太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

外か内か。

2020-12-20 13:55:16 | 日記
私の実家は日蓮宗だが、私は無宗教だ。
この場合の無宗教とは、何も信じていない、ということではなく、
何か特定な宗教を信じているというわけではない、ということだ。
けれど、そこのところをコチラの人にわかってもらうのは難しい。

幼稚園はお寺さんで、中学高校はカトリック、最初の結婚式は神社で、葬式はお寺。
クリスマスパーティのあとで、神社に初もうでに行く日本人の、いいとこどり精神は誇りにすべきだと思う。
けれど、これもコチラの人には理解しにくいところだ。


だから、私は宗教に関しては自分からは何も言わないようにしているし、
その場その場で適当に話を合わせておく。
学生時代、宗教の授業があり、試験もあったので、聖書は一通り読んだ。
キリストは実在したと思うし、お釈迦さんは偉かったのだろうけど、
私にはただそれだけだ。


自分の宗教と違うものは許さない、という人たち。
近所のヘレンのように、時折店に顔を出したり、メールをくれるクリスティのように、
自分が心から良いと思っているものを、絶対に人にも知ってほしいという
純粋な気持ちで私を誘ってくれる人たち。
「ジーザスが好きで好きでたまらないの!」と言って憚らない同僚。

彼らを見ていると、ほんの少し羨ましいな、と思う。
そこまで揺るぎなく、何かを信じることができることが。



私にだって神はいる。

しかし、それはどこかの誰かではなく、それを象徴するものもない。
私の神は、この宇宙の源であり、私自身をたどってゆくとその中心にある。
だから、私の心の旅はひたすら自分の内側に向かってゆくことであり、
道しるべのないその道中は、不信と不安に揺れがちだ。


ヘレンが、「いいお話」が一杯入ってると言って、CDを何枚もくれた。
キリストに関心のない、気の毒な人(私)を救いたいのだ。
そのやさしさだけで、気の毒な私はもう救われてますヨ、と心でお礼を言い、
そっとCDを捨てる私は偽善者か。


夫は、生まれてすぐに洗礼を受けたクリスチャンだが、
15歳になったとき、
「教会に神がいるんじゃない、神は海や空や、どこにだっているんだ。ぼくはもう教会には行かない」
と宣言し、両親を驚かせた。
だからクリスマスも

「僕にはなんの意味もない」

と言って憚らない。
でも、頑固にクリスマスを祝わないというのでもなく、家族にプレゼントを用意したり、
家族の日として楽しむところは私と同じだ。


人生の岐路に立った15年前、いいタイミングで世の中はスピリチュアルブームで、
私はあらかじめ用意されていたドアを開けるように自然に入っていった。
親友がヒプノセラピーの学校に通い始めたのも同じ時期で、スピ友達も増えた。

自分ではどうにもできない世界に放り込まれたのではなく、
自分次第でどんなふうにも変えてゆけることに救われたし、
仲間とともに人生を切り開いてゆくのは、不安はあったけれど楽しかった。
「こんな話、10年前ならいきなり宗教だと思われて敬遠されたよね」
よくそんなことを言い合った。


私はもう、外に神を探すことはないけれども、
外側に神がいる人達の一途さは、やはり眩しく見えるのである。