夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ときには高貴なバラに跪(ひざまず)いて、何かと愚図の私が撮れば・・。

2014-11-15 14:03:01 | ささやかな古稀からの思い
私は幼年期に農家の児として育てられ、父の妹の叔母たちが畑の一角に、花壇を作り、
仏様とかお墓にささげる花を観たりしてきたので、里花には愛惜を秘めているひとりである。

或いは田圃(たんぼ)とか遊歩道の片隅に咲いている野花も恋しく、長年に見惚(みと)れたりしている。

そして家内は中学生の頃から茶事を習ってきたので、私は婚約の頃から茶花を教えられて、
魅了されたりしてきた・・。

このように里花、野花、茶花に関しては、少しばかり知っている程度のつたない男である。

洋花の代表のひとつの薔薇(バラ)の花に関しては、
何かしら高嶺の花の女性の容姿のようだ感じ、高貴な花と深めてきたので、
恥ずかしながら定年退職した60歳の頃まで、近寄りがたく気後(きおく)れしまい敬遠してきた・・。

そして何かと卑屈と劣等感を秘めてきた私でも、
遅ればせながらイギリス、フランスなどのヨーロッパの文化を逃げることなく知る為には、
やはり薔薇(バラ)は欠かせない、と確信を深めたりした。
       
       ☆ 今回、掲載した写真のすべては、昨日の昼過ぎに都立『神代植物公園』で撮った ☆


そして年金生活の60代に国内旅行で遊学していた際、
『バラ園』があった時には、ときおり鑑賞する時もあった。

或いは私の住む地域には、都立『神代植物公園』があり、
恒例の『春のバラフェスタ 』、『秋のバラフェスタ 』などが開催されて、
数多くの美麗な薔薇(バラ)を鑑賞して、感性の衰えた私でも、魅了された。
       


昨日、平素の買物を終えた後、いつもように自宅の付近を散策したり、
小公園に立ち寄り、朱紅色、黄色に染められた錦繍(きんしゅう)の情景に心を満たされて、
帰宅に向かっていると、
何かしら忘れ物があった・・このような思いになったりした。

そして遊歩道のベンチに腰かけて、小休息していた時、秋のバラを観ていなかった、
と気付き、私としては異例であるが、路線バスを乗り継いで、都立『神代植物公園』に到着した。
       

そして正門から入場すると、菊の展示品が並ぶ前、
60代と見られる女性4人の話し声が聴こえたりした。
何かしら先日まで開催されていた『秋のバラフェスタ』は、素敵だった・・、
このような意味合い内容を褒めあったりしていた。

この後、私は恥ずかしながらも付近にいた公園の係員に、
『秋のバラフェスタ』の開催期間を尋(たず)ねたりした。

そして今年の開催期間は、10月11日(土)~10月26日(日)だったことを知り、
私は少しボケで忘れてしまったかょ、と苦笑したりした。
       

やがて私は、この期間は私たち夫婦の記念旅行の最中と前後の日々であった。
私は過ぎし9月下旬に古希(こき)と称される満70歳となり、
家内は12月下旬に高齢者入門の65歳となり、お互いに介護保険を有する夫婦となるので、
ささやかな記念旅行をしたりした。

岩手県と秋田県の県境にある八幡平の周辺の藤七(とうしち)温泉に3泊した後、
ふけの湯温泉に一泊し、そして後生掛(ごしょがけ)温泉2泊した旅路で、
10月14日より20日まで、周辺を遊学したりした。

この旅路の前に、台風が首都圏を通過すると報じられていたので、
何かと単細胞の私は、果たして私たちの記念旅行は予定通り大丈夫かしら、と心の中は占領されたりしていた。

このような結果、今年の都立『神代植物公園』の『秋のバラフェスタ』は、
私は心の余裕はなく、忘れてしまっていた・・。
       

私は気を取り直して、ハラ園には残り花が咲いているかしら、と不安を秘めて向かった。
そして何かとプラス思考の私は、残りもんには福があり、と名言に勇気づけられて、歩いた・・。

やがてバラ園に着くと、遅いじゃありませんの、遅刻ですょ、と叱咤されたような心情であったが、
それぞれの花形が美しく、やはり高貴な女性の容姿だよねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
遅刻のお詫びも含めて、跪(ひざまず)いて、撮ったりした。
       

私の所有しているコンバクト・デジカメの性能、そしてデジカメの技量の乏しい私は、
せめてバラに魅了された若葉マークのような初心者として、
心の思いは誰よりも、と思いながら10数枚を撮ったりした。
       

こうした中で、恥ずかしながら少しポケてしまった写真はあったが、
こうしたことは高貴の女性の前では、
私はいくつになっても、オドオドしてしまい平常心をなくしていた、と後で気付いたりした。
      

このように一時間半ばかり、麗(うる)しい数多くのバラに、綺麗な高嶺の人、と思い深めて過ごし、
やがて高揚しながら帰宅に向かった。

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誰しもが長年お住まいになった地域は、この世の安楽の地かしら、と深く思い重ねて・・。

2014-11-14 16:28:03 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の身であるが、
民間会社の中小業のある会社を35年近く奮戦して、2004年(平成16年)10月下旬に定年退職し、
多々の理由により年金生活を始めて、早くも10年が過ぎて、過ぎし9月下旬に古希と称される70歳を迎え、
ピカビカの小学生のような心情で、70代を歩き始めているひとりである。

平素の殆どは、日常の買物専任者の私は、家内から依頼された買物を終えた後、
自宅の周辺3キロ範囲にある遊歩道、小公園、都立の公園、或いは小学時代の通学路などを歩き廻り、
季節のうつろいを享受している。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、私の生家は近くにある。
       
       ☆ 掲載した写真のすべては、本日近くに散策した小公園の情景 ☆
 

私は1944年(昭和19年)秋に農家の三男坊として、生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに蔵(くら)、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と小学校の先生たちは称していた。

私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。
       

やがて父が私が小学2年3学期になると、黄疸〈おうだん〉で長らく自宅治療をしていたが、
肝臓が悪化して、42歳の若さで病死した。
        
この後、翌年の5月に祖父は胃がんで最寄の大学病院で亡くなった。
やがて大黒柱をなくした農家の生家は、没落しはじめたのである・・。

母、そして父の妹の未婚の叔母、そして私達の兄、妹の5人の子供が残され、
私たち子供は母と叔母に支えられ、そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった・・。

もとより農家としては、肝要な農作業のノウハウと労力も減退し、
田畑の作業も出来る範囲が大幅に減少したので、生計は低下を余儀なくされた・・。

やがて昭和30年〈1955年〉の頃から、生家の地域は都会に住んでいた人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した昭和32年〈1957年〉の春であるが、
この頃になるとベットタウンとなり、田畑は激少し、竹林、茶畑も消え去り、
新興の住宅街となり大きく変貌した・・。
       

やがて私が生家を出たのは、結婚する前の3年前の1973年(昭和48年)秋で、
この当時の母は小田急線の『登戸』駅の近くで、多摩川に隣接した地域でアパート経営をして、別棟に住んでいた。
こうした中で、私は同居をした。

この後、私は結婚して、千葉県の市川市の国府台にある賃貸マンションで、
新婚生活を2年ばかり過ごした後、
生家の近くに一戸建てを新築して、やがて今日に至っている。

結果的には世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に、結婚前後の5年を除き、
65年は住んでいる。

私は登戸の3年、学園風の国府台の2年を過ごしたが、何かしら借り住まいのような心情であった。
夏の盆踊り、秋のお祭り、選挙の投票所などは、いずれはどちらの地域で永住するような気持ちがあった為か、
何かしら異国のような感じがあったりした。
       

そして色々と思案した結果、生家の近くに私たち夫婦は住むこととなり、
家内は不慣れな地域であったで、
私は休日になると、家内を誘い、自宅の周辺を散策したりし、
小学生の時に通った道、などと旧街道の小道まで案内をしたりした。

私の家の最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分であり、
小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
或いは私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
この京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。
       

そして私は、知人の住む都心の青山、広尾などの地域に魅了されることなく、
今の住んでいる地域は、確かに住宅は密集しているが、周辺に常緑樹、落葉樹が多く、
何よりも安らぎを感じている。

そして誰しもが長年お住まいになった地域は、日々の生活の積み重ねがある中で、
やがて想いでも蓄積されて、愛惜感も深まり、
それぞれのお方は、その地域こそが何よりの安楽の地となるだろう、
と心の中で呟(つぶや)きながら、深く思い重ねたりしている。

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にほんブログ村に加入して、早や6年が過ぎ、数多くの方から多々教示されて・・。

2014-11-13 15:45:08 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の身であるが、
年金生活をしていると何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

私は民間会社の中小業のある会社を35年近く奮戦して、2004年(平成16年)10月下旬に定年退職し、
多々の理由により年金生活を始めて、早くも10年が過ぎて、過ぎし9月下旬に古希と称される70歳を迎え、
ピカビカの小学生のような心情で、70代を歩き始めているひとりである。
       
