敗戦に至るまでの神聖天皇主権大日本帝国は、靖国神社を伊勢神宮と並ぶ国家神道の二大支柱として整えた。そして、修身の教科書に「社には君のため国のために死んだ人々をまつってあります。……わたくしどもは陛下の御めぐみの深いことを思い、ここにまつってある人々にならって、君のため国のためにつくさなければなりません」と幼い頃から教化し、靖国神社に祀られる事こそ最高の栄誉であると刷り込み、国民に対し、例外を許さない義務として参拝を強制した。
ちなみに吉野作造は、1920年に論文「神社崇拝の道徳的意義」(雑誌『中央公論』)を発表し、「靖国神社が、人格、道徳、生前の所業などと一切無関係に、戦没者を神として祀り、国民に礼拝を強いる事は、国民の道徳を混乱に陥れるものである」と批判した。
靖国神社は1887年から陸海軍省の管轄であった。祭神は、極秘裏に陸海軍省で戦没者を審査し、天皇に上奏し裁可を経たうえで合祀した。靖国神社の神体は神鏡と神剣であるが、祭神は多数であるため、祭神の名簿「霊璽簿」を副霊璽(副神体)として社殿に安置している。霊璽簿には、祭神の氏名を戦没年月日、出身地、軍における階級、勲等、金鵄勲章の等級を付して記入している。戦没者を天皇制国家を護る軍神・神兵として祀ったのである(敗戦後も現在まで、遺族の合祀抹消の要求を神社の手前勝手で拒絶し、これは権利の侵害であるが、その目的性格を変えようとせず頑なに固守し、司法も靖国の合祀行為を是認してきた)。日露戦争後から祭神を「英霊」と呼ぶ事が一般化した。「英霊」とは天皇に忠誠を尽くして死んだ霊の美称である。
靖国神社は本来国民のための神社であったが、敗戦後、皇族の戦没者も合祀した。台湾で戦死し官幣大社・台湾神宮に祀られていた北白川宮能久親王と中国で戦没し内モンゴル蒙疆神社に祀られていた北白川宮永久王の2柱の神霊を、1959年10月4日に合祀したが、その際、それまで全祭神を1座としていたのを改め、皇族2柱に各1座を設け、合計3座とした。皇族を特別待遇しているのである。
2019年11月21日、最高裁第一小法廷(木沢克之裁判長)は、2013年12月の安倍晋三首相の靖国神社参拝に対する遺族の損害賠償訴訟で上告を棄却した。判決は「他人の信仰に干渉するようなものではない」「原告の権利は侵害されておらず、憲法判断をする必要はない」と一蹴した。これは民主国家の判決とは言えないもので、主権者国民を馬鹿にしたものだ。
(2022年4月22日投稿)