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国民党政権が台湾で生き延びられた外的要因と米政府の中国・日本戦略

2025-02-09 19:57:05 | 中国・台湾

 中国大陸における国共(国民党と共産党)内戦で共産党軍に敗退し台湾へ後退移転した蒋介石国民党政権がその後生き延びる事ができた外的要因は、朝鮮戦争の勃発(1950年6月25日)東西冷戦の激化であった。

 蒋介石国民党政権中華民国では、1946年7月以降、国民党と毛沢東共産党の内戦が全面化した。1948年から49年には、国民党軍は相次いで共産党軍に敗退し、危機的状況となった。そのため蒋介石は台湾を国民党政権の最後の根拠地と定め、国民党中央軍及び党、政関係者の大陸からの撤退と台湾での権力基盤強化に力を注いだ。1949年12月7日には大陸で敗れた中華民国政府は正式に台湾台北へ移転し、政府とともに大陸から兵士、公務員、教員など100万人近い人々が当時人口700万人ほどであった台湾へ逃れてきた。

 米国政府の動きは、1949年8月国務省『中国白書』を発表し、国民党政権の腐敗や無能を嘲笑した。また、1950年1月5日にはトルーマン大統領台湾海峡不介入の声明を発表し、蒋介石国民党を見放した感があった。そして、その間の1949年10月以降、共産党軍が台湾解放作戦敢行の準備をすすめ、国民党政権の命運は極まった状況があったが、この状況を転換させた要因が、1950年6月25日の朝鮮戦争の勃発と冷戦の激化であった。1950年6月27日、トルーマン米国大統領米国第7艦隊を台湾海峡へ派遣し、共産党軍の台湾攻撃を抑止し、また、国民党政権と軍への援助を再開したのである。そのため、共産党軍は台湾解放作戦を取りやめ、軍を東北や朝鮮へ向かわせる事になったのである。

 そして、米国政府は台湾(蒋介石中華民国政府)が国際連合の中国代表権常任理事国の地位を維持する事を支持するとともに、吉田茂日本政府に対しては、毛沢東中華人民共和国政府(1949年10月1日建国)ではなく、蒋介石政府平和条約を締結するよう圧力をかけ、吉田茂首相は1952年4月28日日華平和条約を締結した。この結果、蒋介石台湾中華民国政府は日本政府との関係を正常化できたが、戦争賠償権を放棄させられている。

 上記のように、蒋介石台湾中華民国国民党政権は冷戦の展開米国政府の支持により、その後しばらくの間、存続を維持する事が可能となったのである。

 一方、米国政府反共産主義政策として中華人民共和国政府封じ込める上で台湾の軍事的地政的価値を重視し利用するために、1950年から67年の間に、総額約24億ドルの巨額な軍事援助を行った。1951年以後には、軍事顧問を派遣し、最盛期の1955年には2347人の顧問を各部隊に配属し指導した。

(2022年9月9日投稿)

 

 

 

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台湾嘉義農林学校卒業生・呉連義の人生を、神聖天皇主権大日本帝国政府と戦後自民党日本政府がいかに蹂躙翻弄したか

2025-02-09 19:52:58 | 中国・台湾

 神聖天皇主権大日本帝国政府のアジア侵略政策戦後の日本国政府の政策対応がいかに人権を蹂躙し人生を翻弄したものであったかを、台湾の嘉義農林学校出身の呉連義の人生を通して、知り、現行憲法前文に定めている「政府の行為によって、再び戦争の惨禍が起こる事のないようにする決意」を現安倍自公政権下においてこそ、より固くするために、大切な事実であると考え紹介したい。

 彼の存在については、1991年6月に、日本のテレビ取材班がベトナム北部ニンビン省の彼の家を取材する事により公けに知られる事となった。呉連義は、日清戦争の結果、中国が日本に割譲し日本の植民地となっていた台湾で、1924年に生まれ、育った。その後、国策会社・台湾拓殖に勤め、戦時中「綿作戦士」としてベトナムに赴任した。農民に綿花や黄麻を栽培させる仕事である。戦争末期には現地で日本軍に徴用され、軍需米の監視などに当たった。

 ベトナムに赴任した時は「新井良雄」という名前を使わされた。ベトミン時代は「カウ」と呼ばれた。その後はベトナム風に「ゴ・リエン・ギア」と名乗った。「自分が何国人だか分からなくなる時があった」と語っていた。