       ☆ 掲載したすべての写真、本日の午前中のひととき、自宅付近を散策した時、
         朱紅色、黄色に染められた季節が到来したので、たわむれに撮った ☆

私は定年退職して、まもない時に偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。

そして私は、2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)の1月中旬に加入したので、
これ以来、10年近くになっている。
     

しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    
          

このような軌跡で、ブログの世界を知って丸10年となり、11年生に進級した。
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
       

こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
         

私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切にしているひとりである。
       
従って、数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。
                  
                                   
私はブログを投稿する際、筆力が乏しいながら
最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしているが、
日本だけでもブログをされている方は、少なくとも数千万人と風の噂で聞いたりしていた。

そして私の加入している【gooブログ】のサイトでも、
過ぎし年の2008年(平成20年)の当時は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら文章だけの散文らしき文を綴り投稿文としていた。

そして私のサイトは訪問者数は長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
多くある広大な砂糖黍(さとうきび)畑の中で、たった一本の砂糖黍(さとうきび)のような存在であった。
       
         
このように私は、やがて埋もれてしまい、誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。
                   

こうした思いからひとつの方法として、やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。
                   

そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
2009年〈平成21年〉の頃に『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。

その後、2010年〈平成22年〉の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。
       

私は2008年〈平成20年〉の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していた・・。

やがて『にほんブログ村』に於いては、投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、
私の投稿文毎にどのくらい読んで頂いたか、と目安ができるので、ふたたび本加入させて頂いたのは、
2010年〈平成22年)9月28日であった。

そして『にほんブログ村』のカテゴリー区分を迷いながら、
シニア日記系の『60歳代』、オヤジ日記系の『お茶目オヤジ』、そしてニュース系の『ニュース批評』とし、
三分割の比率で登録した。

その後、まもなくニュース系の『ニュース批評』を削除したりした。

やがて一ヶ月ばかりの投稿文を読み返したりすると、 少し的はずれになっている、と思い考えこんだりした・・。

そして『にほんブログ村』のカテゴリー区分に於いて、
遅ればせながら小説系の中に『エッセイ・随筆』があったことに気付き、
オヤジ日記系の『お茶目オヤジ』を削除して、小説系の『エッセイ・随筆』に修正したりした。

この結果、シニア日記系の『60歳代』と小説系の『エッセイ・随筆』となり、
小説系の『エッセイ・随筆』に比率は重点していたが、
やがて一昨年の秋の頃から小説系の『エッセイ・随筆』を脱退し、
世代のよしみに甘えてシニア日記系の『60歳代』に完全移行した。
                                                     

こうした中で、『にほんブログ村』のシニア日記系に加入している50代から70代の多いシニア層のお方を中核に、
多くのお方の投稿文を読ませて頂いたりした。

もとよりシニア日記系に加入しているお方は、それぞれ生を受けた環境も違い、
その後に育った状況、学歴、その後の社会人として職業、結婚生活・・、
やがてシニア世代となり、それぞれの生活をしていて、誰ひとり同じ人生航路を歩んできた人はいない。

その上、人それぞれ思考、信条、性格なども違うし、この広い世界で同じ人はいなく、
男性グループのSMAPの唄った『世界に一つだけの花』のような存在なのである。
         
そして人は誰しも光と影を有している中、  
日記として綴られている場合は、その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生苦楽を体験された軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ苦楽の深淵を感じながら年金生活を過ごしたりしている。
       

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、
この人生を生きて行くことはできない、このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。
          

過ぎし年の1959年(昭和34年)の3月、昭和天皇のご皇女・貴子さまが、
20歳の誕生日に於いて、記者会見をされて、
私の選んだ人を見ていただきます、と明言されたことを中学生だった私は、心の片隅で覚えている・・。

恐れ多くも平民の私は準拠して、数多くの投稿文を読ませて頂く中で、
私のブログサイトの左側の『ブックマーク』に於いて、
ご当人様のご承諾も得ずに、掲載させて頂く、と明記して掲げているが、
少なくとも2年半以上、このお方が投稿するたびに必ず私が愛読してきたサイトである。

掲載した順番は女性を優先とし、私が感銘を受けた時期に準拠している。

   ☆蝶になりたい
   ☆うばゆり日記
   ☆世界の一つだけの姥花日記
   ☆今が一番素敵
   ☆マジョリンの気ままにスローライフ
   ☆野いちごひとりごと
   ☆あなたがいて私がいて、そして
   ☆緑仙の日々是好日
   ☆かのこの部屋
   ☆一生勉強一生青春・good everyday
   ☆かをるのワルツ♪
   ☆赤い実青い実黄色い実
   ☆ふたりでお茶を
   ☆らんらんのブログ
   ☆禅寺丸ばあさんのひとりごと
   ☆心の軌跡
   ☆夫婦で新しい人生にトライしてます
   ☆花ちゃんはいつまで1人で暮らせるか
   ☆どんぐりブローチ

   ☆田舎おじさん札幌を見る!観る!視る!
   ☆田舎暮らしは心が和む♪
   ☆薪ストーブと高齢者の日々
   ☆天真爛漫ちゃらんぽらん  
   ☆雲上の楽園通信
   ☆小さな里山暮らし
   ☆林住記
   ☆翁の笑止な “ガハハ” 問答
   ☆JAMESの言いたい放題&一人暮らし
   ☆プー太とにころ山
   ☆気ままな生活
   ☆無門の縁台日記・PARTⅡ
   ☆老いてピンボケ独り言
   ☆無無無庵
   ☆浜ちゃんの小豆島写真日記
   ☆雅勒の散歩路
   ☆中高年よ大志を抱け
   ☆仁
   ☆フォトログ小旅風草
   ☆エピローグ

そして愛読してきたサイトの大半は、『にほんブログ村』で知り得たお方である。
                 
         
この諸兄諸姉のサイトに関しては、一部のお方とのコメント上で交流を除き、
隠れキリシタンのように秘かに私は、愛読者のひとりとなっている。
                                    
こうした理由の一つとして、私は気楽にコメントを書くことはできない身で、
コメントを書き込んで下さった方のプロフィールはもとより、
最近のその方の心情まで配慮して返信するタイプのひとりである。

こうした事情により時間が要するので、日常生活の肝要の読書、散策の時間まで影響し、
原則としてコメントの交信は取りやめて、お互いに投稿文を読んで頂ければ、と変貌した時代もあったりした。

ここ数年は、来訪しコメントを残して下さった方には、原則として返信を認(したた)めている。
或いは数多くの方の投稿文を読ませて頂き、感極まって私は、そのお方にコメントをしたりしている。

そして上記の諸兄諸姉のサイトを明記した以外に、ときおり読ませて頂くお方も多く、
ここ3が月に於いても、瞬時に魅了されたお方のサイトも12名のお方もいる。
                 
               
私はブログを書き始めて、丸10年が過ぎて、早や11年生であるが、
この広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そして偏(ひとえ)に数多くの皆様にささえられて、投稿文が継続できていることも確かな事であり、
その上に、数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、改めて感謝している。


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内臓の老化、そして防止策を学び、齢ばかり重ねた私は微苦笑を重ねて・・。

2014-11-12 16:19:50 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
若き40代の時は、幾たびか腰痛に悩まされて、28泊29日の入院生活をしたりした。

民間会社の情報畑で開発業務と運営業務を兼ねて、もとより睡眠不足の中で日夜奮闘した結果、
疲労が蓄積した結果かしら、と苦笑したりしてきた。

やがて定年退職後、多々の理由で年金生活を始めて、5年が過ぎた2010年(平成22年)の秋に、
健康診断の結果、糖尿病と診断され、
内科の医師の指導、家内の野菜を多くした料理、そして私はウォーキングをほぼ毎日したりした。

そして翌年の2011年(平成23年)の3月の初旬、
最寄の内科に4週間毎に定期健診を受けて、糖尿病の範囲の対象から克服でき、悪玉コレステロールは基準値の90%、
これ以外はすべて優等生となった。

この後は、4週間毎に定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
        
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わない。
私自身の糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症である。

こうした根底があり、自宅の周辺3キロぐらいの中の住宅街の道、遊歩道、小公園などを
ひたすら歩いたりする中で、 季節のうつろいを享受している。
              

先ほど、ネットでニュース記事を読んだりしていた時、
たまたま『内臓の老化で薬が効き過ぎるようになる?! 薬物中毒の恐れも』
と見出し記事を見て、どういうことなょ、と思いながらクリックしてしまった。

この詳細記事は、「週刊新潮」2014年11月6日神帰月増大号の記事のひとつで、
関連会社の『BOOKS&NEWS 矢来町ぐるり』の11月11日(火)に配信された記事であり、
無断ながら転載させて頂く。

《・・誰もが不安な老化の恐怖。しかし老化現象と言っても、その症状や進行は千差万別。
今回は内臓の老化を防ぐ方法をお届けする。

 ***

一般的にあまり知られていないが、臓器も年齢を重ねるごとに老化するのである。

笠寺病院・総合内科部長の倉知美幸氏が指摘する。

「内臓の中で一番大きな臓器の肝臓も老化します。
再生能力があるので、加齢によって異状をきたすことはありませんが、40代から徐々に小さくなっていきます。
例えば40代を100だとすれば60代で15%、70代で25%、80代では35%も小さくなるというデータがある。
肝臓の役割は栄養の分解や解毒などですが、老化で縮小することにより、その機能も低下してしまうのです」

