私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
年に4回ぐらい家内は、独り住まいの家内の母宅に行っている。
私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職した2004年〈平成16年〉の秋の直前に主人に病死され、
独り住まいの生活をされて、早や11年目となっている・・。
こうした中で、家内の母は自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っている。
たまたま今回、家内は過ぎし4日より家内の母宅に8泊9日で行っている。
もとより家内は、家内の母の宅で孤軍奮闘しているが、
この間は私は『おひとりさま』の独りぼっちの生活となっている。
こうした時の私の心構えは、何かとプラス思考の多い私は、
万一、いつの日にか私を残して家内に先立たれた場合、
私は『おひとりさま』となってしまうので、特別演習かしら、と思いながら過ごすこともある。
こうした根底のひとつとしては、過ぎし6年前に知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。
そして私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に、心痛な思いで深く学んだりした。
平素の私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行っている。
こうした中で、私は台所で2日に1回ぐらいのペースで、
午後のひととき、食器洗いをしたりしている・・。
私は家内から借りた可愛らしいエプロンを着て、腕まくりをした後、
スポンジにファミリー・フレッシュなどの食器専用の洗剤をつけて、こすったりし、
この後は水洗いを丁寧にしている。
昨日の昼下り、台所で奮戦していた時、どうした心境が解からないが、
♪嵐も吹けば 雨も降る・・と鼻歌を唄ったりしていた。
やがて5分ぐらい過ぎた時、なんで古い歌謡曲を唄ってしまったの、と独苦笑をしたりした。
その後、確か5年前頃も、こうした食器洗いをしていた時、
大津美子さんの『ここに幸あり』の歌を、かぼそい声で唄っていたことを想いだりした。

あの時は私は家内から借りた前掛けをして、腕まくりをして食器洗いをしている中、
♪・・女の道よ なぜ険(けわ)し 君をたよりに わたしは生きる・・
と唄ったりした。
しかしながら家内や私の妹も団塊世代の人であり、専業主婦が多く、
妻が専守防衛長官ように家庭内を維持管理していたので、もとより発言力も増し、
まして平成の時代になると、共稼せきが多い時代に変貌してきたので、
この歌の内容は、死語だょねぇ、と苦笑したりしていた。
そして私は微苦笑しながら、確か1956年(昭和31年)の私が小学5年生の時に、
ラジオから盛んに流れていた歌だったので、
俺も古い人間でやはり齢は隠せない・・、と思ったりした。
私はカラオケは苦手であるが、現役時代のサラリーマンの時は、
おつきあい程度に唄ったしてきたが、
この『ここに幸あり』の歌に関しては、とても恥ずかしく唄ったこともないのである。
私の少年期に聴いた曲が、心の片隅にあったのかしら、と少し照れたりし、戸惑ったりした・・。

この一年前の4月下旬の時は、今でも心の片隅に残った出来事を秘めている。
やはり前掛けをして、腕まくりをした後、春の外気を取り入れる為、
台所のひとつの戸を開けたりした・・。
そしてCDラジカセを台所の片隅に持ち込んで、一枚のCDをセットした・・。
恥ずかしながら少し山積みとなった皿、丼ぶり、小鉢などを水道水を盛大に出しながら
スポンジでこすり洗ったした。
そして私は心の中は、さぁ~いくぞ・・という心境であった。
♪紅に染まったこの俺を慰める奴はもういない・・
このようなハードロック・バンドのX JAPANの『紅』の歌を唄いながら、
食器洗い専用の洗剤で皿などをこすった後は、水洗いを盛大にしたりした・・。
この歌を私はかぼそい声であったが、ボーカルのTOSHIに負けじと唄い続けた・・。
この名曲は過ぎし時代には、高校野球の応援歌で、演奏されたりしていた・・。
私は水洗いをしながら、この歌を『一曲繰り返し』セットし、唄い続けたのであるが、
不思議ながら合致するのである。
もとより余りバラードであると、聴き込んでしまうので、
程々のハード・ロックが心身の波長に合うと、小綺麗になった台所で、独り微苦笑したのである。
この後、台所の戸を開けていたので、春の陽射しを受けて、ぼんやりとしていた時、
何故かしら、玄関のチャイムが、
『コッキラ・・コ~ン!・・』と鳴りだした・・。
私は玄関が見える洗面所の窓から、そぉ~と見たら、
30前後の綺麗な奥様が幼児の女の子を伴い、立っていた。

この奥様は、私の周辺の住宅街で、突出した美人と私は秘かに思い込んでいる人で、
たまたま自治会の役員をされていた。
そして今回の来宅は、共同募金の収集でお見えになったのだ、と解かったが、
しかしながら前掛けと腕まくりの60代の小父さんとしては、少しあわてたのである。
そして、私は『はぁ~い』と明るく大声で云いながら、
前掛けを取り、玄関で応対したりした・・。
この後、私は15分ほど早かったら、
X JAPANの歌と共に、かぼそい声で唄っていたのであるから、
見せられる格好でなく、今であってよかったよ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
余談であるが、ハードロック・バンドの『X JAPAN』を知ったのは、
遅ればせながら53歳頃からであった。
この後の数年間は、物狂いのように熱愛し、殆ど毎晩CDで聴いたり、
ビデオテープ、DVDの映像作品を視聴したりした。
そして定年後の年金生活の今でも、ときおり聴いたりしている。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
年に4回ぐらい家内は、独り住まいの家内の母宅に行っている。
私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職した2004年〈平成16年〉の秋の直前に主人に病死され、
独り住まいの生活をされて、早や11年目となっている・・。
こうした中で、家内の母は自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っている。

