夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

高倉健さんの訃報に接し、長きに孤軍奮闘のように映画界に貢献されまして、ご冥福を・・。

2014-11-18 15:43:13 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の身であるが、
いつものように平素の買物、その後に散策した後、
ネットを立ち上げると、《 高倉健さん死去 83歳、》と見出しを見て、クリックしてしまった。

『スポーツ報知』が 11月18日(火)11時37分配信された記事に寄ると、
《・・高倉健さん死去 83歳、10日に悪性リンパ腫で
映画俳優の高倉健(たかくら・けん、本名・小田剛一)さんが、死去していたことが18日分かった。
10日午前3時49分、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で死去した。83歳。福岡県出身。

1931年に福岡県に生まれ、大学進学のために上京。
1955年、東映ニューフェイス2期生として入社した。
演技経験などは全くなかったが、翌1956年に映画「電光空手打ち」で主演デビューした。

映画スターとしての地位を確立したのは、1960年代に入って出演するようになった仁侠映画だった。
「網走番外地」「日本侠客伝」「昭和残侠伝」などがシリーズ化され、大ヒット。
映画ファンは「健さん」と親しみを込めて呼ぶようになった。

テレビドラマなどにはほとんど出演せず、自らを「映画俳優」と呼ぶほど。
生涯の映画出演作は205本に及ぶ。
最後の作品は、2012年秋に公開された「あなたへ」(降旗康男監督)。(略)・・》
このような記事が報じられていた。
        

私は古き良き時代の映画愛好者のひとりなので、
東京オンリビックが開催された1964年(昭和39年)の頃から、映画界は衰退し、
その後も加速するように映画界は衰退するばかりであった。

こうした中で高倉健さんは、殆どテレビ劇に出演されず、
映画俳優として主演され続づけ、この長き映画界の烈風の中で、稀な男優であった。

映画はお金を払って鑑賞でき、高倉健さんは数多くの映画ファンを魅了させてきた人である。、

こうした中、映画の製作が激少する中、監督、脚本家、撮影、照明、美術などの数多くのスタッフは、
製作に携(たずさ)わることもでき、衰退する映画界の技術の伝承にも波及され、
高倉健さんは主演されるたびに貢献してきた人でもある。

こうしたことに敬意を重ねて、高倉健さんの訃報に接し、
長きに孤軍奮闘のように映画界に貢献されまして、お疲れ様でした。
貴兄の功績は数多くの映画ファンに感動をさせ、今はひたすらご冥福を祈ります。

私は呆然とした中で、こうした言葉を心の中で呟(つぶや)いたりした。
       

私は1944年(昭和19年)に東京郊外で生を受けて、
小学3年の頃から独りで映画館に行き、邦画に魅せられて、中学からは洋画にも魅了され、
これ以降は映画の愛好者のひとりなった・・。

やがて映画専門誌の『キネマ旬報』なども愛読し、シナリオにも関心をもち始めて、
シナリオライターになりたくて、大学を中退したのが、1964年(昭和39年)の秋であった・・。

まもなく養成所の演出コースに入所して、アルバイトをしながら映画青年の真似事をしたりした。
その後は講師の知人の新劇のある長老のアドバイスにより、
契約社員をしながら、小説を書き始めて、文学青年の真似事をした。

そして、習作に励んだりし、純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。

この後、1970(昭和45)年にある民間会社に何とか中途入社し、
35年ばかり勤めて定年を迎えた身である。
          
このように若き時代の一時には、映画館に通ったりして、程ほどに映画作品を鑑賞してきたので、
1966年(昭和41年)頃までに上映された作品は知っているつもりであるが、
その後は数多くのサラリーマンと同様に多忙な時代を過ごしたので、余り鑑賞する機会がなくなった。

定年後は年金生活をして、ときおり居間の映画棚に保管してあるビデオテープ、DVDの1000作品ぐらいを
居間のテレビを通して鑑賞したりしている。

しかしながら、2000年(平成12年)の頃までに制作された作品が圧倒的に多いので、
古き良き時代の映画の愛好者のひとりかしら、と微苦笑する時もある。
       

高倉健さんの主演された『網走番外地』、『日本侠客伝』、『昭和残侠伝』などのシリーズ作品は、
私は何かと苦手であったので、5作品ぐらい鑑賞して程度であった。

この後、鑑賞してきたのは『幸福の黄色いハンカチ (1977年) 』、『八甲田山 (1977年) 』、『冬の華 (1978年) 』、
『遙かなる山の呼び声 (1980年)』、『駅 STATION (1981年)』、『海峡 (1982年)』、『南極物語 (1983年)』、
『居酒屋兆治 (1983年) 』、『夜叉 (1985年)』、『鉄道員(ぽっぽや) (1999年)』
『ホタル (2001年)』、『あなたへ (2012年)』

このくらいを思い浮かべたりしているので、私は高倉健さんの熱愛するファンには該当しない。

こうした作品の中のひとつに、降旗康男 ・監督の『駅 STATION』(1981年)』がある。
               

この作品はオリンピックの射撃選手であり、警察官でもある一人の男が、
それぞれの事件を通して、彼の心を通り過ぎていく女性たちをくまなく描き、
人生の哀歓を圧倒的な筆力で、主演・高倉健に捧げたと伝説される脚本の倉本聰(くらもと・そう)さんの作品でもある。

私が鑑賞してきた邦画の少なくとも5000作品の中で、最も好きな作品で、
監督の降旗康男、主演・高倉健、そして脚本・倉本聰のトリオの英知が発露された作品となり、
降旗康男、高倉健、倉本聰さんの各作品を鑑賞してきた中で、最も優れた作品と絶賛するひとりである。

この作品のファースト・シーンは、国鉄時代の1968年の北海道の『銭函』駅が駅舎が表われ、
そしてホームの情景となる中、
警察官の英次(高倉健)は雪の降り続くホームで、妻の直子(いしだあゆみ)と、四歳になる息子義高に別れを告げた。
やむなく離婚を承諾した直子は、動き出した汽車の中で、英次に笑って敬礼するが、その目には涙が溢れていた。

このファースト・シーンひとつでも、人生の哀歓、愛惜を描き、
感動を超えて感銘させられる名シーンである・・。

私は感銘させられて、後日に単行本となったシナリオを買い求めて、幾たびか精読した。

私は高倉健さんに関して、この『駅 STATION』(1981年)』は突出した作品と確信を深めているので、
今宵は高倉健さんのご冥福を重ねながら、居間で鑑賞する予定である。

余談であるが、高倉健さんが綴られた『あなたに褒められたくて』(集英社)、『旅の途中で』(新潮社)、
過ぎ去り年に買い求めて、 高倉健さんに好感を増したひとりである。

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コメント (4)
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