よく若い時に比べて酒に弱くなったという話を聞くが、これも肝臓の老化が原因だという。


山口内科の山口泰院長が、肝臓の老化で陥る意外な落とし穴に警鐘を鳴らす。

「肝臓の老化で気をつけなければならないのが、内服薬が効き過ぎる点でしょう。
肝臓は薬の成分の代謝も担っているので、その機能が低下すると薬の成分が分解されずに体内に残ってしまう。
例えば、今まで服用しても問題なく効いていた睡眠薬。
量を変えずに飲んでいたのに、ある日を境に朝起きても眠気が取れないという弊害の出た人もいる。
これは肝臓の老化が原因である可能性が高い。すぐに医師や薬剤師に相談すべきでしょう」
       

さらに深刻なのが、腎臓の老化である。おぎの内科医院の荻野英朗院長が言うには、

「肝臓と違って、腎臓には再生能力がないので、年齢と共に確実に衰えていきます。
薬の成分を分解する点で、腎臓は肝臓と共通している。
薬の多くは肝臓ですべて分解されず、最終的に腎臓で分解されます」

こうした薬は「腎代謝型」と呼ばれている。

「代表的なのはアセトアミノフェンという解熱剤などです。
腎臓が老化すると、服用した薬を分解して尿として体内から上手く排出できず、
血液に溶け込んで体内に回ってしまうことがある。

極端なことを言えば、うまく分解されずに体内に残り続けてしまうことで、薬物中毒になる恐れもあるのです。
高齢者に薬を処方する場合、腎機能の状態を十分確かめる必要があるでしょう」

肝臓と腎臓を守るには、大敵の油分、糖分、そしてアルコールを控えることが近道だ。・・》

このように肝臓と腎臓に関して、老化の現状、注意点、そして防止策を私は多々教示された。
       

私は過ぎし日の9月下旬に古稀と称される70歳になり、この数か月前の頃から、
これからの70代の日々の年金生活は、どのように過ごせるか、と思案したりしてきた。


世の中の多くの男性は、健康寿命と称される心身ともに自立し健康的に生活できるのは、71歳前後と知り、
やがて悩ましい介護・要か大病などを得て、80歳前後が平均寿命と学んだりしてきた。
    
こうして学んできた私は、何よりも健康でなければ、ささやかな願いも叶わないので、健康寿命が肝要だ、
と深めたりしてきた。

そして何よりも日々歩くことが肝要と思いながら、認知症は勘弁してょ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
ひたすら歩いているのが、70歳を50日ばかり過ぎた私でもある。

そしていつまで健康寿命が保てるか、やがて命果てる日は、
自助努力は大切であるが、こればかり天上の神々の采配に寄ることである。

私の昨今の心情として、60代は大病も遭遇せずに安楽な生活をできた成功体験を秘めながら、
70代はしなやかに生活を過ごせば、と漠然と思いながら、今日に至っている。

しかしながら、今回の記事から肝要な肝臓と腎臓に関して、何かと無知な私は多々教示され、
少し注意して日常生活を過ごせば、75歳ぐらいまで、健康寿命の範囲に居られるかしら、と思ったりした。

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『にほんブログ村』まもなく10周年と学び、私も10年前にブログを始めた頃のささやかな思いは・・。

2014-11-11 15:46:11 | ささやかな古稀からの思い
昨夜、ブログランキングとして名高い『にほんブログ村』に加入している私は、
《・・平成16(2004)年11月21日のインターネット記念日に
にほんブログ村は産声を上げました。
あれから10年、月日の経つのは速いもので、来る平成26年11月21日、
にほんブログ村は建国10周年を迎えます。・・》

このような管理サイドの告知を読んで、確か私はブログを始めたのは、この頃だったと思いながら、
机の引き出しにある小さなカレンダーを見て、
2004年(平成16年)11月12日に【アメーバ】に加入、と私は記入していた・・。

この後、この当時の2004年(平成16年)11月の頃を思い馳せたりした・・。
       

私は1970年(昭和45年)の春、この当時は映像・音響の大手メーカーの民間会社に、
何とか中途入社出来たのは、25歳の時であった。

そして音楽事業本部の片隅で勤めていた私は、まもなくこの中のひとつの大きなレーベルが、
外資系のレコード会社として新設され、私も移籍の辞令を受けて、
音楽に直接に関わる制作畑ではなく、商品、情報、経理、営業などの部門を異動したりして、
35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。

私が勤めてきた中小業の多い音楽業界の各レコード会社は、
1970、そして80年代はそれぞれのレコード会社は躍進したが、
1990年代を迎えると、特に外資系は、世界市場の中でアメリカに続いて、日本が第二位となり、
抜きん出た市場となり、本国の要請で利益の追求が厳しくなり、
やかて各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。

そして1998年(平成10年)に売上の主軸となるCDがピークとなり、
この少し前の年からリストラ烈風となり、
私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば1999年(平成11年)の2月に、
取引先の物流会社に出向を命じられた。
       
                 
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、
私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、と思いながら精務した。
             

この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
       

このように私は拙(つたな)いサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
         

更に私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしてきた・・。
                 

そして私たち夫婦は子供に恵まれずたった2人だけの家庭の為か、
定年退職後の60歳以降は、私は働くことを卒業し、厚生年金を基盤に程ほど貯金を取り崩しながら、
ささやかに年金生活をして、
お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく過ごして、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよい、と願いながら年金生活を始めた。

この間、家内の父は10月初旬に死去し、仮通夜、通夜、本葬、告別式、初七日と日々を過ごした後、
私の定年退職時の10月20日の正式日に迎え、退職後の書類、退職金などで銀行廻りをしたり、
関係先、知人に退職の挨拶した御礼の葉書を郵送したりし、慌ただしい日々を過ごしたりした。
       

我が家はインターネットを開設したのは、私が定年退職する数ヶ月前であった。
この当時の私は、数多くの同世代の人たちと同様に、多忙の現役サラリーマン時期であり、
自宅のパソコンにインターネットを開設したならば、友人たちと電子メールの交流の時間に余裕もない思いがあり、
退職後からすればよいと思いがあったのである。
          
私は現役サラリーン時代は情報畑に20数年従事し、1990年(平成2年)の初めの頃までは、
ある程度は専門畑として奮戦していたので、コンピュータの世界が解かっていたが、
その後は人事異動して利用者側の間接部門となったので、
やがて先端技術は解からず、社内システムのオンラインの端末機を利用したり、或いはパソコンを活用し、
業務に従事していたぐらいであった。

このような体験があったが、いざ自宅でパソコンにインターネットを連動させた時、
Webのネット世界の環境には、急速に進化を増したことに驚きながら溜息を重ねて、出遅れたと感じたりした・・。
          
                    
そして、定年退職後は、『ホームページ』を立ち上げて、
自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを出来うる限り随筆風の散文を綴り、
公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、無名の私が開設・運営した所で果たして、
と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。

この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。
                      

そして私はブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のことから、政治、社会などに専門知識がない私でも、私なりの思いを発露でき、
何よりホームページより手軽に開設、運営できると感じ、ブログに加入しょうと決意した。

そして私は、2004年(平成16年)11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入したり、
まもなくブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】に加入し、
原則として毎日投稿したのは、2004年(平成16年)11月17日であった。

その後、ブログ形式に準じた【すくすくブログ】を知り、
気楽に綴れる専用サイトとしたのは、翌年の2005年(平成17年)1月11日であった。
一週間ぐらい投稿したが、会員数の多い【gooブログ】を知り、取り止めたりした。

この後、この【gooブログ】に加入して、
少し気楽に団塊世代、社会、政治・経済の諸問題を綴ろうと思い、投稿をはじめたのは、
2005年(平成17年)1月19日であり、この日から3,583日が過ぎている。
                 
                
         
この後は、会員数の多い【gooブログ】とブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】
二刀流のようなそれそれと差異のある投稿文を重ねて一年半ばかりした。

特に【gooブログ】は政治・経済に関しては、専門知識がなく素人の感性で、
投稿文を認(したた)めてきたが、つたなさ、そして無責任の広言を反省し、投稿を中止した。

やがて2007年(平成19年)、肝要の本命である【簡単gooホームページ】が9月末で閉鎖と知り、
8月より半ばより、これまで投稿文が移動できるブログ形式に準じた【OCN Cafe】を知り、
やむなく加入したりした。

この間、2008年(平成20年)の春先から、少し悩んだりした・・。

定年退職後の3年半、このように4つのブログ系のサイトに加入して書き散らしてきたが、
4月の初めに、山口百恵ちゃんの歌にあるプレイバックのように振り返った時、
何かしら今までの数多くの投稿文は、鍋物の《ごった煮》のような思いを深めたりした。

そして投稿を休止していたブログ【gooブログ】に、今まで書き散らかした投稿文3000通前後を
コピーしながら整理、統合し始めたりした・・。
          
そして2008年(平成20年)4月中旬から本格的に【gooブログ】を再開させて、
私が幼少時代から年金生活の今日までの生きてきた心の軌跡であり、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。
                           

