私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
ときおりラジオを聴いたり、テレビの歌番組を視聴したりすると、
それぞれの歌の中には、つたない人生航路を歩んできた私でも、懐かしく聴き入ってしまうことがある。
やがて歌を聴きながら、過ぎし年の生活状況とか自分のふるまい、思っていたことなどが、
走馬灯のように浮かび、過ぎし年の自分に逢えた、と独り微苦笑したりすることが多い。
こうした私にとっては、懐かしき歌の数々を発露致したく、ときおり今後に於き、
投稿文で認(したた)めるので、『懐かしき心に秘めた歌』と題して、カテゴリーを新設した。
どなたか発言されたか不明であるが、歌は世につれて・・、と銘言があり、
私も確かに、そうですよね・・、と瞬時に同意したりしたひとりである。
第一回は、『長崎の鐘』(作詞・サトウハチロー、作曲・古関祐而、唄・藤山一郎)
私は1944年(昭和19年)秋に農家の三男坊として、生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに蔵(くら)、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。
そして幾たびか悪戯(いたずら)をしたりするたびに、
私は父から叱咤され、土蔵に叩き込まれ閉じ込まれたり、
夕食のさなか、妹と同じようなスプーンである匙(さじ)をくれ、と私は言ったりすると、
母屋から放りだされ、私は泣きながら母屋の暗い周囲を廻ったりした。
やがて母が裏木戸を開けてくれて、私は母屋に入れた。
この当時の母は、農家の嫁の立場であったので多忙をきわめていた・・。
もとより田畑を手伝い、食事、洗濯、掃除の責務があり、
昨今の共稼ぎの若き夫婦で幼児を育てられる方たちより、遥かに過酷だった。
食事を作る時は竈(かまど)に枝葉、薪(まき)を燃やして、ご飯を炊いていたし、
洗濯も盥(たらい)に井戸水を入れて、洗濯用の石鹸を付けて洗濯板でゴシゴシと洗い清めていた。
掃除は各部屋の埃(ほこり)をはたきで落とした後、部屋専用の箒(ほうき)で畳を掃(は)き清めていた。
そして風呂も井戸水から運び入れて、やがて薪(まき)を燃やして、沸(わ)かしていた。
この当時の主婦の大半は、ガス、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、瞬間湯沸かし器などはなく、
労苦の多い時代であった。
そして電話、テレビもない時代であった。
こうした中、1950年(昭和25年)の頃に、生家のラジオから『長崎の鐘』がよく流れてきた・・。
こうした時、私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。
そして、♪なぐさめ はげまし 長崎の・・、
ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。
確か翌年の夏だったと思われるが、近くの寺院の境内で、映画が放映された。
この当時は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が放映されていた。
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、このような催しが行われた時代でもあった。
私は母に連れられて、近くの寺院の境内で上映されたのは、
映画の『長崎の鐘』(松竹、昭和25年、監督・大庭秀雄)であった。
この時の私が何よりも嬉しかったのは、兄妹のいる中で、母と2人だけ外出したことは、
私の記憶では初めてことであった・・。
やがて帰路、母の手を握りながら、生家に向かう中、満天の星空が圧倒的に綺麗だった、
このような情景が今でも心の片隅に残っている。
無念ながら映画のストリーは忘れてしまったけれど、こうした母恋きの心情を秘めた思い出も重なり、
私は幾つになっても、亡き藤山一郎さんの歌声を聴くと、私は涙ぐむ時が多い。
私は後年になると、作詞はサトウハチロー氏、作曲は古関祐而(こせき・ゆうじ)氏と知るのであったが、
肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井隆(ながい・たかし)氏は、恥ずかしながら無知であった。
その後、私は永井隆(ながい・たかし)氏の名を知ったのは、遅ればながら高校二年の時で1962年(昭和37年)であった。
そして、このお方の少しばかりであったが人生経路を初めて知り、涙で曇った。
やがて6年前に長崎を訪れて、初めて長崎の『原爆資料館』、『長崎市 永井隆記念館』に訪れ、
慟哭し、涙があふれた・・。
私は、ときおり今でも永井隆(ながい・たかし)氏の遺(のこ)された『長崎の鐘』、『この子を残して』などを、
読み改めたり、そして稀な言動に圧倒的に感銘させられている・・。
せめて私は平和を祈念する時、原点として『長崎の鐘』の歌を、
ときおり心の中で唄ったり、或いはかぼそい声で唄ったりすることもある・・。
私は永井隆(ながい・たかし)・著作の『長崎の鐘』は、
随筆の分野に於いて、近代文学史上の突出した優れた作品と評価している。
もとよりこの作品は、1946年(昭和21年)8月には書き上げられていたが、
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲によりすぐには出版の許可が下りず、
GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、
1949年1月に日比谷出版社から出版されたことは、周知の通りである。
そして当時は紙不足の中でも、当時としては空前のベストセラーとなり、
同書をモチーフとした歌謡曲はヒットしたり、或いは松竹により映画化され、版を重ねることになった、
と伝えられている。
『長崎の鐘』の歌の作詞は、サトウ・ハチロー氏であるが、
氏は作詞を依頼された当初は辞退された、と私は何かの本で読んだりした。
私は後年になって、サトウ・ハチロー氏の弟さんが広島の原爆の犠牲者となっていた、と学び、
こうした氏の思いから、当初は辞退された、と私は推測したりした。
それにしてもサトウ・ハチロー氏の優れた詩心は、
単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌である上、
打ちひしがれた人々のために再起を願った格調高い詞であり、
ここ67年近く、数多くの方に感動、そして感銘させている詞である。
年金生活の中で、私は8月9日の朝は、襟を正して、西の空に向かい黙祷してきた。
やがてぼんやりとしながらも、『長崎の鐘』の歌を心の中で唄ったりしている。
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ときおりラジオを聴いたり、テレビの歌番組を視聴したりすると、
それぞれの歌の中には、つたない人生航路を歩んできた私でも、懐かしく聴き入ってしまうことがある。
やがて歌を聴きながら、過ぎし年の生活状況とか自分のふるまい、思っていたことなどが、
走馬灯のように浮かび、過ぎし年の自分に逢えた、と独り微苦笑したりすることが多い。
こうした私にとっては、懐かしき歌の数々を発露致したく、ときおり今後に於き、
投稿文で認(したた)めるので、『懐かしき心に秘めた歌』と題して、カテゴリーを新設した。
どなたか発言されたか不明であるが、歌は世につれて・・、と銘言があり、
私も確かに、そうですよね・・、と瞬時に同意したりしたひとりである。
第一回は、『長崎の鐘』(作詞・サトウハチロー、作曲・古関祐而、唄・藤山一郎)
私は1944年(昭和19年)秋に農家の三男坊として、生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに蔵(くら)、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。
そして幾たびか悪戯(いたずら)をしたりするたびに、
私は父から叱咤され、土蔵に叩き込まれ閉じ込まれたり、
夕食のさなか、妹と同じようなスプーンである匙(さじ)をくれ、と私は言ったりすると、
母屋から放りだされ、私は泣きながら母屋の暗い周囲を廻ったりした。
やがて母が裏木戸を開けてくれて、私は母屋に入れた。
この当時の母は、農家の嫁の立場であったので多忙をきわめていた・・。
もとより田畑を手伝い、食事、洗濯、掃除の責務があり、
昨今の共稼ぎの若き夫婦で幼児を育てられる方たちより、遥かに過酷だった。
食事を作る時は竈(かまど)に枝葉、薪(まき)を燃やして、ご飯を炊いていたし、
洗濯も盥(たらい)に井戸水を入れて、洗濯用の石鹸を付けて洗濯板でゴシゴシと洗い清めていた。
掃除は各部屋の埃(ほこり)をはたきで落とした後、部屋専用の箒(ほうき)で畳を掃(は)き清めていた。
そして風呂も井戸水から運び入れて、やがて薪(まき)を燃やして、沸(わ)かしていた。