 1944年、台湾拓殖の社員として台湾を出航した。米軍の潜水艦に追われ、船は予定を変えてシンガポールに着いた。そこから陸路でハノイに向かった。着いたのは出航から2カ月が過ぎた5月5日、21歳の誕生日だった。新井良雄」という日本名を名乗らされる事になり、北部タインホア省農業試験場で地元の農民に綿花や黄麻などを栽培させた。

 仏印(仏領インドシナ、ベトナムなど)処理の後は台湾拓殖の子会社のクロム工場で日本人職員の警護に当たった。その後、日本軍に徴用され、商社の事務所で砂糖取引を装いながら、南部からくる軍需米の輸送船の監視などに当たった。平服に短銃を忍ばせ、赤いボタンが任務の目印だった。民間人でありながら情報班として日本軍の一線で働いた。 

 日本軍が進駐していた仏印には、台湾から多くの若者が日本人として渡った。日本の外務省資料によると、1945年10月にベトナムで引き揚げのために集まった人は4029人で、うち1400人が台湾と朝鮮出身者だった。ベトナムは45年春から夏にかけて、ひどい飢餓に見舞われた。呉によると、やせ衰えて道端に横たわる人々は、下痢で地面を黄色く染め、ハエで真っ黒になって息絶えていった。死んだ母親のしなびた乳首をくわえた赤ん坊が、息のあるまま母と一緒に穴に投げ捨てられたという。そして、日本軍は飢えた人を助けるどころか、軍需米をため込んでいたという。そして、「私もその手先だったのが恥ずかしい」と語っていた。 

 敗戦農業試験場で知った。引き揚げの準備のため集まるよう、クロム工場にも伝える事になった。呉が日本人の主任を載せて行くはずだった。しかし、異動してきたばかりの台湾出身の同僚が最後の機会なので工場を見たいというので交代した。出かけた二人は帰らなかった。工場からの帰りにベトミンに襲われ、二人とも殺されたという。

 ベトナム北部には、日本軍の武装解除のため、中国国民党軍が進駐した。日本軍に協力した台湾出身者の中には処刑される者もいた。北部タインホア省の農業試験場で働いていた呉は、中国国民党軍を恐れて逃げ回った。日本敗戦後、ハノイに集まった人たちは、台湾出身者は食べるのにも苦労し、台湾同郷会を作って助け合った。ハノイにいた台湾出身者たちの名簿「台湾同郷会・会員名冊」によれば、1946年3月には、20代の青年ばかり約300人が名を連ねる。

 引き揚げの機会を失った呉は、その後、知り合いの雑貨屋のおやじに出合った。事情を聴いたおやじは、ベトミンで働かないかと呉を誘った。おやじはベトミンの一員だった。呉はハノイから約100㌔南のニンビン省で、ベトミン軍に軍事教練や柔道を教える事になった。呉は共産党系のベトミンに関わった事が、その後半世紀もベトナム北部にとどまるきっかけとなった。

 ベトナムでは1945年9月、ベトミンを率いるホー・チ・ミンが独立を宣言していた。しかし、1946年になると、植民地支配の復活を狙うフランス軍が、国民党軍と入れ替わって北部にも上陸してきた。ベトミンは抗仏戦争を展開した。

 呉は1946年、ベトミンから共産党のニンビン省委員会に移った。当時、党は解散宣言をしていたが、組織は残っていたようだ。その委員会に1948年、新しい書記が着任した。呉は党員ではなかったが、書記は太い声で、呉の事を同志と呼んだ。書記の名前はド・ムオイ。後の共産党書記長である。

 1954年春、ベトナム北部のニンビン省で暮らしていた呉に、引き揚げのために集まれとの連絡が役所からあった。抗仏戦争が大詰めの頃で、ベトミンの支配地域に残る日本人が帰国できるよう、日越両国の民間団体が話し合って実現した引き揚げだった。

 呉はこの3年前に、マラリアで身体を壊して、共産党の省委員会を辞めた。その後、ベトナム人と結婚し、野菜を作ったりして暮らしていた。

 引き揚げる前に、政治学習を受けさせられた。中国国境に近い集合場所に行くと、90人余りがいて、5人が台湾出身者だった。日本の国内情勢や日米安保条約の意味など、ベトナムの共産勢力による学習は半年間続いた。11月、いよいよ引き上げる事になった。ところが、出発の間際になって、台湾出身とわかると、日本人だけが対象だと拒否された。引き揚げのための靴や工員服を支給されて、歓声を上げる日本人を、5人の台湾出身者は呆然と眺めていた。