やがて併設していた【OCN Cafe】は、2010年(平成22年)7月で中止し、
これ以来【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』を単独とした。

この後、2年前の初めの頃に、『夢逢人たわむれ記~かりそめ草紙~』とタイトルを改称した後、
『夢逢人かりそめ草紙』と短縮して今日に至っている。


年金生活を過ごしている今、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。
        

私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切にしているひとりである。
       

こうして年金生活を丸10年が過ぎ、明日の12日にブログ開設して丸10年を迎え、
私はパソコンの故障、国内旅行をしていない限り、毎日一通は投稿文を送信してきた。
      
恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と思いながら、微苦笑したりしている。

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月刊総合雑誌の『文藝春秋』を買い求めに、駅前まで往還すれば・・。

2014-11-10 14:54:42 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の身であるが、
日常の大半は、何かと随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまない映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして年金生活の今でも本屋で、単行本、新書本、文庫本のコーナーを見たりして数冊買い求めたり、
ときには雑誌コーナーで月刊誌、季刊誌、臨時特別号を眺めた後、魅了された時は購入している。
そして、結果として手ぶらとなった時は、古本屋に行ったりして、読みたい本を探し求めて、
早や50数年過ぎている・・。
                 
          

こうした中で定年後の年金生活の中で、単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
徳岡孝夫、高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、中西輝政、山崎正和などの各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は長らく愛読し、
毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は購読している。

或いは季刊誌としては、『文藝春秋SPECIAL』を購読しているが、
今や季節をめぐる毎の秘かな恋人のように愛読している。
                 

新聞は長らく読売新聞を購読し、そしてNHKのテレビニュースを視聴して、
世の中の出来事を学ぶことが多い。

しかし私は読売新聞、そしてNHKのニュースにしても、
政治、外交、軍事、経済、社会のニュースに関しては、私は70%ぐらい信頼している。

そして更に深く知りたい時は、ネットを活用して、
そのニュースに関して、それぞれの専門家の著名人の寄稿された文を読み、
やはり専門分野で活躍されている方の論説は洞察力がある、と深く教示されることもある。

こうした中で月刊総合雑誌に於いは、あるテーマに関して、
それぞれの専門家の著名人が競うように寄稿文が同時掲載され、
私はその著名人のこれまでの軌跡を思い重ねて読むことが多く、圧倒的に心の深淵まで揺すぶられる。
                     

今朝、ぼんやりとカレンダーを見ると、10日、と知り、『文藝春秋』の発売日だ、
と心の中で呟(つぶや)きながら、どこで買い求めようか、と思いめぐらしたりした。

そして京王線の最寄駅のひとつの『仙川』駅の前の本屋まで、
片道20分ばかりの路を散策を兼ねて往還しょう、と決意した。

やがて10時過ぎに、晴れわたった秋日和の中、少し遠廻りして旧街道を歩いたりした。

ときおり微風が吹いたりしていたが、颯爽と歩き続ければ、少し汗ばんだりしてきたので、
心地よく、駅前をめざして歩いたりした。
       

そして周辺の情景を眺めたりして、ときおり季節のうつろう光景に立ち止まって、見惚れたりしている。
       

やがて駅前の近くなると、寺院が多く、私は何かと小学生の頃から、漠然と魅了されている処で、
立ち止まってしまう・・。
       

この後は駅ビルの中にある本屋に寄り、本日発売の『文藝春秋』(12月号)を買い求め、
            

やがて家内からの依頼品を2店ばかりで購入して、帰宅に向かった・・。


私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年の秋に、
大学を中退し、アルバイトや契約社員をしながら映画・文學青年の真似事して、
あえなく敗退して、やむなくサラリーマンに転進する為に、コンピュータの専門学校で一年ばかり学んだ後、
何とか大手の民間会社に中途入社出来たのは、1970(昭和45)年の春であった。

こうした彷徨(さまよ)うようになった5年間は、何かと社会から取り残されていたので、
一般的な常識の政治、外交、軍事、経済、社会などに欠けていたことに気付かされ、
総合月刊雑誌の『世界』、『中央公論』、『文藝春秋』を毎月読むようになった。

この当時の私は血気盛んな私は独身青年であったので、娯楽週刊誌の『平凡パンチ』まで読んでいたので、
私は秘かに『世界』から週刊誌の『平凡パンチ』まで雑誌を読んでいるのは、
日本広しといえども私ぐらい、と自惚(うぬぼ)れていた時期であった。

しかしながら、たまたま音楽業界のあるレコード会社に勤めて情報畑で奮闘していると、
数多くのサラリーマンと同様に多忙となり、
やがて結婚をしたり、住宅ローンの返済に苦労したりすると、
次第に格調高い『世界』の知識についていけず、
ときおり『中央公論』だけは特集に関心させられた時だけ購読するようになった。

そして結果的には、毎月に愛読している総合月刊雑誌としては『文藝春秋』だけとなり、
定年退職後の年金生活の今でも、毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
       
          
このような『文藝春秋』に関しては、ささやかな思いがあるが、
購読して早や44年は過ぎているかしら、と齢ばかり重ねた私は微苦笑したりしている。

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昨今の世の中の流行に遠のき、時代遅れの私たち夫婦は、微苦笑し・・。

2014-11-09 14:04:51 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私は午前中のひととき、ネットでたまたま『日経トレンディ』を開いたら、
今年の「ヒット商品ベスト10」のニュースが掲載されていた。

そして齢ばかり重ねた私でも、好奇心を失くしたら、この人生は終わりだ、という秘かに生活信条としているのて、
こっそりとクリックしてしまった。
http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20141030/1061085/?n_cid=nbptrn_leaf_rank
☆【日経トレンディ】公式サイト >==【速報】2014年ヒット商品ランキング発表! 1位は「アナと雪の女王」☆

そして私は掲載されているベスト10を見たりした・・。

1位 アナと雪の女王
2位 妖怪ウォッチ
3位 ウィザーディング・ワールド・オブ・ハリー・ポッター
4位 ジェルボール洗剤
5位 Ban汗ブロックロールオン
6位 伊右衛門 特茶
7位 TSUM TSUM
8位 クロワッサンドーナツ
9位 格安スマホ
10位 あべのハルカス

このように今年が世の中で流行されたのが明記され、無知であったが、
かすかに9位の格安スマホは新聞で読んだことがあったぐらいで、苦笑したりした・・。
       

私は中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、2004年(平成16年)秋に定年退職をした後、
多々の理由で年金生活を始めた。

現役のサラリーマン時代は、音楽に直接に携わる制作畑でなく、裏方の管理畑、情報畑などであったが、
私なりに奮闘していたので、もとより音楽業界、コンピューター業界は、多少は知っていた。

そして、週刊誌の音楽専門誌の『オリコン』、ビジネス全般として『日経ビジネス』、
月刊誌の『日経トレンディ』、そしてテレビ・CM・音楽・映画界などの『日経エンタテイメント』を購入し、精読していた。
或いは当然の責務として、音楽の業界紙も読んでいた・・。

こうした当時は、『日経トレンディ』の誌上に於いて、
毎年「ヒット商品ベスト30」を発表されているのを長らく見たりし、
多々教示されたりしてきたが、殆どのヒット商品は理解していた。
       

定年後の年金生活の当初から、私は平素の買物に関しては自主的に選任者となり、
独りで毎日のように最寄りのスーパー、専門店に行ったりし、
ときおり駅前で買物をした時は本屋に寄ったりしている。

その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

或いはときおり庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


私たち夫婦は恥ずかしながら、スマートフォンはもとより、携帯電話さえも使えなく、
その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンに無縁であり、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
せめてと思いながら据え置き型のパソコンとノートパソコンを利用している。

その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンに無縁で、
無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思い、
このように稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。
                 

年金生活をしていると、スーツを着る機会もなく、ネクタイは冠婚葬祭ぐらいとなっている。
しかしながら齢を重ねると、きちんとした洋装をしないと見っともないわ、と家内から言われたりしてきたので、
ときおり家内に導かれて、デパートの紳士コーナーで、ブレザーと長ズボンを買い求めたりしてきた。

或いは国内旅行で観光ホテルに5泊6日前後の滞在型で、周辺を歩き回り遊学することが多くなり、
アウトドアの衣服を購入したりしてきた。

いずれも程ほどの高価な品であるが、外出着として数年着た後は、
平素の買物とか散策に愛用したりしている。
その後は私の室内着となり、やがて庭の手入れ時に着たりしている。

こうしたことは靴、帽子、バックなども同様となっている。
       

私は投稿文を綴っている今、着ている冬用のスポーツシャツ、穿(は)いている長ズボンは、
確か7年前の頃に、アウトドア専門店で買い求めた品で、
少し布地は痛んできたが、あと数年は愛用できる、と微苦笑しながら感じたりしている。

私たち夫婦は、程ほどの品を買い求めたりした後、長年愛用するタイプであり、
世の中の流行に遠のいてしまう、と私は微苦笑したりしている。

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ブログを10年ばかり日々綴れば、ときには過ぎ去った日に愛惜を重ねて・・。

