太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

パワースポット

2020-08-24 11:57:24 | 日記
パワースポットと言われている場所で、パワーを感じたことがない。
それは私が超のつく鈍感だからなのだが、
あのセドナですら、私は何も感じなかったので、パワースポットを目的にするとか、
ここはパワースポットなのだから、とか思うのをやめてしまった。


あるパワースポットに一緒に行った人が、その場所に着いた途端、具合が悪くなってしまったことがある。
そこは有名なスポットで、多くの人が訪れていた。
その人いわく、

パワースポットには、パワーをもらいたいと思う人々の欲が溜まっている

ということだ。
あまり人が来ないところならそれほどでもないらしいが、そこは有名な場所だったから、
人々の欲のエネルギーにやられてしまったのだと思う、と言った。

なるほど。
ご利益(?)を期待して集まる人の
「くれぇ~、くれぇ~」
という想念は、たしかに重いような気はする。
それすら感じないほどのノーテンキな鈍感者の私は、
ますます、パワースポットだからといって行っても、毒にも薬にもならぬ。


そんな私でも、「立ち入ってはいけないのではないか」という感覚は、感じることがある。
ハワイには、いたるところにヘイアウと呼ばれる、昔ハワイアンの人々が作った祭壇のような場所がある。
いくつかのヘイアウは、ここから先には行ってはいけない、というシグナルが
私の深いところからやってくる。
カウアイ島に行ったとき、
メネフネの池と呼ばれている場所に行こうとしたら、
ほぼ1本道なのに迷ったり、車が動かなくなったりして、これはおかしいと思って引き返してきた。
カウアイ島の自然は、人を寄せ付けたくないという、オアフ島とはまったく違う厳しさと深さがあるように思う。


わざわざ出かけなくとも、パワースポットはすぐ目の前にあるのだ。
家の中の、落ち着く場所。
庭の木洩れ日の下。
近くの海。
夫だったら、ヘヴィメタをガンガンに聞いている時、というのも入る。
だから、「どこか」に「もらいに行く」必要はない。



玄関の外にあるマットを買い替えようと、いろいろ見て歩いていたのだが、
欲しいと思うものに出会えない。
それで、古いマットに色を塗ってみた。





元々は、全部濃いグレー。
ヒトデや小石の形に、模様が浮き上がっていて、その部分に色をつけた。
塗る作業も楽しかったし、6年使ったマットが生き返って満足。







チマチマするのをやめた

2020-08-24 11:51:50 | 日記
私は、決めた。

チマチマ節約するのはやめた



本来、私はケチで心配性で、お金がなくなったらどうしよう、という不安の中で生きていた。
恵まれたことに、これまで生きてきて、お金がなくて困ったことなどないのに、である。
出元は母の、お金に対するネガティブな刷り込みだ。
『お金が貯まるとロクなことがない』
母はよくそう言っていた。
本業以外に、いろんな会社を作っては潰してきた奔放な父の尻ぬぐいをするのは母だったから、
母がそういう信念をもってしまうのも無理からぬことだったかもしれない。



母の信念でいくと

お金が貯まる → ろくでもないことが起きて、なくなる

その信念を信じているから、ほーらね、やっぱりそうなった、ということが起こり、
ますますその信念を強くしてゆく。

でも同じことを、別の角度から見たら

お金が必要なことが起こる → ちょうど払えるお金があったのでよかった

と思うこともできる。ほーらね、必要なときにちゃんとお金があるようにできてるんだよね、となる。

前者の信念で生きていると、本当にそうなる。
後者の信念で生きていると、本当にそうなる。
しかし起きていることは同じなのだ。

私はずっと前者だったから、わかる。
顕著なのは、前の結婚時代に家を建てたとき。
相手は高給取りで、私もフルタイムで働いていたから、普通に考えれば月々のローンは楽に払ってゆけるはずだった。
でも私は30年という借金が重く、払ってゆけるのかどうか不安で不安でたまらなかった。
ワイシャツは家で洗い、月の初めに予算を袋わけして管理し、
ボーナス時にできるだけまとめてローンを払い、きりきりと節約をしていたが、
離婚する段になったとき、びっくりするほど貯蓄はなかったのだから恐ろしい。
なりゆきから家を建てたこともあり、頭金にする現金が足りず、姉や両親から借りたほど、うちにはお金がいつもなかった。
毎月がっつり入ってくるお金は、いったいどこに消えてゆくのか。


今の夫と再婚し、収入は二人合わせても前の結婚時代の半分にも遠く満たなかったのに、私の気持ちは豊かだった。
そして、なぜかどんどんお金は貯まっていった。
お金って、形のあるものじゃないんだ、と理解したのはそのとき。


ハワイに来て、夫の転職続きや、無職の時期などがあり、
私の中に再び、古い、母と同じ信念が顔を出すようになった。

気が付くと私は、精肉売り場でひき肉を買う時、肉の良しあしでなくて値段を比べていて、
8ドル39セントよりも、7ドル99セントのほうを買う。
アロハ豆腐は、美味しいお豆腐なのだが、ちょっと高いので
普段はハウス食品の豆腐を買う。
アロハ豆腐は3ドル50セントで、ハウスは2ドル50セントほど。


ある日、そういうことをしている自分がほとほと卑しくなってきた。
私が美味しいと思うものを、私に買ってあげようと思った。
何万円という話じゃない。
50円とか100円足す価値が、自分にはないのか?と思うと悲しくなる。
私はそうやって、自分に悲しい思いをさせてきたのだ。

今、私は喜んでアロハ豆腐を毎日食べる。
見て、美味しそうな肉や魚を買い、よさそうだと思うものを買う。
スーパーマーケットで値段を見ないで買うことも増えて、
先日、買ったロメインレタスが700円だったと後でわかった、ということもあった。
700円は、ちと高かったけど、
700円もするレタスを買えるお金があってラッキーだ、と思うことにする。


お金は空気のように、あって当たり前。
使ったら、なくなってしまうっていうのは真っ赤な嘘。
喜びともに使い、感謝して元の流れに戻せば、循環してどんどん流れ込んでくる。

「そんなはずないじゃん、実際の収入は数字として出てきてるわけだし」
と言いつのるエゴを、
「今の何倍もの収入があったとき、どうだったか思い出してみ?」
と諭す。
「ない、ない」「なくなっちゃう、なくなっちゃう」
と念じながら生きていれば、そうなる。


私は私の信念どおりに生きてゆくようになっているはずなのである。