過ぎし日、ある民間のテレビ番組をぼんやりと視聴していた中、
夫婦で一度でも離婚を考えたことはありますか、
と多くの30代、40代と思われる出演者に質問された結果として、確か75%近い人がある、
と回答されて私は動顛してしまった。
私たち夫婦は結婚生活39年目となるが、私はこの長き期間に離婚ということは、
一度でもよぎったこともなく、今日に至っている・・。
私がこの広い空の下で家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。
この当時の私は民間会社に勤めて6年生の31歳であり、
母が賃貸アパートを経営し、別棟に母と同居をしていた。
こうした中で、私は血気盛んで多くの女性と交際を重ねてきたが、大半は失恋の方が多かったが、
紹介を受けた女性は、交際を重ねる中、堅実そうな方で私は好感をしたりした。
こうした中、結婚して相手方の財産をあてにするのは、男として最低だからね、と母は私に言ったりした。
私は相手方のご両親が大切に育ててきた娘さんであり、
私に嫁いでくれるので、もとより相手方の財産などは眼中になく、
お母さん・・社会の心の節度として常識です、と私は笑いながら母に言ったりした。
やがて1975年〈昭和50年〉の12月15日に婚約するために、両家の結納となった。
その後、私たちは結婚日の日取り、結婚式場、新居の場所、荷物のことなどで、
ボタンの掛け違いのような行き違いが発生して、両家からの意向から、大波、小波に揺れたりした。
そして何とか1976年〈昭和51年〉3月30日に、学士会館で結婚式、そして披露宴を終えた。
この間の結婚式で、花嫁人形のような角隠しで白むくの容姿となった新妻となる人を見て、
この先の人生、どのような荒波があろうと私は・・と私は改めて思いながら緊張を増したりした。
そして神前結婚式の中で、おはらいなどを受けた後、
誓詞奏上で練習もなく初めて見る誓詞を、今後の人生の責任感で緊張の余り、少し閊(つか)えて大きな声で述べたら、
隣の新妻がクスッと笑っているのが、私は聴こえたりした・・。
この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社に勤め、情報畑でシステム改定をしていたので多忙期であり、
短めな新婚旅行から帰宅し、千葉県の市川市の片隅にある国府台で、
2DKの賃貸マンションで新たな人生をスタートした。
私はサラリーマンの身であったが、もとより生計の責務で孤軍奮闘し、
家内は専業主婦で、私に従順な新妻であった。
その後、子供が出来て狭い賃貸マンションの一室で這(は)うことを想像したり、
或いはいつまでも家賃を支払い続けることを配慮して、新居の件で色々と思案したりした。
やがて結果として、私の生家の近くに空き地があったので、この地に一戸建てとした。
そして家内は中学生の頃から茶事を習い、その後の私たちの新婚生活の合間でも、
先生の元に週一度通って修業していたので、私としては住宅関係で多大な借り入れ金をするので、
ついでにと若さ勢いで、母屋の部屋は一室増やして、茶室とした。
こうした結果、作庭の経費もなくなり、やむなく私の月給分ぐらいで雑木を中核とした。
しかしながら私は奮戦しても、家計は赤字が多く、私は困苦したりした。
やがて突然に家内はデパートの和服販売店に契約社員として働き、
我が家は共稼ぎで何とか安泰し、3年後に家内は専業主婦に復帰して、今日に至っている。
この間、私たち夫婦は結婚生活5年が過ぎても、子供に恵まれなかった。
こうした時、私の亡き父の妹の叔母が入院し、私たち夫婦はお見舞いに病室に訪れた・・。
貴方の幼年期に《おたふく風邪》の影響かしら、と教示され、
そして無知な私は恥ずかしくもあり、少し遠方の病院で検査を受けたりした。
やがて診断の結果としては、精液の量は普通ですが、やや精子が少ない、と医師から告げられた。
帰宅後、私は家内に包隠(つつみかく)すことなく伝えたりした。
色々と対策を医師から提示されたことも私たちは話し合ったりしたが、
結果としては自然のままの性愛の結果にゆだねるとした。
このような状況で、私は40歳過ぎた頃になった時、
私たち夫婦は子供のいない家庭に違和感もなく過ごしたりし、今日に至っている。
私が40代の時、会社でヨーロッパ研修の選抜に私は敗退し、
私は自宅の居間で家内に打ち明けたりし、涙を浮かべたりした。