2014-11-08 14:20:51 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の身であるが、
年金生活をしていると何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

私は民間会社の中小業のある会社を35年近く奮戦して、2004年(平成16年)10月下旬に定年退職し、
多々の理由により年金生活を始めて、早くも10年が過ぎて、過ぎし9月下旬に古希と称される70歳を迎え、
ピカビカの小学生のような心情で、70代を歩き始めているひとりである。
          
        

私は定年退職して、まもない時に偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。
        

そして私はブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のことから、専門知識がない私でも、政治、経済、社会などの難題を私なりの思いを発露でき、
この当時に一部の愛好家のホームページより手軽に開設、運営できると感じ、ブログに加入しょうと決意した。
      

そして私は、2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)の1月中旬に加入したので、
これ以来、10年近くになっている。
      

しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    
          

  
 
このような軌跡で、ブログの世界を知ってまもなく丸10年を迎えている。
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。

こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          

私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切にしているひとりである。
       

従って、数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。
          
しかし誰しも、この人生を歩み中は光と影を有しているので、つたない私でも光と影があり、
特に暗く影のことも、私自身、家庭、或いは生家の事柄に関しも、
このサイトにためらいながら、マイナスと称される影も私は描写してきた。

たとえば、私の小学生の前半に、父や祖父が病死し、残された母や私たち兄妹は、貧乏な生活を一時期を体験したこと。
或いは、亡き母が40代の時代は、私たち兄妹の五人が何とか世間並みの生活にする為に、
ラブホテルのような連れ込み旅館を経営し、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、
私たち五人の子供は成人したこと。

又は次兄は自営業で、経済破綻して、自殺と称せられる薬物を飲み自裁して、自室で亡くなったこと。

そして私自身の場合は、大学を中退して映画・文學青年の真似事をして、やがて敗退したことや、
定年の五年前にリストラ烈風の中、無念ながら出向となり、定年時を出向先で迎えたこと。

このように私はこれまでの人生の歩みの中、心のわだかまりを吐露(とろ)しなければ、
この先の人生を生きて行くことはできない、と思い発露してきたのである。

こうした私なりに屈折した出来事を余すことなく投稿してきたが、
小心者の私としては匿名であることで、初めて発露できたことである。
          
          

このような心のうめきごとは、リアルな現実の日常生活では、
たとえ私が言葉にしても、対人の受け止めることに困り果てることもある、と感じたりした。

小説、随筆などは、あくまで間接のワンクションとして読者は受け止めることができるので、
ブログの匿名で公開する内容も、ある意味合いに於いては同じかしら、と思ったりしている。

このような理由も重ねて、私はここ7年、発信名は『夢逢人』と命名したのである。
私の綴ってきたことは、まぎれなく私の知る限り真実を発露してきたので、
リアルな現実でお逢いするのは、私の心の裸身を見られたようで恥ずかしく、
文字通り、夢の世界でお逢いしたいですね、と思いながら命名したりした。
                    


私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
          

私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしてきた・・。

世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、
何かと安堵しながら、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズ、
と知人、友人、知人からの便りを受けたりしてきた・・。

年金生活を始めた当初から、私は自主的に平素の買物専任者となり、毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、
ときおり本屋に寄ったりしている。

その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
       
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書をすることが多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯など専業主婦の責務を継続してくれるので、
せめてと思いながら、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、
日に5回前後は茶坊主の真似事をしている。

こうした中で時折、我が家の小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内と国内旅行を5泊6日前後の旅路を幾たびか遊学したりしている。
       

年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。

そして私は定年後の年金生活を10年間り60代を過ごしてきたが、
私たち夫婦は幸いにも、お互いに大病で入院することもなく、
歯がお互いに老化して、歯科医院で幾たびか治療を受けてきたぐらいであった。

このように私の長き人生に於いては、60代の期間が何より安楽な時代、と思い重ねたりして享受してきた・・。
                           

私はブログを10年ばかり日々綴ったりしてきたが、ときおり過ぎし日の投稿文を読み返したりし、
おぼつかいな年金生活の当初の私の心情に微苦笑したり、
或いはたった一台のバソコンが突然に故障して、困苦しながらやむなく買い改めたり、
苦渋の日々に苦笑したりすることもある。

こうしたことを読み返したりし、日々ブログを綴れば、その年のその日の私の心情が発露されているので、
過ぎ去った60代の年金生活に、愛惜を重ねたりして、微苦笑したりしている。
       

そして70代となれば、体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

このように学んできた私は、これからの70代の年金生活は、しなやかに過ごせば、
何とかなる、と何かと単細胞でプラス思考の私は、微笑んだりしている。
                              

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暦(こよみ)の上では『立冬』であるが、東京郊外は落葉樹のあまたの葉は朱色、黄色に染め始め・・。

2014-11-07 15:11:03 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活の高齢者の70歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見たら『立冬』と明記されて、私は微苦笑したりした。

古来より『立冬』は、冬のはじまりと云われているが、
東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域は、過ぎし4日には秋日和に恵まれ、
その後の一昨日の5日は曇り一時晴れ、昨日の6日はときおり小雨の降る一日であった。

そして本日の地元の天気情報を視聴したりすると、
朝の6時は15度、昼下りは20度前後、夜の6時も14度前後と予測され、
暖かな秋日和を迎えて、ときおり微風が吹く、と報じられていた。

我が家の小庭には紫式部(ムラサキシキブ)のたわわな実は紫色に色合いを深め、
花梨(カリン)、無花果(イチジク)の葉は黄色に染めはじめている。
       

ここ一週間、買物や散策の時に見かけたのであるが、
小公園に通り過ぎると、花水木(ハナミズキ)の樹の数多くの葉は朱紅色に染まり、
陽射しを燦燦と受けて、光帯びていたして、しばらく私は見惚(みと)れたりした・・。

そして早くも一部には落ち葉が散乱し、
地上の片隅に吹き寄せのように落ち葉が道路のはずれ、建物の片側に押し寄せられていた・・。
       

帰路、住宅街を通り過ぎたが、どのお宅も落ち葉の吹き寄せとなっている。
風のあたらない一角に空き地があるが、
陽射しを燦燦と受けて、コスモスの残り花、、薄の白い穂が微(かす)かに揺れていた。

このような思い過ごしてきたが、確かに東京郊外は晩秋がはじまった、と実感している。

これから時節、我が家の雑木の多い庭も付近の情景も
紅色、朱色、黄色に染められた錦繍(きんしゅう)の時節を迎えるので、
12月の初旬の頃まで私の心は小躍(こおど)りして、過ぎ行く晩秋に愛惜を深めて散策したりしているのが、
毎年の私の秘かな習(な)わしとなっている。


私は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に、結婚前後の5年を除き、65年ばかり過ごしてきたが、
この地域ではあまたの落葉樹が恥じらうように、朱色、紅色、黄色に染め始めている・・・。

こうした中で、本日も買物を終えて帰宅した後、いつものように自宅の付近を散策したりした・・。

いつものように近くの住宅街を歩いたりした・・。
       

そして近くに流れる野川の両岸に遊歩道があり、本日は上流に向かい歩いたりした。
       

やがて遊歩道に隣接した小公園があり、私は週間ニュースのような訪れている所である。
そして木のベンチに座り、休息をしたりした・・。
       

ときおり仰ぎ観たりし、私は幼年期に農家の児として育てられたので、
こうした樹には馴染みがあり、やすらぎを得たりしている。
       

やがて帰路としたが、数多くの桜の樹が並ぶ処を歩いたれりした・・。
       

そして私は、まもなく朱紅色に染められ、やがて遊歩道に舞い散り、
片隅に吹き寄せのように落ち葉が寄せられる、と思い馳せながら、私は自宅に向かったりした。


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『肺炎球菌』予防接種、70歳の私は、生まれて初めて受けて・・。

2014-11-06 13:29:42 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

9月下旬の頃、私は門扉の近くにある郵便受け入れ箱を開けると、
たった一通の封筒が入っていたので、取りだして見たら、
私の住む調布市の福祉健康部健康推進課より、『健診・予防接種のご案内』在中、と明記されていた。

そして居間に戻り、開封したら、
『平成26年度 高齢者用 肺炎球菌 定期予防接種のお知らせ』と題されて、要旨が明記されていた。
          

この後、私は恥ずかしながら『肺炎球菌』は無知であったので、解説文を読んだりした・・。
《・・肺炎は、日本人の死因の第3位であり、死亡者の95%以上が65歳以上の方です。
高齢者人口の増加により、肺炎が今後ますます増える可能性があります。

肺炎で一番多い病原菌が肺炎球菌です。
日常でかかる肺炎の約30%を占め、高齢者や基礎疾患(心臓・呼吸器の慢性疾患・腎不全・
肝機能障害・糖尿病など)を有する方への重篤化が問題となっています。
この菌は中耳炎、副鼻控炎、気管支炎の原因となることもあります。・・》

このように記載され、何かと単細胞のつたない70歳の私でも、
もとより健康でなければ、ささやかな願いも叶わないので、まだまだこの人生を享受したいので、
病気にさいなまれることは、勘弁して欲しいなぁ、と思いながら、
対象者を見たりした。