 引き揚げの通知は59年にもあった。しかし、また台湾出身者は拒否された。南北ベトナムは1976年、正式に統一した。

 引き揚げの機会を失っていた呉は、農村の生活に溶け込むより仕方がなかった。北ベトナムでは55年から土地改革が始まり、農業集団化が進められた。呉も合作社(集団農場)に所属する事になった。配給は月に一人モミ6㌔。山に入って荒れ地の開拓もした。その時は800㌘の米で半月間食いつないだ。飯盒に、拾い集めたイモとタピオカを詰め、その上に米粒をそっと撒いて炊いた。

 ドイモイ(刷新)政策が始まってからは自分の収入のために働けるようになった。ベトナムの農村ではごく当たり前の自転車で物を運んで収入を得る生活を続けた。竹の棒で補強した古い自転車に、モミ袋を5つ積む。重さは130㌔にもなる。それを一日かけて指示された場所に運ぶ。5、6千ドンにしかならない。それでも仕事が欲しい。呉は倉庫の前で夜を明かして、荷を待った。

 1991年6月、荷物運びの仕事を終えて、呉が汗まみれで帰宅すると、人だかりができていた。日本のテレビ取材班が、ベトナム北部ニンビン省の呉の家を取材に訪れた。呉には連絡が届いておらず、突然の事だった。日本人に会ったのは30年ぶりだった。言葉をすっかり忘れていた。地面に絵を描いて、「なべ」「かま」と一言ずつ思い出した。取材されて、閉じ込めていた望郷の思いが、一気に噴き出した。これがきっかけで、呉はハノイの日本人大使館を何度も訪れた。それまでは、日本のスパイと疑われるのではないかと、怖くて行けなかった。日本大使館で呉は訴えた。「日本のために働いたんだから、日本政府が責任を持って帰してほしい」日本には割り切れない思いがあった。しかし、日本国籍がないのだから、何もできない」大使館ではそう言われた。

 1993年夏、細川首相日本の戦争責任を認める発言をした事を、日本から送られてきた新聞で知った。変化があるのではないかと期待したが、大使館の返事は同じだった。「日本政府は昔も今も、口先だけだ」と呉は怒る 

 上記の、引き揚げのために集まった、外務省資料にある1400人の台湾や朝鮮の出身者について、大日本帝国政府は敗戦により日本人として扱う事をやめ、引き揚げの対象から外した。そのため、自力で帰国を試みたり、あるいは各地へ散り、消息が分からない人も多い。

 1992年、台湾はハノイに事実上の大使館である台北経済文化事務所を開いた。呉は1993年末に初めてその存在を知り訪ねた。事務所は呉の台湾の戸籍を確認し、台湾の旅券を発給した。名前は呉義連である。

 1994年5月、呉は、大日本帝国の植民地時代には「新高山」と呼ばれた台湾の最高峰「玉山」の登山口にある嘉義市に半世紀ぶりに戻った。台北空港には、親類や知人が出迎えた。呉は、花輪を差し出した姉の呉彩鳳に抱きついて声を上げて泣いた。両親の墓参りをし、市役所で身分証明書を作った。出身学校の嘉義農林で、呉連義の存在を確認する卒業証書を再発行してもらった。

 日本語教育を受けた呉は台湾語ができない。姉や同級生とは日本語で話せるが、甥や姪には通じないので通訳を要した。呉は、台湾に3ヶ月間滞在して迷い続けた。懐かしい故郷で暮らしたい。しかし、言葉や年齢を考えると無理なように思えた。妻子もいるし余生も短い。そして、結局、7月、ベトナムのニンビン省の自宅に戻った。

(2018年11月19日投稿)

 

 

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「建国記念の日」は「2月11日」のままで良いのか?安倍自民党内閣にとっては「最大の聖なる記念日」

