太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

関係なくなってゆくもの

2011-12-07 15:51:51 | 日記
いつの頃からだったろう。

うら若い頃には、何キロ減ったの増えたのと騒いでいた体重が、ある時期から関係がなくなる。

何気ない友人との会話で、自分たちがその域に入ったのを知る。


「もう体重は関係ないんだよね。見た目だよ、見た目」

「そうそう、顔に体重書いて歩くわけじゃないしね」



或る時は、この会話の 「体重」 のところが、 「年齢」  にすり替わる。


「もう年齢は関係ないんだよね。見た目だよ、見た目」

「そうそう、顔に年齢書いて歩くわけじゃないしね」




だから、痩せていなくても、ひどく太って見えなければいいわけで、

あるいは、若くなくても、ひどく老けて見えなければいいわけで、

落ち着いて考えてみると、この思考は魅力的だが、一歩間違えると恐ろしいことになってゆくような気がしないでもない。



昔々、エステか何かのCMで『私、脱ぐとスゴイんです』というフレーズが流行ったことがあったけど、

別の意味で脱ぐとスゴイ身体は、身体の線がピッタリと出ない服を選ぶとか、太い横縞は避けるとか、なんとか工夫でごまかせることもある。

顔に年齢は書いてないと思ってるのは自分だけで、知らぬところで若作りの妖怪扱いされていたらどうしよう、なんて小心者の私は思ったりもするのだが、

そんなことぜーんぜん関係ないもんね的なハワイの人たちを目の前にして、

その努力が非常にむなしく思えてくる。



おおいなる腹肉で水着のボトムが半分見えない身体でも、ビキニを着たいから着る。

タコ糸を巻きたくなるような二の腕でも、タンクトップ着たいから着る。



或る人(けっこうぽっちゃり)に、昔は体重が気になっていたという話をしたら、

「体重も見かけも関係ないわよ。健康で笑っている、それが一番!」

思わず、ははぁーーーーっとひれ伏したいような力強い言葉が返ってきた。



次はそこか。

その域に行きたいような、まだ行きたくないような・・・・





2011-12-07 12:41:28 | 絵とか、いろいろ
ハワイでは、蘭が愛されているらしい。

日本でよく見る胡蝶蘭はあまり見かけなくて、もっとカラフルなものが多い。

チョコレートのような香りのするものや、ドレスの女性が踊っているように見えるものとか(その名もダンシングレディ)、種類も豊富にある。


蘭は温度管理が難しいと聞くけれど、

なぜか放っておいても毎年咲いたりして、意外と手入れが簡単だというのも人気なのかも・・・

放っておいたらそのまんま、というのも、もちろんある。



ということで蘭。






いただきものの蘭が、いつのまにか咲いていた。


試行錯誤の水彩画。

いつを持って「完成!」にしたらいいか、まだよくわからない。

アダプト

2011-12-07 12:37:45 | 日記
海に行って、ボディボードの合間に砂浜で穴を掘っていたら(いったい何歳だよ・・)、1歳半ぐらいの東洋系の女の子がニコニコと近づいてきた。

「ごめんねー、穴が好きなんだよねー」

そう言いながら、父親らしき人がやってきた。

日本人のような顔の子供に、白人の父親。

カナダからバケーションで来ている彼らは、中国人の子供を養子にしたのだという。



アメリカでは、養子という制度が、非常に普通のこととして受け入れられている。

日本ではまだ、養子は少数派であるとともに、とてもデリケートな扱いにされがちのように思う。

どの段階で、子供本人に養子であることを告げるか、ということが問題になったりもする。




しかし、ここでは、白人の両親に、皮膚の色が違う子供は普通にいて、さらには、本子と養子の両方を育てるケースもあり、

両親やきょうだいと明らかに違う外見の子供に対して、カミングアウトも何もあったものじゃない。



サンクスギビングの日に遊びに行った、夫の友人の家では、夫の友人の下に、韓国から二人の女の子を養子として迎えており、

つい先日、お母さんが、それぞれ娘たちの産みの親を探しに、娘たちと一緒に韓国に行ってきたばかりだと言った。

一人の娘は医者になり、もう一人も専門分野で独立している。

「どんな人が親なのか、やっぱり会いたいわよねえ。一人の親には会えたけど、もう一人は会えなかったの。でも、娘の顔を覚えている近所の人というのがいてね、話は聞けたのよー」




こんな、のほほんな我が家でも、一瞬だけ養子の話が出たことがある。

もし自分が生んだ子供が既にいるなら、養子もいいかもしれない。

子供が成長してゆく過程で、もしも子供を愛せないような瞬間があったとき、血を分けた子供がいれば、そういうこともあるさと、もしかしたら思えるものが、

養子だけの場合、この感覚は他人だから起こるものではないかと自分を責めてしまうかもしれない。私には自信がない。


他人でいながら結ばれるという縁は、血が繋がった縁と同じぐらい強い何か理由があるに違いないとは思うのだけれども。



だから、人種を超えて、それを乗り越えていく人たちを見て、心底感嘆してしまう。

親には親側の、子供には子供の、それぞれの葛藤があるだろう。本当の親子だって、いろいろある。

前述の、韓国人の娘さんを持つお母さんが言った言葉に、グッときた。


「子供は育てるんじゃないのよ、育ってゆくのよ。私はそれを横から見させてもらってるだけ」


彼女は、初めて会った私を、まるでずっと会っていなかった親友のように懐かしそうに、あたたかく抱きしめてくれた。

その華奢な両腕の中には、あふれて余りある濃い愛情が詰まっていて、なぜだか泣きたくなってしまった。

そのときわかった。

彼女のような人が、アダプト(養子)ができる人なんだ。

私にはない、深い深い、広くて柔らかな入れ物を、彼女は持っている。