つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

節分と鬼のつく苗字

2024-01-29 00:23:32 | 日本人

 2021年の節分は、1897年以来124年ぶりの「2月2日」であった。通常、節分とは立春の前日にあたる「2月3日」をいう。この日は大寒の末日で冬からに改まる日を意味している。この日には節分祭追儺式を行う。これは、古代中国の、各季節の終わりに「」と言って悪気邪鬼を追い払うという行事が輸入されたものであり、室町時代以降普及し、ヒイラギの枝にイワシの頭などを刺し、魔除けとして玄関や門口や窓にさし、「福は内、鬼は外」という掛け声とともに「豆」をまいて鬼を追い払う行事となったのである。小生の幼少の頃にも毎年行ったものである。この豆を「福豆」と言い、厄除け年齢の数だけ食べる習慣も存在したが、現在はどうなっているのだろうか。

 さて、苗字研究の専門家である丹羽基二氏によると、鬼のつく「苗字(姓)」は、「鬼(おに、きさらぎ)」「鬼熊」「鬼目」「鬼勝」「鬼王」「鬼口」「鬼一」「鬼子」「鬼首」「鬼追(きおい)」「鬼極(おにぎめ)」「百鬼(なりき、ももき)」「百目鬼(どどめき)」など多様であるがこれも一例に過ぎない。

 「鬼」が頭につくものは「145姓」、「九鬼」のように末尾につくものが「50姓」、「五鬼助」のように中にはいるものが「10姓」、あわせて「205姓」あるという。

 最も多いのが「鬼頭」(東海に多い)が約1万人。次いで多いのが「鬼沢」(東日本に多い)、そして、「九鬼」(近畿中心)、「鬼塚」(九州中心)などがそれぞれ数千人という事です。

 丹羽氏は、「鬼は霊意のある強運の文字。鬼姓の方々は鬼の強さにあやかりたいと願ったのだろう」という。

(2021年2月8日投稿)

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「恵方」とは?それはどうして決めているのか?

2024-01-29 00:20:29 | 日本人

 2021年2月2日。今日は「節分」の日となった。国立天文台暦計算室によると、節分が2月2日になるのは、1897年以来124年ぶりとの事である。また、2月3日でなかった年は1984年にもあり、その年の節分は2月4日であった。この1984年からすると37年ぶりとの事である。

 ちなみに、この日付の変動は、地球の公転周期が約365.2422日であり、1年を365日としている日常生活から微妙に長いため、それを調整するためとの事である。

 さて、この節分には、「恵方」が話題になる。「恵方」とは何か? 古くは、元旦には「年神」を迎えるという風習があった。その年に「年神」が宿る方角は「縁起の良い方角」とされていた。その方角を「恵方」といったのである。今日、「初詣」が盛んであるが、「初詣」はそもそも「恵方参り」に由来するものであり、その年の「恵方」にあたる神仏に参詣して、一年の豊穣と家内安全を祈願するものだったのである。

 その「恵方」はどのようにして決められているのだろう。それは「陰陽道」に基づき一定のルールに従って定められているのである。「恵方」には4つの方角(甲、庚、丙、壬)があり、は寅卯の間(東北東)、は申酉の間(西南西)、は巳午の間(南南東)、は亥子の間(北北西)とされている。その4つを使い「甲庚丙壬丙」の順の組み合わせをつくり、それを(甲乙丙丁……)(子丑寅……)表記の年号(例えば、甲午年)と組み合わせて各西暦年号の「恵方」を決めているのである。つまり、

西暦年号   十干  十二支  恵方  方角

2014年    甲   午    甲   東北東

2015年    乙   未    庚   西南西

2016年    丙   申    丙   南南東

2017年    丁   酉    壬   北北西

2018年    戊   戌    丙   南南東

2019年    己   亥    甲   東北東

2020年    庚   子    庚   西南西

2021年    辛   丑    丙   南南東

2022年    壬   寅    壬   北北西

2023年    癸   卯    丙   南南東

2024年    甲   辰    甲   東北東

2025年    乙   巳    庚   西南西

(2021年2月2日投稿)

