私は民間会社のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
最後の5年半はリストラ烈風の中、出向となったりし、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。
その上、私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。
この間、私たち夫婦は自分たちの老後の生活の改めて話し合ったのは、
1999年(平成11年)の新春の当時で、私が54歳あった。

☆ 今回、掲載した写真のすべては、昨日の私の散策の時に撮った ☆
私が勤めてきた中小業の多い音楽業界の各レコード会社は、
1998年(平成10年)に売上の主軸となるCDがピークとなり、
この少し前の年から各社はリストラ烈風となり、業務の大幅な見直し、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われ始めた。
私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば1999年(平成11年)の新春、
取引先の物流会社に出向を命じられた。
こうした時に、私が定年退職を出来た後、どのような生活をしたいか、そして生活資金などを話し合った。
具体的には、私たち夫婦の第二の人生は、どのように過ごしたいのか、主題であった。
やがて結論としては、定年退職後の60歳以降は、
私は働くことを卒業し、お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよいなぁ、と漠然に念願したりした。

こうしたことを実現するためには、我が家の貯金の確認、定年退職までの年収、退職金など、そして年金の推定額も算出し、
収支概算表を年別に作表し、この当時の夫婦平均寿命までの年を総括表にしたりした。
そして、毎年の月別は、家計簿の応用で収入の項目、支出の保険、税金等を含め、予定表も作成したりした。
この時の私は、幸いに住宅ローンを終えていたが、私は1944年(昭和19年)9月生まれであるので、
年金の満額の支給は62歳であり、それまでの2年間は満額のほぼ半分となるので、このことも配慮した。
そして年金が満額となった62歳からの生活の収支は、
私たち夫婦の共通趣味である国内旅行費、そして冠婚葬祭など諸経費は例外として、
原則として生活費は年金を頂く範囲として、収支の概要を作成したりした。
こうした中、不慣れな遠い勤務先の出向会社に私が奮戦している時、
出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社会社でも、リストラ烈風が加速した。
そして私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたのである。
私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
こうした中で、経済にも疎(うと)い私が、
信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読み、
デフレ経済の蔓延している中、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をし、
預貯金が3000万円あれば、少しづつ取り崩して生活すれば、少しはゆとりのある年金生活ができるかしら、
と学んだりした。
私たち夫婦は子供に恵まれず、たった二人だけの家庭であり、
人生の3大支出と称される教育資金、住宅資金、老後資金の中で、子供の教育資金は不要だったこともあり、
程ほどの預貯金は出来たりしていた。
しかしながら私はつたないサラリーマン時代の軌跡であったので、
もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに38年前後を邁進し、
栄達されたエリートの年収、そして退職金などは、遥かに及ぶことなく、遠い存在である。

我が家は東京の郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に地域にあり、
住宅地の家並みが密集した外れにあり、雑木の多い小庭に築後36年が過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、
私としては結婚した5年前後を除き、私の生家も近いので、この地域に65年ばかり住んでいる。
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、年金生活の我が家の基本は、
厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
私は定年退職後、年金生活を始めた当初から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりして、数冊を買い求めたりしている。
その後も独りで自宅から3キロ範囲の遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で奮戦し、、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで奮闘してきた。
、
そして家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなくなったのである。
そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
こうした中で、ときおり小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行は、四季折々日本の各地を幾たびか遊学してきた。
私の日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。
世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、
何かと安堵しながら、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズ、
と知人、友人、知人からの便りを受けたりしてきた・・。
私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。
そして私は定年後の年金生活を10年ばかり過ごしてきたが、
私たち夫婦は幸いにも、お互いに大病で入院することもなく、
歯がお互いに老化して、歯科医院で幾たびか治療を受けてきたぐらいであった。
このように私の長き人生に於いては、60代の期間が何より安楽な時代、と思い重ねたりして享受してきた・・。

こうした中で、第二の人生と称せられる年金生活を過ごしてきた中、
やはり『健康』、『生きがい』、そして程ほどの『お金』かしら、と感じ深めている。
『健康』に関しては、もとより健康でなければ、それぞれの人の日頃のささやかな願いも叶わない。
私は現役サラリーマンの時代の時、50歳の頃に会社の懇親会で、
定年退職されたOBの65歳のひとりと談笑した時に、
年金生活になると、病院にお金を運ぶか、趣味でお金を使えるか、と教示され、
天と地の開きがありますね、と私は応(こた)えたりした。
そして大病は、ご自身の自助努力と幸運がなければ避けられない、と漠然と思ったりした。

過ぎし9月に私は古希と称される70歳となり、安楽な60代を卒業した。
そして何よりも私が緊張したのは、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、
平均寿命は男性の場合は80歳と改めて知り、うろたえたりした・・。
こうした根底には、世の中の多くの人たちは70代となれば、
体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、
と専門家の人から数多く発言されているのを学んだりした。
しかしながら私の先輩、ご近所の80歳前後のお逢いできる男性5人は、
溌剌と生活されているので、私は秘かにお手本のように、積極的に談笑する時が多い。
そして私は、何よりも健康でなければ、ささやかな願いも叶わないので、健康寿命が肝要だ、
と深めたりしてきた。
このような思いで、私は60代に引き続いて、
何よりも日々歩くことが肝要と思いながら、認知症は勘弁してょ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
ひたすら歩いたりすることが多い。
そしていつまで健康寿命が保てるか、やがて命果てる日は、
自助努力は大切であるが、こればかり天上の神々の采配に寄ることである。