2025-02-09 10:38:06 | 建国記念の日

 ※2016年2月12日に投稿したものを改めて投稿しました。国民は身近な生活の成り立ちを点検し、科学的(論理的)に説明できるようにする事が必要だ。 

 もうすぐ「建国記念の日」である。自民党にとっては大切な日である。また、安倍政権にとっては、敗戦までの「天皇制大日本帝国」「大日本帝国憲法」への回帰をめざす上で、特別に重要な日となっている。「2月11日」は敗戦までの「天皇主権大日本帝国」の「紀元節」であり、最大の「聖なる記念日」であった。「大日本帝国憲法」はその日に合わせて「制定」したのであるし、敗戦後の「日本国憲法」も、吉田茂首相は「2月11日」に「施行」しようと考えていた。今年の1月8日には自民党の「新藤義孝氏」が「衆院予算委」で「2月11日」をアピールするために「平成28年が明けました。伝統的な数え方でいえば皇紀2676年」と発言した。この「発言」はまさしく憲法第99条「憲法尊重擁護の義務」に対決を挑む、許してはいけない重大な行為であるにもかかわらず、「既成野党」はそれを認識できず、厳しく弾劾し辞職を迫らなかった。また、「安倍政権」と「自民党」への追及をしなかった。ここには「既成野党」や「メディア」「洞察力」の「劣化」や「世論の誘導」を目論む「故意」の「思考停止」の対応が見られる。「既成政党」や「メディア」は存在価値の「劣化」が進行しているのである。

  だからこそ、「日本国憲法」を尊重する国民は、改めて「建国記念の日」の成立の経過とその意味を考え、心から祝える「建国記念日」を制定するための行動を起こさなければならない。日本を「国民」のものにするために。もし「金さえ儲かればよい」「休めさえすればよい」と考えているならば、自民党安倍政権の「思うつぼ」である。 

 日本が「建国された日」がなぜ「建国記念日」と言われず、「建国記念の日」と言われ、その日がなぜ「2月11日」となっているのか?

 世界の国々の「建国記念日」を調べてみると、ほとんどの国が「独立をした日」をそれに当てている。たとえば、「大韓民国」では、8月15日とし、1945年に「ポツダム宣言」にもとづき、日本による植民地支配から「朝鮮」が解放され再び独立した日を当て「光復節」と呼んである。それ以外の国では、「国家(政治)体制を変更した日」をそれに当てているようだ。

 日本ではどうであろうか。実は、世界でほかに見る事のできないような考え方に基づいて「月日」が定められ、その「呼び名」が付けられているのである。

 いわゆる「建国記念日」は敗戦までの「天皇制大日本帝国」下で初めて制定されたが、それは明治時代初めの1873(明治6)年10月14日に、その日を「2月11日」とし「紀元節」と呼ぶとし祝日としたのである。その根拠は非科学的で、『日本書紀』に初代天皇と書かれた「神武天皇」(実在を認められていない)が「辛酉年春正月朔日」に即位したとあるのを、太陽暦に改暦するとともに皇紀(天皇紀元)を採用して即位日を換算した月日がその日であるとしたのである。しかし、換算について暦学上の根拠は全くないといわれている文部省天文局も便宜的に決定したと明言している。細かい事をいえば、その前の71年には3月31日を「神武天皇祭」として国家の祭日とし、72年11月15日には翌73年の1月29日を「神武天皇御即位相当」の祝日とした。(73年3月7日には、政府は神武天皇即位の祝日を「紀元節」と呼ぶ事とした。)しかし、不都合な事が起こり、73年10月14日には太政官布告で、「2月11日」に改定し74年から施行したのである。「神武天皇祭」も4月3日に改定した。敗戦までの国民(臣民)はこのようにして決められた日を、学校教育で、軍隊教育で、また官憲の圧力により、信じる事を強制されたのである。

 このように、敗戦までの大日本帝国下の国民は、現在では丸ごと「大うそ」の「作り話」とされている事を「事実」として強制的に信じさせられたのであるが、当時の国民の受け止め方(小川為治『開化問答』より)を紹介します。

「……改暦(太陰太陽暦を太陽暦へ、明治5年12月3日⇒6年1月1日)以来は五節句・盆などという大切なる物日を廃し、天長節・紀元節などというわけもわからぬ日を祝う事でござる。4月8日はお釈迦さまの誕生日、盆の16日は地獄のふたの開く日というは、犬打つ童も知りております。紀元節や天長節の由来は、この旧平のごとき牛鍋を食う老爺というとも知りません。かかる世間の人の心にもなき日を祝せんとて、政府より赤丸を売る看板のごとき幟(日の丸)や提灯を出さするはなお聞こえぬ理屈でござる。元来祝日は世間の人の祝う料簡が寄り合いて祝う日なれば、世間の人の祝う料簡もなき日をしいて祝わしむるは最も無理なる事と心得ます」