そして平成26年度に於いては、65歳、70歳、75歳、80歳、85歳・・(略)
と明記されて、私は70歳の身であるので、この欄を見て、昭和19年4月2日生~昭和20年4月1日生となったりしたり、
やがて5年に1回に予防接種を受けられる、と知ったりした。

この後、接種期間は平成26年10月1日~平成27年3月31日と公示され、
接種費用は8229円であるが、市から3229円の助成があり、自己負担5000円と明記されていた。

そして5000円で、建康の維持のひとつが出来るのならば、
『肺炎球菌』予防接種を生れて初めて受けましょう、と私は決意したりした。
          

私は2010年(平成22年)の秋に健康診断の結果、糖尿病と診断され、
翌日に自宅から徒歩10分ばかりの内科専門病院に行き、検査、そして問診の時、
『国内旅行に何とか70歳ぐらいまで行きたいので・・何なりと御指導をお願い致します』
と私は内科の医院長に懇願した。

そして高橋真梨子さんが唄われた『桃色吐息』は妖艶であるが、
体力の衰えた66歳の私は青色吐息のような表情で、内科の医師のアドバイスを聴いたりした・・。

医師から、料理のカロリー試算表を渡された上、軽い運動を毎日して下さい、と私は言われた・・。

この後、6週間の私は、家内が料理のカロリー試算表を確認しながら料理を作って貰い、
これ以来、朝夕頂いたりした。

そして私はウォーキングをほぼ毎日し、汗をかきながら最低30分は歩き廻ったりした。

やがて翌年の2011年(平成23年)の3月の初旬、
最寄の内科に3週間毎に定期健診を受けて、糖尿病の範囲の対象から克服でき、悪玉コレステロールは基準値の90%、
これ以外はすべて優等生となった。

この後は、4週間毎に定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
                       

この信愛できる内科専門病院に、4週間毎に定期健診に10月9日に行った時、
『調布市から『肺炎球菌』予防接種を、次回来た時に受けたいのですが・・大丈夫ですよね?』
と私は言ったりして、医院長より快諾を得たりした。

やがて本日、霧雨が降る中、内科専門病院に行き、定期健診を受けた後、
『本日、肺炎球菌の予防接種を受けた後、インフルエンザ予防接種も受けたいのですが・・』
と私は医院長に申し入れをしてりした。
          

私は2004年(平成16年)秋に定年退職後に多々の理由で年金生活を始めて、
風邪気味かしら、と私は感じたら、いつでも寝れる年金生活の特権であり、
市販薬も飲まず、早めに寝てしまい、9時間ぐらい睡眠をすれば、
翌日は絶好調と心の中で呟(つぶや)いたりした。

やがて私が65歳の高齢者となった後、近くの内科専門医院の医師より、
高齢者インフルエンザ予防接種を薦められた時、
『寒さを感じた時は、緊張感があれば風邪などはひきませんょ・・』
と私は明るく応(こた)えたりし、可愛げのない高齢者であった。
          

一昨年の2012年(平成14年)12月中旬、年末年始で何かと人と逢う機会が多いので、
遅ればせながら、やはり風邪は移しても移されても困るので、
生まれて初めて高齢者インフルエンザ予防接種を受けた。

そして昨年の11月中旬に高齢者インフルエンザ予防接種を受けてきたので、
これからの12月は年金生活の私でも、何かと多忙になるので、
この際、肺炎球菌の予防接種を受けた後、インフルエンザ予防接種も、という思いであった。

この後、医院長の承諾を得たりして、優しそうな美麗の看護師さんより、
左腕にインフルエンザ予防、右腕に肺炎球菌の予防、接種を受けたりした。

そして肺炎球菌の予防は5000円、インフルエンザ予防は2200円の自己負担であったが、
これで建康が少しでも保てれば・・と微笑みながら医院を出た。

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吉岡聖恵ちゃんの唄声に、60代を年金生活を過ごしてきた私でも、何かと励まされて・・。

2014-11-05 13:03:54 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳を歩き始めた身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

確か一週間の前の夕暮れ時、ラジオを聴いていたら、偶然に私の好きな『YELL(エール)』の曲が流れ始め、
吉岡聖恵(よしおか・ きよえ)ちゃんの唄声が聴こえた・・。

この『YELL(エール)』など数多くの名曲を創られたのは、『いきものがかり』というバンドであり、
水野良樹(みずの・よしき)さんと山下穂尊(やました・ほたか)さん、そして同級生の妹・吉岡聖恵ちゃんによる
三人構成のスリーピース・バンドである。
              

私が遅ればせながら、偶然にボーカリストの吉岡聖恵ちゃんの唄声に初めて魅せられたのは、
2004年(平成16年)秋に定年退職後、多々の理由で年金生活を始めて、
やがて2008年〈平成20年〉の初秋、私たち夫婦は家内の母を誘い3人で
富山市の郊外にある呉羽山に5泊6日の温泉滞在旅行に、観光バスで行く途中であった・・。

日本海の近くにある高速道路のあるサービス・エリアに休息となり、バスから下り立った時、
お土産売り場の外れのスピーカーから、
何かと好きな徳永英明(とくなが・ひであき)さんの歌に続いて、未知の歌声が流れてきたのである。

♪帰りたくなったよ 君が待つ街へ・・
ぼんやりと聴いていたが、のびのびとした爽(さわ)やかな唄声に、瞬時に魅了されたのである・・。
       

偶然にこの曲を知り、たまたまその唄声に魅了され、
やがて後日、水野良樹さんと山下穂尊さん、そして同級生の妹・吉岡聖恵ちゃんによるスリーピース・バンドで、
『いきものがかり』というバンド名で、『帰りたくなったよ』という曲名を知ったりした。

その後の私は『花は桜 君は美し』、『SAKURA』、『うるわしきひと』等も知り、
ときおり聴いたりしていた。

そして、彼らが無名時代に夢に向かって路上ライブを長年した後、
メジャー・デビューして3年過ぎ、各地のライブ・コンサートは賞賛を受けている、
と後日にNHKのBS2で『いきものがかり ライブ』を視聴して、改めて知ったのである。


私は偶然に、遅ればせながら彼等の音楽を知り得たのであるが、
何かとすれ違うことの多い人生の中で、
この当時の私は63歳の身であったが、夢中にさせてくれたことに感謝をしたりした。

私は彼らが夢に向かって、無名な時に路上ライブを長年し、
何より詞と曲の良さ、そして聖恵ちゃんの特有な伸びのある唄声で、多くのファンを獲得された、と思ったりした。
       

確か2009年(平成21年)9月下旬に私が高齢者入門の65歳になった時、
ラジオから『YELL(エール)』の曲が流れ始め、私は聴いたりしていると、
私の高齢者入門の門出を励ますように感じたりした・・。

しかしながら後日に、第76回NHK全国学校音楽コンクール・中学校の部の課題曲『YELL(エール)』と知り、
そして水野良樹さんが作詞と作曲を担当されたと学んだりした。
何かと多感で不安を秘めた中学生や高校生に人生の途上を励ます歌だろうと解釈したが、
高齢者の私だって、大いに励まされるょ、と独り微笑んだりした。

Yell

YouTube【いきものがかりの『YELL(エール)』作詞、作曲・水野良樹、唄・吉岡聖恵 】
     ☆視聴して下さるお方は、画面の左上の『Yell』をクリックして下さい☆


過ぎし一昨年の7月の初め頃、私は居間で新聞、本を読んだりしている時、
家内はテレビを視聴したりしていると、
テレビから吉岡聖恵(よしおか・ きよえ)ちゃんの唄声が聴こえる時が多くなったりした。

その後に気付いたのであるが、第30回夏季オリンピックがイギリスのロンドンで7月27日から開催され、
NHK放送テーマソングとして、いきものがかりの『風が吹いている』が選定されて、
このグループの女性ボーカルの吉岡聖恵ちゃんが唄っていた、と解ったりした。

そして今日まで、我が家は何かとのNHKテレビ放送を視聴することが多く、
オリンピック開催中に伴い、少なくとも一日に数回は、
吉岡聖恵ちゃんの『風が吹いている』の唄声を聴いたりし、
齢ばかり重ねた高齢者の私でも、励まされるような心情となったりしてきた。
       

或いは2010〈平成22〉年の5月頃、いつものように私は朝の7時より、
NHKの総合ニュース『おはよう日本』を殆ど視聴していた。
そして家内は、洗濯、掃除に追われているが、
私は家内の茶坊主でコーヒーを淹れたりするくらいで、ぼんやりとニュースだけは見ることが多かった。

そして8時半過ぎまでは、テレビを点(つ)けて、ときおり家内が見るのが、
我が家の習性のようになっていた。

こうした時に、いつものように見ていたのであるが、
『特集 いきものがかり』と表示されながら、彼ら三人がインタビューを受けたり、
ライブのシーンがあったりして、
体力の衰えた私でも、思わず微笑を浮かべたりした・・。
       

この少し前の4月の初めの頃だったか、私はパソコンでこのサイトを8時過ぎに開いていたら、
♪ありがとうって伝えたくて・・とテレビから流れて、
私は『聖恵(きよえ)ちゃんの唄声だ・・』
と思わずテレヒの番組を見たりした。