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宮沢賢治が生きた時代情勢

2023-12-09 00:09:48 | 日本人

 宮沢賢治(1896年~1933年)は岩手県生まれで盛岡高等農林学校卒。岩手県の土性調査に従事した。中学時代から「法華経」に傾倒し、1920年に上京して田中智学国柱会に参加した。文芸による大乗経典の大衆化をめざし童話創作に入り、同年秋帰郷し稗貫農学校教諭となって、誌・童話を創作。26年羅須地人協会を結成し、農業化学・農民芸術を講じた。

 1931年秋、宮沢賢治は岩手県で、「西暦一千九百三十一年秋/このすさまじき風景を/恐らく私は忘れる事ができないであろう」と書き、「雨にも負けず 風にも負けず」をうたった。

 1929年には、大学卒業生就職難が深刻化し、東京大学においても就職率は30%に過ぎず、小津安二郎監督の松竹映画『大学は出たけれど』が流行した。

 1930・1933年には豊作で米価・農産物価格が下落し、所得が下がり豊作飢饉(豊作貧乏)となり、1931・1934年には東北・北海道は冷害により大凶作となり、特に東北地方では、企業倒産による都市の失業者の帰農(小作農の増加)などで農家は著しく困窮(農業恐慌)し、娘の身売り欠食児童が続出した。

 1930年の春、大恐慌が神聖天皇主権大日本帝国にも波及し、

 株式市場・商品市場は暴落

   株価……1926年を100とすると、1930年:60.1、31年58.0

   東京の卸売物価……1929~30年:18%低下

 輸出品(生糸・綿花)価格……1929年3月~30年9月     

   生糸48%、綿花57%低下  生糸の対米輸出は大幅減少 

 貿易……1929~30年

   輸出28.1%、輸入27.4%減少

 中小企業の倒産続出

   30年823社

 工業生産額

   1929年77億、30年60億、31年52億

 労働者の実質賃金

   1926年を100とすると、1932年88

 失業者

   1930年約300万人

 新聞社会面記事

  「東海道を歩いて田舎の村へ帰る失業者たち」

  「午前2時から職業紹介所に並ぶ人々」

  「商売に失敗して借金を抱え夜逃げする商人たち」

  「繁盛する質屋

  「昼の弁当を持たずに登校する欠食児童たち」

  「東京市営として作られた、娘の身売りのための相談所に出かけてくる親子」

 農村

  米とをはじめ農産物価格大暴落

  埼玉県66カ町村の生活難救済陳情団の訴え

 「実際、今日、私共農民の生活は生か死か助けるか殺すかの岐路に立つ実に涙のにじむ苦難時代です。汗水垂らして作ったキャベツは50個でやっと敷島一つにしか当たらず、蕪は100把なければバット一つ買えません。繭は3貫、大麦は3表でたったの10円です。これで肥料代を差し引き、一体何が残りますか」

  ※敷島18銭、バット7銭、大卒初任給50円、女子事務員月給20~50円

 1930年の農林省の全国赤字農家調査

   小作農76.4%、自作農58.6%が赤字農家

 肥料など農村需要の工業製品の価格下落に比べ、農産物価格の下落は著しい(農民の売る物は安く、買う物は高くなる)

 農業負債の増加……農家一戸当たり1000円突破……当時の自作農平均年間所得961円を上回る

(2023年12月8日投稿)

   

