今朝、ぼんやりとカレンダーを見ると、小雪(しょうせつ)、と明記されていたので、
微苦笑したりした。
もとより旧暦で、冬とは言えまだ雪はさほど多くなく、
冬将軍が到来すると言われる時期で、北の地方ではコタツを押し入れから出す家が増える頃、
と伝えられてきた・・。
私の住む東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接する調布市の片隅の地域は、
平年11月3日の『文化の日』の頃から、あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染め始め、
やがて11月23日の『勤労感謝の日』の頃になると、
周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染められる錦繍(きんしゅう)の情景となる。
やがて数多くの葉が舞い散る中で、公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が彩(いろど)りを見せてくれる。
そして周囲に公孫樹(イチョウ)のあまたの葉が黄色い絨毯を重なるようになるのが、
12月の『師走(しわす)』の初旬となっている。
こうした錦繍(きんしゅう)の情景を私は見惚れながら、
我が家の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、晩秋のこの季節を毎年過ごしてきた・・。
こうした中で、ここ数週間、北海道、東北の各地で雪が降りました、とテレビのニュースを視聴したりすると、
なぜかしら私は心の片隅みで、雪恋し、と心の中で呟(つぶや)くこともある。
私は1944年〈昭和19年〉に、今住んでいる近くに生家があり、農家の三男坊として生を受けた。
そして私が地元の小学校に入学した1951年(昭和26年)4月の頃は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
この当時は、徒歩15分ぐらいの京王線の最寄駅まで、
殆ど田畑が広がり、雑木林、竹林なども観られた田園風景であった。
私の幼年期は、毎年、冬の時節になると、雪が30センチ前後が数回降った。
そして1951年〈昭和26年〉4月に私は地元の小学校に入学したが、
初めての冬を迎え、ときおり雪が降り、登校した時が想いだされる・・。
私はゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
この当時は今のような傘は普及していなく、番傘を差して、家を出た。
やがて家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、
長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。
そして駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、この時は無視し、
祖父、父の知人の畑も雪に埋もれていたので、この中を吹雪いていたが一直線で登校したりした。
小学校は木造の二階建てであり、教室の片隅に木造の正方形の1間幅の暖炉があった。
コークスはむろん、石炭も使用される前の時代であったので、
暖炉の中核には簡易に造ったブリキの中で、薪(まき)が燃やされていたりした。
私たち学童は、衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。
そして私たちは、学級のクラスの中で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と悪口を言い合っていたりした。
下校のひととき、番傘でチャンバラの真似事をし、
番傘の数箇所が破れ、帰宅後に母に怒られたりした。
このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。
その後、1955年〈昭和30年〉の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉3月であったが、
この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。
1964年〈昭和39年〉に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、
この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。
こうした幼年期に体験した私は、心の奥底に雪恋しとなり、
私が40歳を過ぎた頃から、家内と共に毎年、冬の季節になると北の地域に旅行し、
遊学しながら雪の情景を享受してきている。
このように私たち夫婦は、国内旅行が共通の趣味のひとつであるが、
なぜかしら東京郊外の田舎者の私は、冬の時節になると北に旅をしてしまうことが多いのである。
たまたま昨年の12月中旬になると、旭川市の郊外にある天人峡温泉に3泊4日で訪れ、
