今朝、玄関先で水やりをしていたら、義両親が外出先から戻ってきた。
「おはよう、どこ行ってきたの?」
と聞くと
「車買ってきたの」
とシュートメ。
義父の車の用事があってディーラーに寄ったら、
シュートメが乗っている車が、もう生産しないことになったと聞き、
それじゃあなくなる前にひとつ買っておくか、ということらしい。
茄子買ってきたの、みたいなノリで。
彼らは優雅な老後を満喫してる。
銀座まるかんの斎藤一人氏は、飯田史彦氏と並んで私のスピリチュアルの入り口だった。
飯田史彦さんが、大学の先生みたいだ(実際そうなんだけど)としたら
斎藤一人さんは、近所のオジサンという感じの(失礼)親しみやすさがあって
土に水がしみ込むように、一人さんの言葉が心に響いた。
人の幸運を心から喜べない、ちっさい自分を見つけたとき、思い出す話がある。
友人が、親のお金で家を建てたとします。
「なんだよ、あいつは何の苦労もしないで親の金で家を建てやがって」と舌打ちする人がいます。
でもそこは、
何の苦労もしないで家を建てられて、よかったね、と思っていればいいんです。
私は心の狭い人間なので、
アート仲間の作品が売れると、なんだか自分はダメなような気がしてしまう。
大きなオーダーももらったし、オリジナルだってこの3か月で3つも売れたのに、
些細なことで、人の幸運を喜びたい気持ちと、比べて卑屈になる気持ちがせめぎあう。
転職を繰り返していた夫が無職の時期は、辛かった。
会う人全員、「ちゃんとした仕事もってるんだろうな」などと思ってしまい、
また、そう思ってしまう卑しさが自分を傷つけた。
誰かにあるものが、自分にはない。
「ない」の視点から見たら、ないものだらけだ。
けれどこれは、「ある」ことにフォーカスして感謝しよう、ということではない。
誰が何をもっていようが、自分には関係がない。
誰でも、あるものもあるし、ないものもある、ただそれだけ。
妹の子供が幼稚園のときだったか、運動会の競走は、みんなで手をつないでゴールする、というのを聞いて、私は嘆いた。
1番とかビリを作らないのが目的だと聞いて、あきれた。
負けるくやしさ、勝つ喜びを知らずに育ったら、社会で生きてゆく間に挫折してしまうと思った。
それは大きな勘違いだった。
物心ついたときから、ずっと比べて比べられて育った者は、それが当たり前だと思って生きている。
テストの成績が廊下に貼り出される、校庭を何周走ったかがシールでわかる、
描いた絵に点数がつく、営業の成績がグラフになる、志望校に落ちて死にたくなる。
受からなかった学校や会社は、あなたが受からなくてもいい学校や会社なんです。
一人さんは、そういっている。
競争なしに生きてゆける世界に、そろそろ行こう。
良い悪いではなく、違うだけだということを知る聡明さをもちたい。
幸運な人が、自分が憧れるような人が近くにいるということは、
同じことが自分にも起こる可能性があり、前触れなのだという。
なぜなら、類は友を呼ぶ、のであり、似たような波長の人が近しくなるのだから。
だから、人の幸運をやっかんで、自分の幸運を遠ざけるのはもったいない。
ということは、
茄子を買うように車を買って来る世界が、私を待っているのである。
楽しみだなあ。
心は狭いが、単純にできていてよかったと思う。