太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

ナビ

2023-05-17 13:35:26 | 日記
私はカーナビが嫌いだ。
誰にも負けないほどのスーパー方向音痴の私は、生まれ育った静岡市であっても迷う。
まず、基本的に東西南北がわからん。
場所を教えてくれるときに、東側とか言われてもわからない。
「それって右?左?」
と聞く私を、人は捨て猫を見るような目で見る。

映画館の外に出ると、一瞬、右に行くか左に行くかわからなくなる。子供の頃から行っていた映画館で、である。
地下道も、出たい場所に一発で出るのは珍しい。都市部にあるような豪華な地下道を想像しちゃいけない。片側二車線程度の交差点にある、降りた場所からすべての出口が見えるような地下道だ。
地下道から上に出る階段のところに、階段を上がったら見える風景の写真があったらいいのに、と、市役所のご意見箱に入れたいと思いつつ、階段を上ったり下りたりした。

車を運転していても同じこと。
生まれつき方向のセンスがゼロの上に、道順を理屈ではなく風景でしか覚えられないものだから、目印のガソリンスタンドがなくなっていたり、青い壁の家が壁を塗り替えたりしたら、もうダメだ。
日本を離れている間に、静岡市も新しい道ができたり、第二東名なんてものができたりして、私はもう静岡市では運転できないんじゃないかと思う。

そんな私であるから、カーナビがあれば問題解決となりそうなのだけれど、私はナビに、あーせい、こーせい、と言われるのが嫌だ。
それを友人に言ったら、

「カーナビがあーせい、こーせいって言わなきゃ役に立たないじゃん!」

と言って呆れていた。
でも、なんか嫌なもんは嫌なのだ。

だから、私ひとりの運転でどこか初めて行く必要がある場所には、前もって夫にそこまで行ってもらう。
病院もそうだし、友人の家もそう。日本から姉たちが来た時、ダイアモンドヘッドトレイルに連れて行くことになり、それも予習した。
フリーウェイの出口の番号を紙に控え、信号機の数を控え、右の、左の、と道順を書いた紙を飛ばされないようにダッシュボードに貼るので、ダッシュボードはそんな紙がいくつも並んでいる。


先日、マノアのペギーの家に行くことになったときも、その前の週に夫に行ってもらったのだが、行く途中で夫が、

「携帯電話に住所を打ち込めば、道順を教えてくれるよ」

と言う。

「え!そうなの?」(知らなかった)

「仕事で新しい現場に行くとき、いつも使ってるよ」

「でもさー、あーせいこーせいって言われるんでしょう」

「それが嫌ならミュートにすればいいんじゃん」

「え!そうなの?」

試しに、ネットでペギーの住所を検索してみたらすぐに出てきて、STARTにしてみたら現在地が出て、所要時間が出て、
「Next intersection Oahu street turn to the right」
と、アレクサの人そっくりな、タカビーな声がした。
さっそくミュートにすると、黙々と道順を教えてくれるではないか。
いや、これは便利かも。
ペギーの家に一人で行って、帰るときにも、自宅の住所を打ち込んでみた。
あら不思議、すらすらとフリーウェイに乗れたじゃないか。
うっかり曲がりそこねたときも、舌打ちなどせずに(舌打ちするナビなど聞いたこともないが)これまた黙々とプランBの道順を教えてくれる。

今日、またちょっと用事があってペギーの家に行った。
往きに、反対方向のフリーウェイが大渋滞なのを見たので、帰りはフリーウェイを使わずに東海岸まわりで帰ろうと思い、アラモアナセンターと打ち込んだら、これまたスルスルとカピオラ二通りまで来れた。

やった~!これでもう迷子とはおさらばだ。
ハワイは、どんなに小さな小道にもちゃんと道に名前がついているので、場所を見つけるのが楽なのだ。
これが日本だと、何丁目の何番地というだけで、場所の特定がしにくいうえに、飛び地なんていうものもあって、方向音痴泣かせ。
日本だと、名前のない道を曲がるときにはどんなふうにナビは知らせるのだろう。

ナビがあるからもうどこにでも行ける、と前述の友人に言ったところ、

「そりゃよかったねえ。でもナビ使ってると道を覚えなくなるっていうけどね」

と言った。
ふん、ナビを使わなくたって、どうせ道なんか覚えられない私には関係ないのである。











天使に出会った実話 10

2023-05-17 08:07:21 | 天使に出会った実話
Carmel Reilly著『True Tales of Angel Encounters』より


ティモシ(77) コロラド アメリカ

私はロッククライミングをしていたときに、ひどい滑落をした経験がある。今から40年も昔のことだ。

私はクライミングパートナーと、ちょっと難しい崖に挑戦した。
私たちは互いをロープで繋ぎ、ひとつひとつの動作を慎重に進めていった。ずいぶん登ったところに平たい出っ張りがあったので、そこで休憩をとることにした。
その場所は二人で休憩するには充分なスペースがあり、ロープなどの装備を解いて、軽い食べ物や飲み物を摂った。

休憩が終わり、再び装備を取り付ける前に、私が出っ張りの端を歩いていたら、私が踏んだ部分は外側すぎていて、ひと塊の岩ごと私は空中に投げ出されてしまった。これはまったく初歩的なミスで、100%自分の過失だ。
およそ100フィートぐらい落ちたんじゃなかろうか。とにかく長く感じた。
しかし、落ちている間、私は、よく死ぬ間際に見ると言われるような人生のフラッシュバックというものを経験しなかった。
その代わり、私は二人の天使をはっきりと見た。半透明の、光を放つ人型の存在が、落ちてゆく私の両側にいたのだ。

そして私は地面に落ち、彼らを見失った。
私はとてつもなくラッキーだったとしかいえない。なぜなら、なだらかな岩の斜面をかすったあと、半回転してから下の木の茂みに落ち、そのあと地面に落ちた。
足を複雑骨折し、かすり傷がいくつかとアザができたが、私は生きていた。
仲間たちがやって来た時、痛みはひどかったが意識はあって、ジョークを言えるほどだった。

私の足は、今でもちょっと歪んでくっついた形のままだが、たいした支障はない。
死にかけたから天使を見たのかどうかはわからない。
彼らは私のまわりをぐるぐると回っていた。きっと、落ちる速度を緩め、少しでも衝撃の少ない場所に落ちるようにしてくれたのではないかと思う。
とにかく、私が天使に助けられたことは間違いがないのである。