或いは私が40代の時、ギックリ腰が悪化して、
結果として病院の整形外科に入院して、28泊29日間過ごしたりした。
そして50代になると、1998年〈平成10年〉に音楽業界の売上の主軸となるCDがピークとなり、
この前後は、各レコード会社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。
これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われ、リストラ烈風となった。
こうした中で、私の勤めいていた会社も、人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度が実施された。
やがて私も1999年(平成11年)の新春、出向となり、
出向先は各レコード会社がCD、DVDなど音楽商品を委託している物流会社であった。
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、と思いながら精務した。
やがて出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に何とか定年退職を迎えられたのである。
そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
この間、私が出向の辞令を受けた直後、私は家内と改めて定年退職後の人生設計を話し合ったりした。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、2人だけで第二人生の歳月を過ごすので、
結果としては定年後の長い人生は、お互いの趣味を尊重して、堅実な生活を過ごせば、
年金生活でも何とかなると判断をしたりした。
そして私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始め、早や11年目となった。
私の父は、私が小学2年3学期になると、黄疸〈おうだん〉で長らく自宅治療をしていたが、
肝臓が悪化して、42歳の若さで病死された。
やがて私が54歳の時に、母は喜寿と称される77歳を迎えてまもない時に、
婦人系のガンで3年ばかり入退院してきた中で、死去した。
家内の父は、私が定年退職する2004年(平成16年)秋の直前に、
腎臓のガンに5年ばかり入退院してきた中で、78歳でこの世を去った。
そして私たち夫婦の両親は、私より14歳齢上の家内の母だけとなっているが、
3年前に膝(ひざ)を悪化して、杖(つえ)をついて歩いたりしているが、心は溌剌としている。
こうした中で、家内の両親が健在だった私が35歳過ぎた頃から、年末年始に我が家に招き『お歳とり』を行ったり、
やがて私たち夫婦は1泊2日ぐらい旅行を毎年誘って招待したりしてきた。
そして独り住まいとなってしまった家内の母に対しては、
当初私たち夫婦は年金生活を始めた頃で、温泉滞在、観光地めぐりなど6泊7日前後で、
幾たびも招待したりしてきた。
私は家内の実家からは金品の支援を受けるは、お嫁さんを頂く日本男児の立場として恥と思っているが、
しかしながら、我が家を新築した時は、家内の両親からお祝い品を頂いたり、
私たち結婚10周年の時は、デパートの商品券を多額に頂いたり、
或いは私の定年退職時には、やはり多額なお祝いを頂いたりしてきた。
人だれしも長所、短所はあるが、私は短所の方が多いので、
家内の短所には目をつぶり、長所を伸ばそうと心がけてきた・・。
家内は料理、洗濯、掃除などを積極果敢にする専業主婦の優等生であるが、
血液型A型となっている。
そして我が家では一年に数回、私はB型、家内はA型の為か、ボタンの掛け違いのように差異が発生する。
やがて私は、映画、文學、音楽に関しての粗雑なコメント以外は、私たちの人生に大勢に影響がないと判断して、
いつまでも心のわだかまりを残すことは、夫婦としてよくないと思い、15分以内に妥協して、
『ボクが悪かった・・XXちゃんのおしゃる通りです!!』
と家内の前で、私は床に伏して詫びたりしている。
このように我が家は家内安全となり、離婚などは無縁である、と私は微苦笑したりしている。
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