2018年4月25日の朝日新聞が、ソンミ村虐殺50年の記念式典についての記事を載せていた。その中で、韓国は米国の同盟国として南ヴェトナム側に参戦し、ソンミ村に近いハミ村で住民135人を虐殺したとされており、文在寅韓国大統領がこの3月にハノイを訪問した際に「両国間の不幸な歴史に遺憾の意を表する」と述べた事も載せていた。
それではソンミ村虐殺事件がどのようにして行われたのかを紹介しよう。1968年3月16日の早朝、午前7時20分、「チャーリー中隊」の三個小隊約60名と数名の連絡将校は、LZドッティ地区を11機のヘリに分乗して飛び立った。この時、すでに周辺のアメリカ軍各基地からミライ地区に向けて集中的な砲弾射撃が行われていた。掃討作戦に先立つ準備攻撃だった。ミライ地区ではちょうど朝市の賑わいの最中だったため、この突然の砲撃で早くも多数の村民に死傷者が出ていた。ヘリは2派に分れてミライ第4地区の西方約150㍍の水田に着陸した。旅団司令部は大規模な戦闘を予想して、戦闘を記録するために広報班からロバーツ記者と、ロナルド・へーバリーというカメラマンをヘリに乗せていた。この2人のジャーナリストは後衛の第3小隊に従ってソンミ村に入った。この間、解放戦線側からの反撃は全くなかった。村の人口は約700人、先鋒の2個小隊が村に侵入した時、逃げ出す村人はいなかった。村人たちは、アメリカ兵が走るものはすべて「ヴェトコン」(1960年結成、南ヴェトナム民族解放戦線、北ヴェトナムが支援)とみなして射殺する事を知っていたからだ。
アメリカ兵たちは村人を家々から引きずり出し始めた。村人のある者は朝食の最中であり、またある者は米を炊いているところだった。午前8時頃、まず、約80人の村民が部落中央の広場に集められた。数名の者が「自分たちはヴェトコンじゃない、ヴェトコンじゃない」と叫び声を上げただけで、村民の側からの反撃や抵抗は皆無だった。中央広場に集められてから、小隊指揮官であるカリー少尉による村民に対する尋問はまだ一切行われていなかった。突然カリー少尉が約80人の村民たちをめがけて撃ち始めた。小隊の兵士たちがこれに続いて一斉に乱射し出した。その後は、村中のいたるところでアメリカ兵による狂気の射撃が無抵抗の村民たちに対して無差別に執拗に展開された。アメリカ兵は村中にいる生き物という生き物を殺し続けた。すべての家屋や食糧も焼き尽くされた。アメリカ兵の中には虐殺の間中、はしゃいだり、歓声をあげる者もいた。「おい、おれはもう1匹殺ったぞ」、「おれのも1匹記録しておけよ」。ハーバード・カーターという兵士は後日このように供述している(ハーシュ著『ソンミ』より)。
カーターはまた次のような証言もしている。「(後衛の)第3小隊が村の近くに移動するとまもなく、1人の女を認めた。誰かが彼女を殴り倒し、それから、メディナはその女を自分のM16ライフルで撃ちました。この女を撃つ理由はありませんでした。我々は、兵隊が15人、あるいはそれ以上のヴェトナム人の男・女・こどもを一塊に集めている場所に来ました。メディナは『みんな殺せ、立っている者を残すな』と言いました。(同書)死者504人(氏名判明者472人)。うち、女性182人、子ども173人、老人60人で計415人。3年後に、責任者のカリー少尉はアメリカの軍事法廷で裁判にかけられて終身労働の判決を受けた。しかし、判決の翌日、ニクソン大統領の命令により即時釈放された。
ヴェトナム戦争の本格的な「アメリカ化」が始まった1965年以降は、戦後日本の「高度経済成長」の頂点ともいえる「いざなぎ景気」(66~69年)の始まりであった。日本経済の繁栄は、いわゆる「ヴェトナム特需」に負うところが多かったのである。また、日米安全保障条約に基づく在日アメリカ軍基地(特に、県民の意思に反していたが、昭和天皇の意思によってアメリカの支配下に差し出されていた沖縄のアメリカ軍基地)の存在こそが、アメリカのヴェトナム侵略を可能としたのである。
沖縄県のアメリカ軍基地面積の変遷を見てみると、1958年に、岸首相(安倍首相の母方の祖父)とアイゼンハウアー大統領との会談後、アメリカは対ソ対中の前線基地として基地を拡張。アメリカは1965年のヴェトナム北爆開始後、海兵隊などの沖縄移動で基地をさらに拡張。1971年、沖縄返還協定締結時に最大となったが、1972年の沖縄返還直後にはやや減少した。全在日アメリカ軍基地に占める割合は58.6%であった。しかしその後、その割合は増加し、2004年には現在と同じ74%となったのである。
(2018年5月7日投稿)