たまたま今回、家内は過ぎし4日より家内の母宅に8泊9日で行っている。
もとより家内は、家内の母の宅で孤軍奮闘しているが、
この間は私は『おひとりさま』の独りぼっちの生活となっている。
こうした時の私の心構えは、何かとプラス思考の多い私は、
万一、いつの日にか私を残して家内に先立たれた場合、
私は『おひとりさま』となってしまうので、特別演習かしら、と思いながら過ごすこともある。
こうした根底のひとつとしては、過ぎし6年前に知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。
そして私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に、心痛な思いで深く学んだりした。

平素の私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行っている。
こうした中で、私は台所で2日に1回ぐらいのペースで、
午後のひととき、食器洗いをしたりしている・・。
私は家内から借りた可愛らしいエプロンを着て、腕まくりをした後、
スポンジにファミリー・フレッシュなどの食器専用の洗剤をつけて、こすったりし、
この後は水洗いを丁寧にしている。
昨日の昼下り、台所で奮戦していた時、どうした心境が解からないが、
♪嵐も吹けば 雨も降る・・と鼻歌を唄ったりしていた。
やがて5分ぐらい過ぎた時、なんで古い歌謡曲を唄ってしまったの、と独苦笑をしたりした。
その後、確か5年前頃も、こうした食器洗いをしていた時、
大津美子さんの『ここに幸あり』の歌を、かぼそい声で唄っていたことを想いだりした。

あの時は私は家内から借りた前掛けをして、腕まくりをして食器洗いをしている中、
♪・・女の道よ なぜ険(けわ)し 君をたよりに わたしは生きる・・
と唄ったりした。
しかしながら家内や私の妹も団塊世代の人であり、専業主婦が多く、
妻が専守防衛長官ように家庭内を維持管理していたので、もとより発言力も増し、
まして平成の時代になると、共稼せきが多い時代に変貌してきたので、
この歌の内容は、死語だょねぇ、と苦笑したりしていた。
そして私は微苦笑しながら、確か1956年(昭和31年)の私が小学5年生の時に、
ラジオから盛んに流れていた歌だったので、
俺も古い人間でやはり齢は隠せない・・、と思ったりした。
私はカラオケは苦手であるが、現役時代のサラリーマンの時は、
おつきあい程度に唄ったしてきたが、
この『ここに幸あり』の歌に関しては、とても恥ずかしく唄ったこともないのである。
私の少年期に聴いた曲が、心の片隅にあったのかしら、と少し照れたりし、戸惑ったりした・・。

この一年前の4月下旬の時は、今でも心の片隅に残った出来事を秘めている。
やはり前掛けをして、腕まくりをした後、春の外気を取り入れる為、
台所のひとつの戸を開けたりした・・。
そしてCDラジカセを台所の片隅に持ち込んで、一枚のCDをセットした・・。
恥ずかしながら少し山積みとなった皿、丼ぶり、小鉢などを水道水を盛大に出しながら
スポンジでこすり洗ったした。
そして私は心の中は、さぁ~いくぞ・・という心境であった。
♪紅に染まったこの俺を慰める奴はもういない・・
このようなハードロック・バンドのX JAPANの『紅』の歌を唄いながら、
食器洗い専用の洗剤で皿などをこすった後は、水洗いを盛大にしたりした・・。
この歌を私はかぼそい声であったが、ボーカルのTOSHIに負けじと唄い続けた・・。
この名曲は過ぎし時代には、高校野球の応援歌で、演奏されたりしていた・・。
私は水洗いをしながら、この歌を『一曲繰り返し』セットし、唄い続けたのであるが、
不思議ながら合致するのである。
もとより余りバラードであると、聴き込んでしまうので、
程々のハード・ロックが心身の波長に合うと、小綺麗になった台所で、独り微苦笑したのである。
この後、台所の戸を開けていたので、春の陽射しを受けて、ぼんやりとしていた時、
何故かしら、玄関のチャイムが、
『コッキラ・・コ~ン!・・』と鳴りだした・・。
私は玄関が見える洗面所の窓から、そぉ~と見たら、
30前後の綺麗な奥様が幼児の女の子を伴い、立っていた。

この奥様は、私の周辺の住宅街で、突出した美人と私は秘かに思い込んでいる人で、
たまたま自治会の役員をされていた。
そして今回の来宅は、共同募金の収集でお見えになったのだ、と解かったが、
しかしながら前掛けと腕まくりの60代の小父さんとしては、少しあわてたのである。
そして、私は『はぁ~い』と明るく大声で云いながら、
前掛けを取り、玄関で応対したりした・・。
この後、私は15分ほど早かったら、
X JAPANの歌と共に、かぼそい声で唄っていたのであるから、
見せられる格好でなく、今であってよかったよ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
余談であるが、ハードロック・バンドの『X JAPAN』を知ったのは、
遅ればせながら53歳頃からであった。
この後の数年間は、物狂いのように熱愛し、殆ど毎晩CDで聴いたり、
ビデオテープ、DVDの映像作品を視聴したりした。
そして定年後の年金生活の今でも、ときおり聴いたりしている。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪