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ハロウィンに見える哲学なきゆえの軽薄さと幼稚さ

2023-10-30 08:40:04 | 日本人

 2018年のハロウィンの様子についてのテレビ報道を見て頭に浮かんだ一句を紹介したい。

 「子ら醒めて 大人騒ぎ立つ ハロウィン

           鹿鳴欧化の 仮装舞踏に似て」

 神聖天皇主権大日本帝国政府にとって、1858年に締結した日米修好通商条約における不平等内容(領事裁判権容認、関税自主権欠如、片務的最恵国待遇)を改正する事は外交上の最大課題であった。井上馨も1879年に外務卿(のち外務大臣)に就任し、法権・税権両面の改正をめざして交渉に臨んだ。彼は神聖大日本帝国を西欧化する事が欧米諸国が日本を対等の国家として見做す早道と考え、「我が帝国を化して欧州的帝国とせよ。わが国人を化して欧州的人民とせよ。欧州的新帝国を東洋の表に造出せよ」と欧化主義を主張した。それが1883年に完成させた鹿鳴館という迎賓館を中心とした接待外交であり、鹿鳴館時代(1883~87年)である。

 鹿鳴館では毎夜のように外国貴賓の接待としてダンス・パーティが催され、皇族・華族・政府高官らが着飾った洋装の夫人・令嬢を伴って出席した。その極め付きが1887年4月20日の首相官邸で催された仮装舞踏会であった。そこでは、北白川宮はイスパニアの士官に扮し、伊藤博文首相夫人はその妻となり、伊藤はヴェニスの貴族となり、三条実美内大臣の娘はヨーロッパの花売り娘となり、山県有朋内務大臣はかつての長州藩奇兵隊長の服装をし、渡辺浩甚東京帝国大学総長は僧西行の姿となった。ヨーロッパ各国の外交官たちは抱腹絶倒した。また、1882年に来日したフランス画家ビゴーは1887年5月の「トバエ」6号「社交界に出入りする紳士淑女」で「洋装をしているが鏡に映る顔は猿(猿まねの意)」と欧化風俗を風刺した。

 話を戻すが、井上のこのような条約改正をめざす姿勢は、国民の不評を買い大臣辞任に導き、鹿鳴館時代は終わるのである。

 そして、神聖天皇主権大日本帝国は、反鹿鳴館、反井上馨、反欧米の風潮の高まりのなかで、排外主義が進行し、ナショナリズムが吹き荒れる事となるのである。

※ハロウィンについては、幕末に伊勢神宮(天照大神)の神符(お守り札)が降ったとして起こった「ええじゃないか」の集団騒乱に似ているとする人もいる。それは幕末の、大政奉還から王政復古の大号令に至る間(1867年7月~12月)に行われた民衆による世直し(社会変革)を求める騒乱状態をさし、倒幕派のトップである岩倉具視らが目的達成するためにこの混乱を企てたといわれている。8月中旬『皇太神宮』のお札が空から降ってきたとのうわさが、名古屋方面に流れた事にはじまり、東海・近畿・四国などの各地に及んだ(京坂地方が最も盛ん)ようであるが、「岩倉公実記」によると、「あたかもこの時にあたり京師に一怪事ある。空中より神符へんへんと飛び降り所々の人家に落つ。その神符の降りたる人家は壇を設けてこれを祭り、酒肴を壇前につらぬ。知ると知らざるとを問わずその人家に至る者の酔飽(飲み放題、食べ放題)に任す。これを祝して吉祥となす。都下の士女は老少の別なく綺羅(美しい着物)を着て男は女装し、女は男装す群を成し隊をなす。ことごとく俚歌(民謡)を唱い太鼓を打ちて以て節奏をなす(調子を取る)。その歌辞(歌詞)は『よいじゃないか、えいじゃないか、くさいものに紙をはれ、破れたらまたはれ、えいじゃないか、えいじゃないか』と云う。……8月下旬に始まりて12月9日王政復古発令の日に至りて止む」とある。

(2018年11月1日投稿)

 

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大竹しのぶ旅記事「まあいいか」:吉田松陰「松下村塾」への偏向した評価、メディアも共犯

