峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

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変わらなければならない時

2021年10月29日 | 暮らし
今回のパンデミックで浮かび上がってきた問題の本質は、戦後日本の政治家の劣化にあると私は考えています。

先の無謀な戦争に負けた私たちの国の政治家は、米国によって牙を抜かれてしまいました。いや、単に牙を失くしただけでなく、同時に考える力や想像力など多くの能力を失ったように思います。

私たちの国は、第2次大戦終結のためのサンフランシスコ講和条約、それに基づく日米安全保障条約により、事実上、米国の従属下に置かれることになりました。そして、その状況は今なお続いています。

それにより、私たちの国の政治家は、国家にとって最も重要な外交・安全保障を実質的に考える必要が無くなりました。
政治家としての主体的な意思決定などしなくても、米国の顔色を窺っていれば、あらゆることが何とかなったのです。

そのことから、戦後の政治家は、政治家になって何を成すかではなく、政治家になることそのものが目的になっていったように思われます。

それは、最近の政権与党の総裁選によく表れています。
誰が政策に明るいかなどの政治家にとっての本質的な資質が問われるのではなく、誰が選挙の顔になるかとか、誰が総裁になれば都合がいいかとか、誰が操りやすいかなどで選ばれていることが臆目もなく語られていると伝えられていますし、結果、そのようになっているのは明白です。

要は、選挙に当選すること、政権与党であることのみが重要なのです。
つまり、政治家は自分のことしか考えていないというのがはっきりしてきたのです。

特段の事変がなかった戦後昭和の時代は、それでもなんとか世の中は回りました。
しかし、平成の時代に入り、様々な大規模災害、そして深刻な事件が相次いで発生しました。
国民は、喘ぎ、苦しみました。特に社会的に弱い立場にある人たちのところに、もろにしわ寄せがきました。

その都度、政府の危機管理能力が問われてきました。そして、今回のパンデミックです。

私たちは、戦後昭和の呑気な浮かれた時代に、政治家や選挙にあまりにも無関心・無頓着でした。
その間に、政治は、権力を握り好き勝手なことをやってきた政治家と、その権力を利用するべく彼らに近寄って行った人たちによって都合のいい道具にされてしまいました。

その能力がなくても「地盤・看板・カバン」があれば、選挙で当選する仕組みが次第に出来上がっていったのです。

知人に、ある国会議員の有力な支持者がいます。彼がその国会議員に求めるものは国会議員としての資質ではなく、彼の子供の就職先をちゃんと世話してくれるかどうかでした。
私が知る限り、有権者が町会議員から国会議員に至るまで彼らに求めるものはそんなものでした。

特段の事変がない時にも、その構図が見えていないことはありませんでした。それでも、そのような図式を、私たちは、それほど深刻には受け止めていませんでした。

しかし、ここにきて新型コロナ感染症という未曽有の疫病が、私たちの国の政治家の無能力さを露呈させてしまいました。

私は、変わらなければなりません。
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