スノーパウダーと称されている粉雪(こなゆき)舞い降る情景に心を満たされたりした。
そして本年の1月に、函館市の郊外にある湯の川温泉の観光ホテルに、
1月中旬に4泊5日で滞在して、函館市の市内、郊外を歩き廻り、遊学してきた。
この後、2月初旬に札幌市の郊外にある定山渓温泉の観光ホテルに13泊14日滞在し、
定山渓温泉地の周辺、札幌市内の郊外、そして市内の中心街を歩き廻ったりした。
このように私たち夫婦は、雪舞い降る山里の路、街の中を歩くことは20余年を体験してきた。
こうした時に愛用してきた軽登山靴はマイナス15度ぐらいの耐久のマインドルの靴で、
家内はマイナス30度に耐えられるアクの軽登山靴で、
お互いに滑り止めとして簡素なゴム製の金属製スバイク付いた品を装填して歩くことが多くなっている。
そして私は肌着の上に冬のスポーツ・シャツ、ジャケット風の襟(えり)のあるフリース、そして防寒コートとすれば、
マフラーはフリースの襟が首回りまであるので不要となっている。
そして帽子は、私は山岳用を愛用し、家内のはロシア婦人が被(かぶ)っている形を気にいっている。
このような容姿で私たち夫婦は、厳冬の中の雑木林の道、山里、そして街中を歩き廻ったりしてきた。
この滞在中、東京は40数年ぶりの大雪が降った、とテレビのニュースで視聴したりした。
どうして何10年ぶりの大雪なのょ、と気まぐれな気候の神々の采配に戸惑ったりした。
そして旅路を終えて深夜に帰宅した私たち夫婦は、
門扉から玄関先、そして庭の大半は残雪があり、せめて門扉から玄関まで雪かきをした。
何かと雪舞い降る情景に魅せられて、私たちは北国の旅路をしてきたが、
家に帰ってきて早々、深夜に雪かきかょ、と私は家内に微苦笑しながら言ったりした。
このようなささやかな冬の旅をしてきたので、今年の12月は家内が多忙となるので、
せめて2月には、オーホック海の流氷、サロマ湖の周辺を遊学しょうと旅行代理店に予約しているが、
1月は旅行の予定は空白だから、どちらかな訪れようか、と思案している。
尚、豪雪地域にお住いの人は、日常の生活に於いては多事苦難は少し解っているつもりであり、
江戸後期の商人、随筆家として、鈴木牧之が遺(のこ)された『北越雪譜』、
磯部定治・著の『鈴木牧之の生涯』(野島出版)を読んだりしてきたが、
あくまで旅人として、みゆき舞い降る圧倒的な情景、積雪の山里、街並みに魅了されているひとりの
思いからである。
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微苦笑したりした。
もとより旧暦で、冬とは言えまだ雪はさほど多くなく、
冬将軍が到来すると言われる時期で、北の地方ではコタツを押し入れから出す家が増える頃、
と伝えられてきた・・。
私の住む東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接する調布市の片隅の地域は、
平年11月3日の『文化の日』の頃から、あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染め始め、
やがて11月23日の『勤労感謝の日』の頃になると、
周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染められる錦繍(きんしゅう)の情景となる。
やがて数多くの葉が舞い散る中で、公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が彩(いろど)りを見せてくれる。
そして周囲に公孫樹(イチョウ)のあまたの葉が黄色い絨毯を重なるようになるのが、
12月の『師走(しわす)』の初旬となっている。
こうした錦繍(きんしゅう)の情景を私は見惚れながら、
我が家の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、晩秋のこの季節を毎年過ごしてきた・・。
こうした中で、ここ数週間、北海道、東北の各地で雪が降りました、とテレビのニュースを視聴したりすると、
なぜかしら私は心の片隅みで、雪恋し、と心の中で呟(つぶや)くこともある。
私は1944年〈昭和19年〉に、今住んでいる近くに生家があり、農家の三男坊として生を受けた。
そして私が地元の小学校に入学した1951年(昭和26年)4月の頃は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
この当時は、徒歩15分ぐらいの京王線の最寄駅まで、
殆ど田畑が広がり、雑木林、竹林なども観られた田園風景であった。
私の幼年期は、毎年、冬の時節になると、雪が30センチ前後が数回降った。
そして1951年〈昭和26年〉4月に私は地元の小学校に入学したが、
初めての冬を迎え、ときおり雪が降り、登校した時が想いだされる・・。
私はゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
この当時は今のような傘は普及していなく、番傘を差して、家を出た。