この当時の主婦の大半は、ガス、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、瞬間湯沸かし器などはなく、
労苦の多い時代であった。
そして電話、テレビもない時代であった。
こうした中、1950年(昭和25年)の頃に、生家のラジオから『長崎の鐘』がよく流れてきた・・。
こうした時、私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。
そして、♪なぐさめ はげまし 長崎の・・、
ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。
確か翌年の夏だったと思われるが、近くの寺院の境内で、映画が放映された。
この当時は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が放映されていた。
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、このような催しが行われた時代でもあった。
私は母に連れられて、近くの寺院の境内で上映されたのは、
映画の『長崎の鐘』(松竹、昭和25年、監督・大庭秀雄)であった。
この時の私が何よりも嬉しかったのは、兄妹のいる中で、母と2人だけ外出したことは、
私の記憶では初めてことであった・・。
やがて帰路、母の手を握りながら、生家に向かう中、満天の星空が圧倒的に綺麗だった、
このような情景が今でも心の片隅に残っている。
無念ながら映画のストリーは忘れてしまったけれど、こうした母恋きの心情を秘めた思い出も重なり、
私は幾つになっても、亡き藤山一郎さんの歌声を聴くと、私は涙ぐむ時が多い。
私は後年になると、作詞はサトウハチロー氏、作曲は古関祐而(こせき・ゆうじ)氏と知るのであったが、
肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井隆(ながい・たかし)氏は、恥ずかしながら無知であった。
その後、私は永井隆(ながい・たかし)氏の名を知ったのは、遅ればながら高校二年の時で1962年(昭和37年)であった。
そして、このお方の少しばかりであったが人生経路を初めて知り、涙で曇った。
やがて6年前に長崎を訪れて、初めて長崎の『原爆資料館』、『長崎市 永井隆記念館』に訪れ、
慟哭し、涙があふれた・・。
私は、ときおり今でも永井隆(ながい・たかし)氏の遺(のこ)された『長崎の鐘』、『この子を残して』などを、
読み改めたり、そして稀な言動に圧倒的に感銘させられている・・。
せめて私は平和を祈念する時、原点として『長崎の鐘』の歌を、
ときおり心の中で唄ったり、或いはかぼそい声で唄ったりすることもある・・。
私は永井隆(ながい・たかし)・著作の『長崎の鐘』は、
随筆の分野に於いて、近代文学史上の突出した優れた作品と評価している。
もとよりこの作品は、1946年(昭和21年)8月には書き上げられていたが、
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲によりすぐには出版の許可が下りず、
GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、
1949年1月に日比谷出版社から出版されたことは、周知の通りである。
そして当時は紙不足の中でも、当時としては空前のベストセラーとなり、
同書をモチーフとした歌謡曲はヒットしたり、或いは松竹により映画化され、版を重ねることになった、
と伝えられている。
『長崎の鐘』の歌の作詞は、サトウ・ハチロー氏であるが、
氏は作詞を依頼された当初は辞退された、と私は何かの本で読んだりした。
私は後年になって、サトウ・ハチロー氏の弟さんが広島の原爆の犠牲者となっていた、と学び、
こうした氏の思いから、当初は辞退された、と私は推測したりした。
それにしてもサトウ・ハチロー氏の優れた詩心は、
単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌である上、
打ちひしがれた人々のために再起を願った格調高い詞であり、
ここ67年近く、数多くの方に感動、そして感銘させている詞である。
年金生活の中で、私は8月9日の朝は、襟を正して、西の空に向かい黙祷してきた。
やがてぼんやりとしながらも、『長崎の鐘』の歌を心の中で唄ったりしている。
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