そしてNHKの連続テレビ小説の『ゲゲゲの女房』の主題歌で、
いきものがかりの『ありがとう』の歌だ、と少し判りかけたのである。

そして彼らの吉岡聖恵ちゃんの唄声に魅せられている私は、
肝要のテレビ小説の『ゲゲゲの女房』内容よりも、
殆ど吉岡聖恵ちゃんの唄声を聴き、励まされた・・。

余談であるが、私は現役サラリーマンの時代は、あるレコード会社の管理畑に35年ばかり勤めた身である。
そして無念ながら、彼ら『いきものがかり』の専属契約先のレコード会社とは関係がないが、
良き音楽作品とアーティストに私が魅了された場合は、
齢を重ねても絶賛する性格なので、綴った次第である。

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夢うつつ、私の好きな散策路のひとつに、錦繍(きんしゅう)の情景に想い重ねれば・・。

2014-11-04 15:07:48 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の身であるが、
今朝の未明時に目覚めたが、時計を見たら4時と解り、
少し早いじゃないの、と心の中で呟(つぶや)きながら、再び布団の中に潜(もぐ)り込んでしまった・・。

やがて寝付いてしまったが、何かしら夢の中で、
まもなく訪れる落葉樹が朱紅色、黄色にあまたの葉が染められる錦繍(きんしゅう)の情景の中、
私がこよなく愛している自宅の付近の遊歩道を独り散策している・・。
       

やがて目覚め、まどろみながら、どうして11月下旬に到来する情景を夢を見たのかしら、
と独り微苦笑しりした。
       

そして私は過ぎし旅路の八幡平の周辺を宿泊して、数多くの錦繍(きんしゅう)の情景に魅せられてきたので、
こうしたことが脳裏の片隅に残影していたのかしら、とぼんやりと思ったりした。
       

やがて夢幻か現(うつつ)か解らないが、ぼんやりと確か一昨年の11月下旬に、
私は独りで散策をして、私の住む地域の錦繍(きんしゅう)の情景に、
心を寄せたりして歩きまわったりしていたなぁ、と想いを馳せたりした・・。
       


私は2004年〈平成16年〉秋に定年退職となり、その後は多々の理由で年金生活を始めて、
日常は買物担当となった私は、毎日のように独りで最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパーに行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。

そして何かしら私は根がケチなせいか、路線バスに乗るのことなく、ひたすら歩いたりしている。
その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などを歩き廻ったりし、季節のうつろいを享受している。

年金生活を始めた当初は、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
このように自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの何かと多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
       

そして自宅の小庭の雑木の四季のうつろいを眺めたりし、
朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった過ぎ去った日々に愛惜を重ねながら、微苦笑したりしている。


今回、夢うつつに見た情景は、我が家の近くに流れる野川があり、
この両岸に遊歩道があり、私の散策の好きなコースのひとつで、少なくとも週に1回ぐらい歩いたりしている。
       

特に野川の川沿いの遊歩道を歩くコースとしては、京王線の『柴崎』駅と『国領』駅の中間点に野川が流れ、
下流に向い小田急線の『喜多見』駅から『成城学園前』駅の中間点に野川の流れているが、
この間の地域に私は結婚前後の5年を除き、65年ばかり住み共有してきたので、
ヒ素から私の縄張りのようなホームグランドと思ったりしている。

こうした中で、曲がりくねっていた野川も本格的に東京の郊外の川として50数年前に護岸工事の上、
整備されたり、その後も遊歩道や小公園も新たに設けられたりしてきた。
       
   

夢うつつ下流に向い遊歩道を歩れば、私が四季折々の季節のうつろいを享受しながら、
ときおり立ち止まり眺めたりしている。  
その後の大半は、最寄りの小公園は、に立ち寄ることが多い。

私はまもなく訪れる晩秋の時節に、あまたの葉が朱紅色、黄色に染められる季節に、
毎年過ぎ去ったことなどを想い重ねるように愛惜を秘めて、歩き廻ったりしている。

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『文化の日』を迎え、過ぎ去りし年のこの日の思いを馳せて・・。

2014-11-03 15:27:01 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を見ていたら、『文化の日』なのに、
社説とか一般記事に直接に、『文化の日』に関しての記事はないと私は苦笑した。

やがて午前中のひととき、平素の買物専任者の私は、
最寄のスーパーに家内から依頼された品を買い求めて帰宅した後、
家内と談笑している時、
『確か7年前の頃に、お義母(かあ)さんと、沖縄に行ったよなぁ・・』
と私は家内に言ったりし、この時の旅路のこぼれ話を一時間ばかり話し合ったりした・・。


この時の旅路は、2007年(平成19年)11月3日に於いては、たまたま沖縄本島に旅行中であった。
家内の母が、『ひめゆりの塔』を死ぬ前に一度は参拝したい、念願に基づいて、
私たち夫婦との三人の旅路で、高齢者に見合った日程の沖縄本島を8泊9日間で周遊した。

そして後半は中北部のリゾートホテルで6泊し、中北部の観光を周遊している日であった。

もとより私は家内の母と温泉滞在旅行を含めて3人で旅行をする際は、
私は出来る限り、家内達と日中は別行動をしている。

婦女子の周遊する所と私は殆ど別要望であり、
家内達もそれぞれの思いで、母と娘の2人で好きなところを廻れば良い、と思っているからである。
       

11月3日、私達3人は、『海洋博公園』に行き、
家内達は『美ら海水族館』やイルカを観に行くので、私は予定通り別れた。

私は日頃から中年女性のしぐさ、言葉が好きである上、
植物を愛するひとりとして、樹木、草花を観るので、園内の遊歩道を歩きはじめた・・。

国営沖縄記念公園の別称に相応しく、園内は小奇麗に整備がゆきとどいている。
いかにも沖縄の風土に適した樹木、草花が適度に配置されて折、私の目を楽しませてくれた。

そして遊歩道の所々、海が目の前に観える展望台に行ったり、
或いは海岸の歩道を歩(あゆ)めば、険しい岩の崖に波が押し寄せている・・。

空は雲がわずかに浮かび、青一色で無限のような拡がり、
そして海は蒼く、果てることのないように彼方まで望み、風は爽やかに私の身体を通り過ぎていく・・。
       

このような光景を眺めたりしていると、
古来より沖縄の人々から、『美ら海(ちゅらうみ)』として慕われているのが、私なりに理解ができた。

植物園に戻ると、つる植物園の中で、蔦(ツタ)のように緑色の葉が生い茂って折、
この中で数多くの薄紫色の花が、ひっそりと咲いていた。
       

私の住む東京の郊外では見かけることのできない花であり、
あえて表現すれば、アサガオの満開の花びらのようでも思え、
色合いは桔梗に似ているかしら、と感じたりしたのである。

いずれにしても、私のつたない感性であるが、
まぎれなく奥行きのあり品性がただよう、数少ない花のひとつである。
       

私は、この薄紫色の花を、
文化の日に伴い、秘かに『美ら海桔梗』と命名したりした。

園内を辞する時、植物に詳しい係員の方から、
『その花は・・べンガル・ベヤハズ・カズラ・・と思いますよ・・』
と私に教えてくれた。

そして本島を8泊9日で旅をしたりしたが、私はこの薄紫色の花に最も魅了され、
のちの想いとしても、深く私の心に残った花である。


このようなことを思い馳せながら、『文化の日』にふさわしい花かしら、と独り微笑んだりした。

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殆どの多くの60代の女性は、心身溌剌に過ごされ、70歳の男性の私は微苦笑を重ねて・・。

2014-11-02 14:50:46 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の身であるが、
民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
       

こうした中で、私は今年の9月の誕生日を迎え古希と称される70歳となり、
70代を歩き始めたひとりである。

そして家内も今年の12月の誕生日を迎えると65歳となり、
私たちは共に高齢者となり、介護保険証を受ける身となっているが、 家内は何かと身溌剌として元気なのである。

私は年金生活を始めて数年過ぎた頃から、現役時代の緊張感が失(な)くしたり、家計の責務からも解放された為か、
体力の衰えを実感したりしてきた・・。

亡くなった私の母、そして家内の母も更年期が過ぎた頃からは、
新たに甦〈よみがえ〉る程に元気になっていた60代の時期もあったので、
女の人は良〈い〉いよなぁ、と私は家内を見つめたりする時もある。
       

私は家内のお供でデパートに買い物に行ったりすると、
婦人服、婦人の雑貨品などを時間を忘れたかのようにゆっくりと選定するので、
私は館内の喫茶店など退避して、待っていることが多い。
            
そして帰路に食事処に寄ったりして、料理を頂くのであるが、
家内は、『私はこの料理を注文するから、あなたは違う料理を注文したら・・』、
と微笑みながら勧(すす)めるのである。

そして私の料理がテーブルに置かれた後、
『ちよっと失礼・・美味しそうねぇ・・』
と家内は私に言いながら、私の料理の一部を食べたりすることが多いのである。

或いは日常の雑貨品を買い求めに、自宅からの最寄りのホームセンターに行くと、
やはり時間を忘れたかのように、あちらの品こちらの品を見たりしているので、
私はフロアーの片隅にある休憩所のソファーに座り、缶コーヒーなどを飲んだりして、
待っていることが多い。