やがて家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、
長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。
そして駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、この時は無視し、
祖父、父の知人の畑も雪に埋もれていたので、この中を吹雪いていたが一直線で登校したりした。
小学校は木造の二階建てであり、教室の片隅に木造の正方形の1間幅の暖炉があった。
コークスはむろん、石炭も使用される前の時代であったので、
暖炉の中核には簡易に造ったブリキの中で、薪(まき)が燃やされていたりした。
私たち学童は、衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。
そして私たちは、学級のクラスの中で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と悪口を言い合っていたりした。
下校のひととき、番傘でチャンバラの真似事をし、
番傘の数箇所が破れ、帰宅後に母に怒られたりした。
このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。
その後、1955年〈昭和30年〉の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉3月であったが、
この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。
1964年〈昭和39年〉に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、
この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。
こうした幼年期に体験した私は、心の奥底に雪恋しとなり、
私が40歳を過ぎた頃から、家内と共に毎年、冬の季節になると北の地域に旅行し、
遊学しながら雪の情景を享受してきている。
このように私たち夫婦は、国内旅行が共通の趣味のひとつであるが、
なぜかしら東京郊外の田舎者の私は、冬の時節になると北に旅をしてしまうことが多いのである。
たまたま昨年の12月中旬になると、旭川市の郊外にある天人峡温泉に3泊4日で訪れ、
スノーパウダーと称されている粉雪(こなゆき)舞い降る情景に心を満たされたりした。
そして本年の1月に、函館市の郊外にある湯の川温泉の観光ホテルに、
1月中旬に4泊5日で滞在して、函館市の市内、郊外を歩き廻り、遊学してきた。
この後、2月初旬に札幌市の郊外にある定山渓温泉の観光ホテルに13泊14日滞在し、
定山渓温泉地の周辺、札幌市内の郊外、そして市内の中心街を歩き廻ったりした。
このように私たち夫婦は、雪舞い降る山里の路、街の中を歩くことは20余年を体験してきた。
こうした時に愛用してきた軽登山靴はマイナス15度ぐらいの耐久のマインドルの靴で、
家内はマイナス30度に耐えられるアクの軽登山靴で、
お互いに滑り止めとして簡素なゴム製の金属製スバイク付いた品を装填して歩くことが多くなっている。
そして私は肌着の上に冬のスポーツ・シャツ、ジャケット風の襟(えり)のあるフリース、そして防寒コートとすれば、
マフラーはフリースの襟が首回りまであるので不要となっている。
そして帽子は、私は山岳用を愛用し、家内のはロシア婦人が被(かぶ)っている形を気にいっている。
このような容姿で私たち夫婦は、厳冬の中の雑木林の道、山里、そして街中を歩き廻ったりしてきた。
この滞在中、東京は40数年ぶりの大雪が降った、とテレビのニュースで視聴したりした。
どうして何10年ぶりの大雪なのょ、と気まぐれな気候の神々の采配に戸惑ったりした。
そして旅路を終えて深夜に帰宅した私たち夫婦は、
門扉から玄関先、そして庭の大半は残雪があり、せめて門扉から玄関まで雪かきをした。
何かと雪舞い降る情景に魅せられて、私たちは北国の旅路をしてきたが、
家に帰ってきて早々、深夜に雪かきかょ、と私は家内に微苦笑しながら言ったりした。
このようなささやかな冬の旅をしてきたので、今年の12月は家内が多忙となるので、
せめて2月には、オーホック海の流氷、サロマ湖の周辺を遊学しょうと旅行代理店に予約しているが、
1月は旅行の予定は空白だから、どちらかな訪れようか、と思案している。
尚、豪雪地域にお住いの人は、日常の生活に於いては多事苦難は少し解っているつもりであり、
江戸後期の商人、随筆家として、鈴木牧之が遺(のこ)された『北越雪譜』、
磯部定治・著の『鈴木牧之の生涯』(野島出版)を読んだりしてきたが、
あくまで旅人として、みゆき舞い降る圧倒的な情景、積雪の山里、街並みに魅了されているひとりの
思いからである。
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