私は東京の調布市に住んでいる年金生活の75歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒家に住み、 ささやかに過ごしている。
ここ一カ月過ぎても、新型コロナウイルスに伴い、テレビのニュースなどで、
感染した事態が日々報じられ、重苦しい閉塞感に、戸惑いながら過ごしてる。
こうした中、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、
やがて政府より「 不要不急の集まり」を避けるよう公言されているが、
私は体力の衰えた高齢者の身であるので、散策を日々実行しないと益々衰えるので、
なるべく人出の少ない処を選定して歩いたりしている。
しかしながら人出の多い駅前のスーパーで買い物をする時は、やむえなくマスクをしているが、
何かしら水戸黄門さまの紋章のようなワッペンの『不要不急』に戸惑ったして、
ここ数週間過ごしている。
ここ一昨日前から、『終活』の一環として、私の趣味の音楽作品のレコード、カセット・テープ、CD、
ビデオ・テープ、DVDをしている。
こうした中で、当初はレコードだけと思っていたが、整理している中、
音楽棚にあるカセット・テープ、CD、ビデオ・テープ、DVDまで整理して、
今後の人生で、たぶん聴かないであろう、という作品を処分することにした・・。
私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退し、 芸能専門養成所のシナリオ科に通ったりした。
そして映画青年の真似事の生活を過ごし、 アルバイトや随時契約の単発仕事で何とか生計を立てていたが、
養成所の講師の知人の新劇の長老から、 映画は益々衰退して、まして脚本家で飯(めし)が喰えるのは、少ないので、
同じ創作するならば小説を書きなさい、とアドバイスを頂いたりした。
まもなく私は文学青年の真似事に転身して、警備員の契約社員をしながら習作をし、
こうした中で純文学の小説の新人募集に3回応募したが、最終予選の寸前で敗退したりした。
このような状況の時、 叔父からは、30過ぎた時、きちんと家庭を持てるだけの力があるの、と言われたりしたので、
根拠のない自信ばかり過ごしてきた私でも、敗北宣言をして、通常の社会人に戻る決心をした。
この時代は高度成長期であったが、大学を中退し、もとより企業の中途入社は容易ではなかったので、
やむなくコンピューターの専門学校でソフト科に1年間学んだりして、
何とかこの当時は大手の音響・映像メーカーに中途入社できたのは、
25歳を過ぎた1970年(昭和45年)の春であった。
この音響・映像メーカー会社は、この中のひとつとして音楽事業本部があり、
レコードの有力な幾つかのレーベルを管轄していた。
私は入社試験の面接の最終時に、テレビ・ステレオなどのハード系より、
何かしらソフト系のレコード部門に心身相応しいと思っていたので、懇願して配属して貰った。
入社した直後、現場を学べ、と指示されて、 横浜の新子安にある工場の一角で、商品管理の部署に勤めていた時、
まもなく大手のレーベルが、外資系のレコード会社として独立した会社となり、私も転属された。
やがて私は、10ヵ月後に本社のコンピュータ専任として異動させられ、
勤務地は赤坂にある東急ホテルに隣接したビルであり、まもなく本社が『六本木』に移転したので、
この後の1992年(平成4年)までの20年ばかり、 私は六本木の界隈の空気と共に過ごした。
この間、私は管理畑の商品、情報、経理をしている中、
やがて1992年(平成4年)の5月過ぎに、レコード会社の合併により、本社は渋谷の外れとなったりした。
この後、1998年(平成10年)の当時の私は、営業本部に勤めていたが、
この数年前の頃から、音楽業界はリストラの烈風となり、
私は1999年(平成11年)の初春に、各レコード会社が音楽商品の物流を委託している会社に出向となった。
勤務した職場は、音楽のCD、DVDなどの商品を、
ソフトの販売店に出荷、返品など取り扱う物流会社の中のひとつの商品センターで、
私を含めた管理の正社員の5名の基で、契約・パート社員の男女120名前後で対応した。
こうした中、音楽のCD、DVDなどの商品棚が並ぶフロアは、
東京ドームより広い商品センターで、 連絡事項などはマイクを通して拡声器、もしくは電話などで通達し、
携帯電話も要求されない現場で奮闘し、 この出向先で5年半ばかり勤め、
2004年(平成16年)の秋に定年退職時を迎えた。
やがて定年退職時になると、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまった。
このような拙(つたな)いサラリーマン航路である上、 そして定年退職するまで半生期は、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、 ときおり敗残者のように感じることも多く、 悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めて、 早や16年生となっている・・。
この間、私は入社してから音楽に知識のない私は、給料を頂くたびに、
自社の一枚、他社の一枚と買い揃えていった・・。
この当時の音楽ソフト商品としては、
レコードが主体で、カー・ステレオなどでステレオ8(エイト)のテープがあり、
少しずつカセット・テープが増えてきた時代であった。
そして平成元年前後、コンバクト・デイスクのCDが主流となり、
私も準拠しCDに移行して、買い求めたりした。
この時、私の自宅にはレコードが1000枚前後、カセット・テープは300本程度となった。
やがて、レコードは知人、友人などに上(あ)げたりしたが、
今の私のレコード専用棚には150枚前後眠っている。
されど私の青年期、若き社会人の時、深く心に影響を受けたレコードであり、
ジャケットを眺めたりした時は、その時代が甦(よみがえ)りのであり、
レコード・プレイヤーを手放しているが、捨てきれないレコードとなっている。
そして2004年の秋に退職後、カセット、CD、DVDの3000枚前後から、
知人、友人などに上(あ)げたりしたが、1000枚前後となっている今、
その時に思いついた曲を聴いたりしているが、
ときおりレコード棚を見るたびに苦笑したりしている。
ここ10数年は、ラジカセCDプレイヤー、テレビに接続しているブルーディスク、
或いは音響の良いパソコンで、音楽を聴いたり、視聴している。
一昨日より音楽作品のレコード、やがてカセット、CD、ビデオ・テープ、DVDを整理する中で、
今後の人生で、たぶん聴かないであろう、という作品を処分することにした・・。
こうした中で、ぼんやりとレコードのジャケット、CDの表(おもて)のジャケットを眺めたりしていると、
あの当時に買い求めた心情がよみがえり、微苦笑を重ねたりしている。
そして思い出は心の片隅に置いて、忘れてしまったら、それまで・・と断念したりした。
そして残した500枚ぐらいのCDとDVDだけは、
いつの日にか、この世とお別れするまで、心の友と思い深めたりしている。