ときおり私たち夫婦の共通趣味のひとつの国内旅行を行ったりしているが、
私は要所だけ徹底して観たりするが、家内は殆どくまなく観ることが多く、
私は微苦笑したりしている。

そして家内は、『あっちの方も面白そうだから、行きませんか?』
と行楽地のひとつを私を誘うのである。

私は少し疲れていたので、宿泊している観光ホテルに帰館して、お風呂に入りたいと思っていたが、
『はい! 了解しました・・行きましょう』
と私はやむなく若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく大きな声で応(こた)えたりしている。
       

ここ5年前の頃から デパートの地下フロアーなど食べ物が相変わらず盛況になっていたり、
都心に新名所が出来たりすると、平日などは女性の60代を中心としたグループが多く訪れる、
と私はテレビのニュースを偶然に視聴して、微苦笑したりしている。

そして60代以上の「シニア」と称される世代の女性たちは、
ファッション業界から熱い視線が注がれている、と私は何かの雑誌で読んだりしたことがあった。

何かしら2千万人超という規模に加え、団塊世代を含めたこの世代はおしゃれへの関心も高く、
市場規模は3兆円近いらしく、通販会社などはシニア女性向けのカタログを創刊したり、
デパートでは専用フロアを設けたりするなど、シニア女性を取り込もうとさまざまな動きが広がっている、
とこのような概要が記されたりしていた。

或いは三菱総合研究所が4年前に意識調査を行った結果、
高齢者層を『プラチナ・エイジング世代』と命名し、60歳以上の衣料品に対する支出は約3・4兆円と試算し、
更に潜在的需要の2・4兆円と併せた市場規模は約6兆円に上り、女性の場合はその半分とみている、
と私は過ぎし年に新聞で読んだりした。
              

私は2年前の頃、愛読しているひとりの阿川佐和子さんの本の一冊を読んだりしていた時、
ソファーから転げ落ちそうになったことがあった。

確か『阿川佐和子の世界一受けたい授業』(文藝春秋)を読み、
本書は阿川佐和子さんが『週刊文春』で対談連載をしてきた中で、
編集部が14名の方を厳選して、第一人者14人に奥義を学ぶ、と副題に明記されていた。

この中のひとりの建築家・安藤忠雄(あんどう・ただお)氏と対談(2006年3月30日号)の中で、
《・・日本の女性は60歳でも、ヨーロッパの40歳よりも若いでしょ。
   (略)
日本の女性の元気な秘訣は好奇心ですね。
表参道ヒルズができて思ったんですけれど、来ている人の7、8割が女性ですよ。・・》
                     

私はこれまでの人生に於いて、何事も好奇心を失くしたら、この人生は終わりだ、と信念を秘めてきたので、
60代の多くの女性も、《・・元気な秘訣は好奇心・・》と安藤忠雄氏が発露され、
私はソファーから転げ落ちそうになったのである。

そして私と同じような思いでも、私は無念ながら体力の衰えを実感してきているので、
女の人は良〈い〉いよなぁ、と私は心の中で呟(つぶや)いたりした。
       
   
世の中の多くの人たちは70代となれば、体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、
と専門家の人から数多く発言されている。

こうした中で女性の心身ともに自立し健康的に生活できる健康寿命は、男性の平均71歳より74歳と長く、
そして平均寿命も男性の平均80歳よりも87歳ぐらいと、伝えられてする。

このように女性は男性より長いが、何よりも健康でなければ、ささやかな願いも叶わないので、
60代の女性の多くは、人生の長い道のりの中で、ゆったりと謳歌できる期間かしら、
と小学生の頃から何かと女性を憧憬してきた私は、眩(まぶ)しげに感じたり、微苦笑したりする時もある。

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10月に愛惜を秘めて別れを告げて、11月の錦繍月に心ときめき・・。

2014-11-01 12:41:10 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の身であるが、
過ぎし9月の下旬に古稀と称せられる70歳となり、少し不安を秘めたりしていた。

私は民間会社の中小業に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した後、
多々の理由で年金生活を始めて、早や10年が過ぎている。

世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、
何かと安堵しながら、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズ、
と知人、友人、知人からの便りを受けたりしてきた・・。

私も定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったが、
この10年過ごしてきた年金生活の中、私なりに心身溌剌と過ごし、ひたすら享受してきた・・。
       
       ☆掲載した今回の写真、過ぎ去り年の11月、我が家の周辺3キロ範囲を散策した時、時のかたみとして撮った☆


そして70代を迎えると、世の中の多くの人たちは70代となれば、体力の衰えを実感して、
75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、
と専門家の人から数多く発言されている。

特に男性の場合は、心身ともに自立し健康的に生活できる健康寿命は71歳ぐらいで、
平均寿命は80歳ぐらいが知られている。

このように学んできた私は、これからの70代の日々の年金生活は、どのように過ごせるか、
と思案したりしてきた。

そして何かと単細胞の私は、70代こそが人生の終末期の頂上決戦かしら、と思ったりしたが、
やはり小心物の私は不安を秘めたりした。
         

10月の日々は、年金生活を当初から自主的に平素の買物担当となった私は、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりして、数冊を買い求めたりしてきた。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などの3キロ範囲を散策して、季節のうつろいを享受してきた。

この後は、相変わらず随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴いたりしてきた。

こうした中で、小庭の手入れをしたりを家内の支援を受けて、2回ばかり奮戦したりしてきた。

そして家内も今年の12月下旬の誕生日を迎えると65歳となり、
高齢者入門となり、私たち夫婦は共に介護保険の対象者となる。

こうしたこともあり、私たち夫婦の共通趣味のひとつは国内旅行であるが、
私は70歳、家内は65歳となるので、ささやかながら記念旅行をしょうと、
八幡平の周辺の『藤七温泉』、『蒸け湯の温泉』、そして『後生掛温泉』を宿泊して、
6泊7日で遊学したりしてきた。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしてきた。

そして70代を一か月ばかり歩き始めた私は、
この後の人生は、しなやかに過ごせれば晩年期は快適かしら、
と体力の衰えた私でも、残された人生に少しばかり自信を感じたりしてきた。
       


今朝、居間にあるカレンダーをぼんやりと見つめながら、
10月の『神無月(かんなづき)』に愛惜を深めながら別れを告げて、カレンダーを破いたりした。

そして、11月の『霜月(しもつき)』に、こんにち~は、と心の中で呟(つぶや)きながらも、
この11月は東京郊外に住む私にとっては、『錦繍月(きんしゅうづき)』だ、と心の中で深めたりした。

私の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む地域に於いては、
平年11月3日の『文化の日』の頃から、あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染め始め、
やがて11月23日の『勤労感謝の日』の頃になると、
周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染められる錦繍(きんしゅう)の情景となる。
              

やがて数多くの葉が舞い散る中で、公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が彩(いろど)りを見せてくれる。
              

そして周囲に公孫樹(イチョウ)のあまたの葉が黄色い絨毯を重なるようになるのが、
12月の『師走(しわす)』の初旬となっている。
            

過ぎし日の9月下旬の頃から、北海道の山岳では紅葉・黄葉に染められた便り、
その後は東北の山里も紅色・朱紅色、そして黄色に染められた情景となっている。

たまたま私たちが記念旅行をした八幡平の周辺の旅先でも、錦繍(きんしゅう)の情景にめぐり逢え、
私は何よりの贈り物だ、と天上の気候の神々に感謝を重ねたりしてきた。
       
       
私は過ぎし年に幾たびか旅路で実感させられたりしたので、やがて東京の郊外でも錦繍の季節だ、
と待ち焦がれてきた・・。

ここ一週間は秋麗(あきうらら)のさわやかな過ごしやすい日もあり、
11月は秋日和の多い恵まれた中、薔薇(バラ)の美麗が見られたり、菊も香り、
こうした中で、あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染めはじめ、
日ごとに色合いを濃くしていく・・。

我が家の小庭にある無花果(イチジク)、紫木蓮(シモクレン)の数多い葉が、
黄色く染めはじめの見つめたり、
一昨日に買物から帰宅した時、玄関庭にある紫式部(ムラサキシクブ)のたわわな実が、
紫色を深く染め、昼下がりの陽射しを受けていた。

このような情景を思い重ねたりしていると、
この11月は『霜月』とか『雪見月』と古来より称せられているが、
私としては、秘かに『錦繍月(きんしゅうづき)』と命名している。
       

       

私は毎年この時節の錦繍の情景の移ろいに、日々に心寄せられている。


私は、このような移ろう錦繍の情景に、ときめきを感じながら見惚(みと)れ、
日頃の運動不足を兼ねて、独りで付近の遊歩道、公園などに出掛けることが圧倒的に多くなり、
歩き廻っているのは、定年退職後の習性となっている。
       
       
そして私は早春の芽吹き、この時節の錦繍の情景、その後の落葉の情景に、
つたない私の無上の喜びとなり、
心の中は小躍(こおど)りするような時節となっている。

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