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ものもいのちもつかいきる (3)

2019-07-07 18:38:50 | 日記

夕方2階の窓を開けていると、腕が冷たくなった。ひんやりとしていて心地よい。長浜は今日まで大通寺さんの夏中で、町がにぎやかだ。商店街の屋台は平塚の屋台と同じで、やきそばなど油の匂いがする。皆が何かを食べて歩いている感じだ。たしかに昔も食べ物はあっただ、べっこう飴やカルメラ、杏の入りの水あめ、そうそう綿あめなどが多かった。金魚すくいや虫を売る店、ひよこも売っていた気がする。食べ歩きはしなかったなぁ。

昨夜、アイロン掛けをしていたら、ズボンの膝下が擦り切れているのに気が付いた。すごいなぁ、こんなにまで履いたんだ とびっくり。何年はいたのだろうか。希林さんはこれをもう少しはいて、そのあと雑巾として使うのだ と思い出した。『使い切る』ということの意味がすこしわかった。最後まで使いきるということはほんとうになくなった。ものによっては1年着て終わり という時代だ。生地が1年も経つとすぐにだめになる。「大事にする」という感覚が薄れていく。

『使い込む」』という感覚。このズボンでいえば、生地の柔かさだろうか。はき心地がなんともいえない。万古の急須がそうだ。いい色になる頃に割れてしまうが、その肌の色と手になじむ感覚は『使い込んだ』いとおしさだ。

「いのち」というものはなににでもあるのだなぁ と思った。1枚の毛糸のセーターをほごして他の糸と合わせてセーターにしたり、毛糸のパンツにしたりしていた。和服や布団の生地も洗い張りをしていた。七五三のときの長じゅばんは、成人式のときも着られた。そういう知恵のある時代だったのだ と思い出した。希林さんの言葉は、豊かにはなったが、生きる知恵はなくなっていくことへの警鐘だったように思う。老後のお金のない時代は『知恵の時代』と思えば、楽しいかもしれない。

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