夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

過ぎ去った日々は、自分にやさしくなれる、75歳の私は、実感を深めて・・。

2020-03-14 14:04:21 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の16年生の75歳の身であるが、
このサイトには、ほぼ毎日投稿しているが、
ときおり過ぎ年の今頃は、どのような思いで過ごしていたのかしら、
と古き手紙を読むように過ぎ去った日々の投稿分を読むことがある。

先程、こうした心情になり、読みながら独り思わず微苦笑したりした。

そして昨日の投稿文の中の一部に於いて、
私が20歳の頃から民間会社を定年退職になるまでの概要を綴ったりしたが、

つたない人生航路を読み返して、改めて微苦笑したりした。

          

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退し、 芸能専門養成所のシナリオ科に通ったりした。

そして映画青年の真似事の生活を過ごし、 アルバイトや随時契約の単発仕事で何とか生計を立てていたが、
養成所の講師の知人の新劇の長老から、 映画は益々衰退して、まして脚本家で飯(めし)が喰えるのは、少ないので、
同じ創作するならば小説を書きなさい、とアドバイスを頂いたりした。

まもなく私は文学青年の真似事に転身して、警備員の契約社員をしながら習作をし、
こうした中で純文学の小説の新人募集に3回応募したが、最終予選の寸前で敗退したりした。

このような状況の時、 叔父からは、30過ぎた時、きちんと家庭を持てるだけの力があるの、と言われたりしたので、
根拠のない自信ばかり過ごしてきた私でも、敗北宣言をして、通常の社会人に戻る決心をした。

この時代は高度成長期であったが、大学を中退し、もとより企業の中途入社は容易ではなかったので、
やむなくコンピューターの専門学校でソフト科に1年間学んだりして、
何とかこの当時は大手の音響・映像メーカーに中途入社できたのは、
25歳を過ぎた1970年(昭和45年)の春であった。

          
             

この音響・映像メーカー会社は、この中のひとつとして音楽事業本部があり、
レコードの有力な幾つかのレーベルを管轄していた。

私は入社試験の面接の最終時に、テレビ・ステレオなどのハード系より、
何かしらソフト系のレコード部門に心身相応しいと思っていたので、懇願して配属して貰った。

入社した直後、現場を学べ、と指示されて、 横浜の新子安にある工場の一角で、商品管理の部署に勤めていた時、
まもなく大手のレーベルが、外資系のレコード会社として独立した会社となり、私も転属された。

やがて私は、10ヵ月後に本社のコンピュータ専任として異動させられ、
勤務地は赤坂にある東急ホテルに隣接したビルであり、まもなく本社が『六本木』に移転したので、
この後の1992年(平成4年)までの20年ばかり、 私は六本木の界隈の空気と共に過ごした。

この間、私は管理畑の商品、情報、経理をしている中、
やがて1992年(平成4年)の5月過ぎに、レコード会社の合併により、本社は渋谷の外れとなったりした。

この後、1998年(平成10年)の当時の私は、営業本部に勤めていたが、 
この数年前の頃から、音楽業界はリストラの烈風となり、
私は1999年(平成11年)の初春に、各レコード会社が音楽商品の物流を委託している会社に出向となった。

          

勤務した職場は、音楽のCD、DVDなどの商品を、
ソフトの販売店に出荷、返品など取り扱う物流会社の中のひとつの商品センターで、
私を含めた管理の正社員の5名の基で、契約・パート社員の男女120名前後で対応した。

こうした中、音楽のCD、DVDなどの商品棚が並ぶフロアは、
東京ドームより広い商品センターで、 連絡事項などはマイクを通して拡声器、もしくは電話などで通達し、
携帯電話も要求されない現場で奮闘し、 この出向先で5年半ばかり勤め、
2004年(平成16年)の秋に定年退職時を迎えた。

          

やがて定年退職時になると、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまった。

このような拙(つたな)いサラリーマン航路である上、 そして定年退職するまで半生期は、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、 ときおり敗残者のように感じることあったりした。
 
このように悪戦苦闘の多かった歩みだったので、せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、
年金生活を始めて、 早や16年生となっている・・。


定年後の年金生活を始めてまもない時、
人生で後悔のない御方はいない、と書物から学び、大いに私は慰められたりした。

              

私は我が家の買物の責務を終えて帰宅した後は、
やはり独りで自宅周辺の3キロ範囲を歩くことが多くなっている。
         
こうした中、付近に流れている野川の両岸にある遊歩道を歩いたり、
或いは小公園、小学時代に通学した旧市道を歩いたりしている。

ときには最寄駅の商店街に立ち寄り、知人と談笑したり、
都立の神代植物園に遠征したりすると、中学時代の同級生に逢う時もある。

こうした時、偶然だよねぇ・・、とお互いに再会を喜びながら、
過ぎし中学時代のそれぞれの同級生のことを話したりすると、長話になったりする時もある。            

そして私は、亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖におしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

そして私は、遊歩道、公園などを散策していると、
見知らぬ男性、 女性グループの御方たちと、話しかけられたり、或いは話しかけたりして、談笑し、
殆ど毎日過ごしている。

或いは、知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらく、と私は笑いながら逢ったりして、
明るい日中だとコーヒーを飲んだり、 夕暮れすぎの場合はビール、水割りのウィスキーを呑みながら、
談笑をしたりしている。

          
           
或いは私が勤めていたあるレコード会社のOB会と称せられる懇親会に出席したりすると、
上司だった御方たち、或いは同世代の数多くの人と談笑したりしている中、
数人から、XXさんは感性もお若いですょ、と私は社交辞令のお世辞を頂くこともある。

或いは女性グループの中で談笑している中、たまたま音楽の話題となり、
他社の『いきものがかり』を定年後に偶然に聴き、
何かと吉岡聖恵(よしおか・きよえ)ちゃんの歌声に、励まされていますょ、
特に『YELL(エール)』は、高齢者の私でも心身のビタミン剤ですょ、と私は言ったりした。

こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

ときには遊歩道、公園などを歩いたりしていると、見慣れた情景でも、
樹木、草花など、 初めて気づかされて、こんなに美麗な花だったの・・
新たなめぐり逢いに感謝をしたりしている。

                      

私はこのサイトに綴りはじめて15年半過ぎているが、

ほぼ毎日数通は投稿しているので、少なくとも2000通は越えている。

定年退職後の一ヶ月後から投稿しているので、
その時の思いが素直に熱く綴っていて、自分ながら微笑ましく思ったりした。
そして綴りの幼さもあり、ときおり赤面したりしている時もある。

私は過ぎ去った日々の綴りを読むと、何よりも自分に優しく、甘くなれるのに驚いたりしている。

              

このような深情は、日本酒に詳しい研究家の太田和彦さんの言葉をお借りすれば、

人はある年齢になると、新しさより古さを尊ぶようになる。
それは自分が生きてきた人生を肯定したいからだ。

確か総合月刊誌の『文藝春秋』2004年の12月号に於いて、寄稿文の中の一章だった、
と遠い記憶を思い出しながら、微苦笑をしたりしている。

コメント
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