の母は、戦時中は(新潟県)高田の女学校時代に於いて、
軍事工場の支援に強制従事させられた体験を含めて、
何か平和祈念公園の中で、沖縄戦で亡くなれた新潟県の墓地にも花をささげたい、
このような慰霊の旅路を、この沖縄の前半の時に私たち3人は巡礼した。
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洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して南の空に向かい、黙祷したのは朝の6時半過ぎであった。
私は1944〈昭和19)年9月下旬に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に、日本は敗戦となった。
そして敗戦時は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
少なくとも沖縄戦が事実上集結したこの日の6月23日は、
『沖縄慰霊の日』と命名された厳粛な日として認識している。
恥ずかしいことを告白すれば、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年、
私は大学2年で中退し、映画、文学青年の真似事をしている中、
たまたま中野好夫、新崎盛輝の両氏による共著『沖縄問題二十年』(岩波新書)を読み、
高校時代以来、何かと時事に興味を抱き、ベトナム問題と同様に
まとまりつかない沖縄問題に思考に整理できず、深く悩んでいた・・。
そしてこの本に出会ったのは、21歳の時だった。
若き私は感受性が豊かな時であったので、年長者の確かなアドバイスを頂いたようになり、
この本の言葉に導かれて、私は沖縄に対しての理論整然と見方として教示され、基軸となった・・。
これ以降、やがて社会人となり、そして定年退職後の生活を送っている今でも、
沖縄、オキナワ・・ことばを読んだり聴くたびに、
何かしら今だに後ろめたい気持ちを引き摺(ず)っている。
私はこの一冊の本に寄り、安易な沖縄観光気分で訪れる避け、
この後30年後の50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、更に思いを深めたりした・・。
もとより太平洋戦争で、日本の国土である沖縄列島が直接に戦闘地域となり、
軍人の死もさることながら、一般の人々までが戦場の中で多大な犠牲の上、
沖縄戦は事実上集結した日である。
そして沖縄県は『慰霊の日』として、この日は戦没者追悼式が行われている。
何よりも戦時中、日本の本州の防波堤となり、
直接にアメリカ軍との激戦地となり、民間の住民まで戦禍にまみれ、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。
このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
この『慰霊の日』は、沖縄に向って、満22歳より黙祷をしている。
私よりご年配の方はともかく、私より若き世代の人たちの一部に、
『沖縄慰霊の日』の由来を誰でも解り易く、簡潔に記した書物は、
私が知る限り、知識人の藤野邦夫(ふじの・くにお)氏の書かれた『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)であり、
この中で、この『沖縄慰霊の日』を明記している。
そして私は若き人たちと共有致したく、今回あえて転記させて頂く。
《・・
太平洋戦争が最終段階に入った1944年(昭和19年)3月、
本土決戦を引き延ばす目的で、沖縄に第32軍(牛島満・司令官)が配備された。
そして全島を要塞化する計画が推進されたが、
10月10日の大空襲で守護隊は大きな被害を受けて、那覇市は全焼。
548人の一般市民の死者をだした。
この後、守護隊の主力部隊が、フィリピン作戦、に狩り出された為、
軍首脳部は県民の中から、人員を補充せざるを得なかったのである。
沖縄戦が始まった時点の兵力は、約10万人とされるが、その3の1は、前記のような補充兵だった。
これに対し、ミニッツ太平洋艦隊司令官の基に、バックナー中将の率いるアメリカ軍の艦船は、約1500隻。
兵力は17万3000人で、後方支援部隊も合せると、実に44万人に達したという。
兵器と爆薬の面でも、心もとない守護隊に対して、アメリカ軍は圧倒的に優位にたっていたのである。
このアメリカ軍が、1945(昭和20年)年3月23日、沖縄諸島に激しい艦砲射撃をくわえた。
彼等は、26日に慶良間列島を確保した後、4月1日から沖縄本島に対する上陸作戦を開始した。
日本軍の主力が、首里を中心に配備されていたので、アメリカ軍はさほどの抵抗も受けずに上陸を完了し、
沖縄本土は南北に分断した。
この後、アメリカ軍は、南部にいた日本軍に対する総攻撃を開始。
両軍の激戦は40日におよび、劣悪な条件で戦った日本軍の抗戦には、すさまじいものであった。
しかし、この戦いの為、守護隊の主力は壊滅した。
残った約4万人の兵力は、5月22日に、更に南部に撤退した。
ここには推定で約10万人の県民も避難した為、沖縄戦は過酷な様相を呈することとなった。
勢いに乗るアメリカ軍の激烈な攻撃にさらされる極限状況の中で、
日本軍による一般人の虐殺、食糧の強奪などが発生。
更に、女子学生で組織された看護隊『ひめゆり部隊』の悲劇にみられるような、
県民達の凄惨な事件が続発した。
そして6月23日、牛島司令官の自決。
ここで日本軍の組織的な抗戦は終結した。
しかし、引き続き行なわれたアメリカ軍の掃討作戦で、6月末までに、約9000人の日本兵が犠牲となった。
この三ヶ月間の戦闘死者は、日本軍6万5908人、県出身の軍人2万8228人、
アメリカ軍1万2281人で、計10万5417人。
そして一般の県民は、推定で9万4000人が亡くなった。
軍人よりも一般人の犠牲者が多い所が、沖縄戦の非人道的な面が如実に現れている。
沖縄県では、沖縄が事実上終結した6月23日を『慰霊の日』とし、1951(昭和26)年から祝祭日に指定。
糸満市の『平和記念公園』で、戦没者追悼式が行なわれている。
・・》
注)原文よりあえて改行を多くした。
私は転記しながら、改めて再確認しながら、戦争とは、かくも果てなき残虐の行為である。
私は50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、初めて沖縄諸島を観光で訪れたが、
この中のある時、海原を観ていた時、ガイドさんが、
『あの海の彼方は・・アメリカの艦隊でいっぱいだった・・
とご年配の方から教えて貰いました・・』
と私はガイドさんから教えて頂いた。
そして私は、前方の海原にアメリカの艦隊がひしめき、
そこから艦砲射撃がされ、沖縄本土が被弾する状況を想像した時、
私は胸が熱くなり、そして涙があふれていた・・。
私はこの日の『沖縄慰霊の日』、そして原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、8月9日の『長崎被爆』、
そして 敗戦となった8月15日は、
たった一枚の赤紙(召集令状)で徴兵され、戦場で亡くなわれたお方たち、
或いは戦時下、空襲などで亡くなわれた多くの人々に哀悼の意を表して、
毎年この日に黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
尚、掲載した数々の写真は、過ぎし2007〈平成19〉年10月29日から8泊9日間で、
私たち夫婦は家内の母と共に、沖縄本島の一部を訪れた時に撮ったものである。
1930〈昭和5〉年生まれの家内の母は、
この数か月前に、死ぬまでに一度は沖縄の《ひめゆり塔》を参拝したい、と家内に言ったりした。
家内の母は、戦時中は(新潟県)高田の女学校時代に於いて、
軍事工場の支援に強制従事させられた体験を含めて、
何か平和祈念公園の中で、沖縄戦で亡くなれた新潟県の墓地にも花をささげたい、
このような慰霊の旅路を、この沖縄の前半の時に私たち3人は巡礼した。
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