私の昨今の心情として、60代のささやかな成功体験を秘めながら、
確かに60代の初めより体力の衰えを実感しているが、
70代も『生きがい』を持ち続け、しなやかに生活を過ごせば、
60代と同じような安楽な生活が過ごせる、と漠然と思いながら微笑んだりする時もある。
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最後の5年半はリストラ烈風の中、出向となったりし、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。
その上、私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。
この間、私たち夫婦は自分たちの老後の生活の改めて話し合ったのは、
1999年(平成11年)の新春の当時で、私が54歳あった。

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私が勤めてきた中小業の多い音楽業界の各レコード会社は、
1998年(平成10年)に売上の主軸となるCDがピークとなり、
この少し前の年から各社はリストラ烈風となり、業務の大幅な見直し、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われ始めた。
私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば1999年(平成11年)の新春、
取引先の物流会社に出向を命じられた。
こうした時に、私が定年退職を出来た後、どのような生活をしたいか、そして生活資金などを話し合った。
具体的には、私たち夫婦の第二の人生は、どのように過ごしたいのか、主題であった。
やがて結論としては、定年退職後の60歳以降は、
私は働くことを卒業し、お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよいなぁ、と漠然に念願したりした。

こうしたことを実現するためには、我が家の貯金の確認、定年退職までの年収、退職金など、そして年金の推定額も算出し、
収支概算表を年別に作表し、この当時の夫婦平均寿命までの年を総括表にしたりした。
そして、毎年の月別は、家計簿の応用で収入の項目、支出の保険、税金等を含め、予定表も作成したりした。
この時の私は、幸いに住宅ローンを終えていたが、私は1944年(昭和19年)9月生まれであるので、
年金の満額の支給は62歳であり、それまでの2年間は満額のほぼ半分となるので、このことも配慮した。
そして年金が満額となった62歳からの生活の収支は、
私たち夫婦の共通趣味である国内旅行費、そして冠婚葬祭など諸経費は例外として、
原則として生活費は年金を頂く範囲として、収支の概要を作成したりした。

こうした中、不慣れな遠い勤務先の出向会社に私が奮戦している時、
出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社会社でも、リストラ烈風が加速した。
そして私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたのである。
私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
こうした中で、経済にも疎(うと)い私が、
信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読み、
デフレ経済の蔓延している中、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をし、
預貯金が3000万円あれば、少しづつ取り崩して生活すれば、少しはゆとりのある年金生活ができるかしら、
と学んだりした。
私たち夫婦は子供に恵まれず、たった二人だけの家庭であり、
人生の3大支出と称される教育資金、住宅資金、老後資金の中で、子供の教育資金は不要だったこともあり、
程ほどの預貯金は出来たりしていた。
しかしながら私はつたないサラリーマン時代の軌跡であったので、
もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに38年前後を邁進し、
栄達されたエリートの年収、そして退職金などは、遥かに及ぶことなく、遠い存在である。

我が家は東京の郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に地域にあり、
住宅地の家並みが密集した外れにあり、雑木の多い小庭に築後36年が過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、
私としては結婚した5年前後を除き、私の生家も近いので、この地域に65年ばかり住んでいる。
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、年金生活の我が家の基本は、
厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
私は定年退職後、年金生活を始めた当初から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりして、数冊を買い求めたりしている。
その後も独りで自宅から3キロ範囲の遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で奮戦し、、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで奮闘してきた。
、
そして家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなくなったのである。
そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
こうした中で、ときおり小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行は、四季折々日本の各地を幾たびか遊学してきた。

私の日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。
世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、
何かと安堵しながら、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズ、
と知人、友人、知人からの便りを受けたりしてきた・・。
私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。
そして私は定年後の年金生活を10年ばかり過ごしてきたが、
私たち夫婦は幸いにも、お互いに大病で入院することもなく、
歯がお互いに老化して、歯科医院で幾たびか治療を受けてきたぐらいであった。
このように私の長き人生に於いては、60代の期間が何より安楽な時代、と思い重ねたりして享受してきた・・。

こうした中で、第二の人生と称せられる年金生活を過ごしてきた中、
やはり『健康』、『生きがい』、そして程ほどの『お金』かしら、と感じ深めている。
『健康』に関しては、もとより健康でなければ、それぞれの人の日頃のささやかな願いも叶わない。
私は現役サラリーマンの時代の時、50歳の頃に会社の懇親会で、
定年退職されたOBの65歳のひとりと談笑した時に、
年金生活になると、病院にお金を運ぶか、趣味でお金を使えるか、と教示され、
天と地の開きがありますね、と私は応(こた)えたりした。
そして大病は、ご自身の自助努力と幸運がなければ避けられない、と漠然と思ったりした。

過ぎし9月に私は古希と称される70歳となり、安楽な60代を卒業した。
そして何よりも私が緊張したのは、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、
平均寿命は男性の場合は80歳と改めて知り、うろたえたりした・・。
こうした根底には、世の中の多くの人たちは70代となれば、
体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、
と専門家の人から数多く発言されているのを学んだりした。
しかしながら私の先輩、ご近所の80歳前後のお逢いできる男性5人は、
溌剌と生活されているので、私は秘かにお手本のように、積極的に談笑する時が多い。
そして私は、何よりも健康でなければ、ささやかな願いも叶わないので、健康寿命が肝要だ、
と深めたりしてきた。
このような思いで、私は60代に引き続いて、
何よりも日々歩くことが肝要と思いながら、認知症は勘弁してょ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
ひたすら歩いたりすることが多い。
そしていつまで健康寿命が保てるか、やがて命果てる日は、
自助努力は大切であるが、こればかり天上の神々の采配に寄ることである。

私の昨今の心情として、60代のささやかな成功体験を秘めながら、
確かに60代の初めより体力の衰えを実感しているが、
70代も『生きがい』を持ち続け、しなやかに生活を過ごせば、
60代と同じような安楽な生活が過ごせる、と漠然と思いながら微笑んだりする時もある。
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