夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『不要不急』の風潮の中、高齢者の私は、ここ数日は『終活』をして、微苦笑を重ね・・。

2020-03-13 14:18:18 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住んでいる年金生活の75歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒家に住み、 ささやかに過ごしている。

ここ一カ月過ぎても、新型コロナウイルスに伴い、テレビのニュースなどで、
感染した事態が日々報じられ、重苦しい閉塞感に、戸惑いながら過ごしてる。

こうした中、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、
やがて政府より「 不要不急の集まり」を避けるよう公言されているが、
私は体力の衰えた高齢者の身であるので、散策を日々実行しないと益々衰えるので、
なるべく人出の少ない処を選定して歩いたりしている。

          

しかしながら人出の多い駅前のスーパーで買い物をする時は、やむえなくマスクをしているが、
何かしら水戸黄門さまの紋章のようなワッペンの『不要不急』に戸惑ったして、
ここ数週間過ごしている。  

ここ一昨日前から、『終活』の一環として、私の趣味の音楽作品のレコード、カセット・テープ、CD、
ビデオ・テープ、DVDをしている。

こうした中で、当初はレコードだけと思っていたが、整理している中、
音楽棚にあるカセット・テープ、CD、ビデオ・テープ、DVDまで整理して、
今後の人生で、たぶん聴かないであろう、という作品を処分することにした・・。

          

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退し、 芸能専門養成所のシナリオ科に通ったりした。

そして映画青年の真似事の生活を過ごし、 アルバイトや随時契約の単発仕事で何とか生計を立てていたが、
養成所の講師の知人の新劇の長老から、 映画は益々衰退して、まして脚本家で飯(めし)が喰えるのは、少ないので、
同じ創作するならば小説を書きなさい、とアドバイスを頂いたりした。

まもなく私は文学青年の真似事に転身して、警備員の契約社員をしながら習作をし、
こうした中で純文学の小説の新人募集に3回応募したが、最終予選の寸前で敗退したりした。

このような状況の時、 叔父からは、30過ぎた時、きちんと家庭を持てるだけの力があるの、と言われたりしたので、
根拠のない自信ばかり過ごしてきた私でも、敗北宣言をして、通常の社会人に戻る決心をした。

この時代は高度成長期であったが、大学を中退し、もとより企業の中途入社は容易ではなかったので、
やむなくコンピューターの専門学校でソフト科に1年間学んだりして、
何とかこの当時は大手の音響・映像メーカーに中途入社できたのは、
25歳を過ぎた1970年(昭和45年)の春であった。

          
             

この音響・映像メーカー会社は、この中のひとつとして音楽事業本部があり、

レコードの有力な幾つかのレーベルを管轄していた。

私は入社試験の面接の最終時に、テレビ・ステレオなどのハード系より、
何かしらソフト系のレコード部門に心身相応しいと思っていたので、懇願して配属して貰った。

入社した直後、現場を学べ、と指示されて、 横浜の新子安にある工場の一角で、商品管理の部署に勤めていた時、
まもなく大手のレーベルが、外資系のレコード会社として独立した会社となり、私も転属された。

やがて私は、10ヵ月後に本社のコンピュータ専任として異動させられ、
勤務地は赤坂にある東急ホテルに隣接したビルであり、まもなく本社が『六本木』に移転したので、
この後の1992年(平成4年)までの20年ばかり、 私は六本木の界隈の空気と共に過ごした。

この間、私は管理畑の商品、情報、経理をしている中、
やがて1992年(平成4年)の5月過ぎに、レコード会社の合併により、本社は渋谷の外れとなったりした。

この後、1998年(平成10年)の当時の私は、営業本部に勤めていたが、 
この数年前の頃から、音楽業界はリストラの烈風となり、
私は1999年(平成11年)の初春に、各レコード会社が音楽商品の物流を委託している会社に出向となった。

          


勤務した職場は、音楽のCD、DVDなどの商品を、
ソフトの販売店に出荷、返品など取り扱う物流会社の中のひとつの商品センターで、
私を含めた管理の正社員の5名の基で、契約・パート社員の男女120名前後で対応した。

こうした中、音楽のCD、DVDなどの商品棚が並ぶフロアは、
東京ドームより広い商品センターで、 連絡事項などはマイクを通して拡声器、もしくは電話などで通達し、
携帯電話も要求されない現場で奮闘し、 この出向先で5年半ばかり勤め、
2004年(平成16年)の秋に定年退職時を迎えた。

やがて定年退職時になると、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまった。

このような拙(つたな)いサラリーマン航路である上、 そして定年退職するまで半生期は、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、 ときおり敗残者のように感じることも多く、 悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めて、 早や16年生となっている・・。

          


この間、私は入社してから
音楽に知識のない私は、給料を頂くたびに、

自社の一枚、他社の一枚と買い揃えていった・・。

この当時の音楽ソフト商品としては、
レコードが主体で、カー・ステレオなどでステレオ8(エイト)のテープがあり、
少しずつカセット・テープが増えてきた時代であった。

そして平成元年前後、コンバクト・デイスクのCDが主流となり、
私も準拠しCDに移行して、買い求めたりした。

この時、私の自宅にはレコードが1000枚前後、カセット・テープは300本程度となった。

やがて、レコードは知人、友人などに上(あ)げたりしたが、
今の私のレコード専用棚には150枚前後眠っている。

されど私の青年期、若き社会人の時、深く心に影響を受けたレコードであり、
ジャケットを眺めたりした時は、その時代が甦(よみがえ)りのであり、
レコード・プレイヤーを手放しているが、捨てきれないレコードとなっている。

          

そして2004年の秋に退職後、カセット、CD、DVDの3000枚前後から、
知人、友人などに上(あ)げたりしたが、1000枚前後となっている今、

その時に思いついた曲を聴いたりしているが、
ときおりレコード棚を見るたびに苦笑したりしている。

ここ10数年は、ラジカセCDプレイヤー、テレビに接続しているブルーディスク、
或いは音響の良いパソコンで、音楽を聴いたり、視聴している。

一昨日より音楽作品のレコード、やがてカセット、CD、ビデオ・テープ、DVDを整理する中で、
今後の人生で、たぶん聴かないであろう、という作品を処分することにした・・。

こうした中で、ぼんやりとレコードのジャケット、CDの表(おもて)のジャケットを眺めたりしていると、
あの当時に買い求めた心情がよみがえり、微苦笑を重ねたりしている。

そして思い出は心の片隅に置いて、忘れてしまったら、それまで・・と断念したりした。

そして残した500枚ぐらいのCDとDVDだけは、
いつの日にか、この世とお別れするまで、心の友と思い深めたりしている。

コメント
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