2023-10-13 10:25:14 | 日本人

 2020年10月23日の朝日新聞「大竹しのぶの『まあいいか』」が、萩、そして吉田松陰の私塾「松下村塾」を取り上げていた。大竹しのぶは「たくさんの弟子たちが松陰様の生き方を学び、そこから日本のリーダーが輩出した松下村塾。過去は変える事はできないが未来は変えられると言った彼の言葉を胸に刻む」と書いている。

 しかし、吉田松陰やその私塾「松下村塾」について、大竹しのぶによるこの程度の説明で済ませてよいものであろうか。これを読んだ人は間違いなく、吉田松陰を「偉い人」「立派な人」「その後の日本の発展、日本国民にとってかけがえのない人」というような印象を持った事だろう。朝日新聞もそれを「狙い」として載せた記事だと断じて良いだろう。なぜなら、歴史学会においては吉田松陰の評価はそのように決めつける事はできないものだからである。だから、大竹しのぶの評価は偏向したものとなっていると言って良いのであり、朝日新聞はそれを分かったうえで記事にしたと考えて良いと思う。

 吉田松陰を手放しで称賛してはならないのである。それは一面的な偏向した評価である。吉田松陰の思想として、今日の主権者国民が、特に知っておかなければならない事は、天皇支配に基づく「領土拡張思想」「侵略思想」である。

 松陰は「安政の大獄」事件(1858~59年)で、徳川幕府井伊大老にとっての危険人物として死刑に処されたが、その直前に、それまでに「松下村塾」で教授指導した弟子たちに向けて『幽囚録』という「遺書」を遺している。それを以下に紹介する。

「日昇らざれば則ち傾き、月満たざれば則ち欠け、国盛んならざれば、則ち衰ふ。故に善く保つものは徒にそのある所を失ふ事なきのみならず、又その無き所を増す事あり。今急に武備を修め、ほぼ備わりほぼ足らば、則ち宜しく蝦夷(北海道)を開墾して諸侯を封建し、隙に乗じて(ロシア帝国の)カムチャッカ、オホーツクを奪い、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯とひとしからめ、朝鮮国を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州中国清朝)の地を割き、南は台湾中国清朝)、ルソンスペイン領)の諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし」

という内容であり、彼の思想は、尊王攘夷の立場に立ち天皇支配に基づく「領土拡張思想」「他国侵略思想」であり、神聖天皇主権大日本帝国政府による台湾朝鮮国を手始めとしたアジア征服政策大きな影響とその正当性を与えたのである。そして、吉田松陰の私塾「松下村塾」で教えを受けた塾生たち(伊藤博文など)が松陰の意思を実行していったのがその後の日本のアジア太平洋戦争敗戦までの歴史であったのである。

 また、神聖天皇主権大日本帝国政府は学校教育においても、吉田松陰を高く称賛し、尋常小学校「修身科」の教材としても重視し、子どもたちの心に天皇崇拝軍国主義、国家主義、全体主義刷り込んだのである。「教材」内容は、「自信」という「徳目」で、

「……松陰は外国の事情がわかるにつれて、我が国を外国に劣らないようにするには、全国の人に尊王愛国の精神を強く吹き込まなければならないと、かたく信じて、一身をささげて此の事に尽くそうと決心しました。27歳の時、郷里の松本村に松下村塾を開いて弟子たちに内外の事情を説き、一生けんめいに尊王愛国の精神を養うことにつとめました。松陰は至誠を以て人を教えれば、どんな人でも動かされない者はないと、深く信じて、「松本村は片田舎ではあるが、此の塾からきっと御国の柱となるような人が出る」と言って、弟子たちを励ましました。松陰が松下村塾を開いていたのは、僅かに二年半であったが、はたしてその弟子の中からりっぱな人物が出て、御国の為に大功をたてました。

 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

というものであった。

そして、神聖天皇主権大日本帝国を理想とし回帰を狙う安倍自公政権が、この「松下村塾」を世界遺産に申請し、2015年に世界遺産として登録されたという現実が今あるのである。

(2020年10月26日投稿)

 

 

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