 五節句など国民の祝日はいわれない迷信として1873年に廃止され、天長節・紀元節など宮中祭祀が合理的なものとされすべての国民が参加すべき祝日とされたのである。政府はこの改革により、天皇を唯一最高の権力者・神的権威(天皇教・国家神道)としていただき、中央集権の官僚制と、国民徴兵による常備兵制とをもって、日本を統一的に支配する新しい国家のしくみである「近代天皇制」を確立したのである。

 しかし、敗戦後の1948年にGHQにより「侵略戦争の精神的支柱」になっていたとして廃止された。ところが1951年、吉田茂首相が「独立後は紀元節を復活したい」と発言した。52年には自由党が「国民の祝日」に、「建国記念日」(紀元節)を追加する動きを開始した。この動きが今日の「建国記念の日」の成立となったのである。

 戦後の「祝日法」(国民の祝日に関する法律)は1948年7月20日に成立した。

 この動きに対して「日本歴史学協会」は「反対」の決議文を「天野文相」に提出した。しかし、神社本庁・郷友連盟などをはじめとする諸団体が自由党と結託して「建国記念日制定推進本部」を設置し、54年から「2月11日」に式典を始めた。57年2月13日には、自由民主党の衆議院議員らが「議員立法」で「建国記念日」制定(紀元節の復活)に関する法案を提出した。その趣旨は「建国をしのび、国を愛する心を養う」であった。そのため、「日本社会党」が戦前への「反動的行為」であるとして反対し、「廃案」となった。自民党はその後60年代前半まで5回にわたって法案提出したが、野党と世論の激しい抵抗にあい廃案となった。当時の「世論調査」では、紀元節「復活賛成」意見は、1954年…74.2%、65年…54.3%、66年…47.4%と減少していた。

 そのため自民党は「内閣立法」とし、名称に「」を挿入した「建国記念の日」として「建国されたという事象そのものを記念する日」であるとも解釈できるようにするとともに、具体的な「日付の決定」については有識者で組織された「審議会」に諮問するなどの「修正」をし、1966年6月25日に「建国記念の日」を定める「祝日法改正案」(改正祝日法)を強行成立させた。自民党は言葉巧みに欺いたのである。これが「の」が入っている意味である。こんな形で成立した「建国記念日」は世界のどこにも見られない。世界に対して誇りをもって説明できないものである。そして、今年は成立から「50年」になろうとしている。

 改正法附則第3項は「内閣総理大臣は、改正後の第2条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない。」と定めた。

 審議会は66年「公聴会」も開き、「内閣総理大臣官房広報室」に依頼して66年「世論調査」(面接聴取)も実施した。その際には「各党案」も選択肢に加えた。

審議会委員の回答状況

「委員9名中7名が『2月11日』に賛成した」(大宅壮一は辞任)

各党案と世論調査の支持率

「①2月11日(敗戦までの紀元節の日)自民党:47.4%、②5月3日(憲法記念日)社会党:10.4%、③4月3日(聖徳太子の十七条憲法発布の日)民社党:6.1%、④4月28日(講和条約発効の日)公明党:5.8%などが上位で70%を占めた。ほかには、「奴隷根性」を払拭できていない「いつでもよい」が12.1%、「わからない」が7.5%あった。」

 自民党案の「紀元節の日」を望む声が圧倒的に多く、50パーセントに達している。また、民主主義を愛する国民には「社会党案」の「5月3日憲法記念日」こそ、敗戦後の日本にふさわしい「建国記念日」ではないだろうか。これこそ継承し広めなければならなかった認識なのではないだろうか。麻生副総理が以前「国民はすぐ忘れる」と言った事がある。安倍政権が国民に対してどのような意識を持っているのかを自ら暴露したといえるが。さて、1966年の時点からどれだけ変わったのだろうか。思考停止状態に陥ってるのだろうか。

 「審議会」は1966年12月9日に「2月11日」とする答申を「佐藤栄作政府」に提出し、政府は同日、「建国記念の日は、2月11日とする」との「建国記念の日となる日を定める政令」を定めて公布し施行した。「建国記念の日」は名称は違うが「紀元節」以外の何物でもないのである

 「建国記念の日」のままにしておいてよいのであろうか。何も考えない、何もしないという事は「何も生じない変わらない」という事ではない。このままにしておく事により得をし、ほくそ笑んでいるのは「自由民主党」なのである。彼らにとって、「日本は自分たちのもの」だという意識を再確認する「日」なのである。そして、「大日本帝国への回帰」の意識を高める日となっている事を国民は忘れてはならないのである。

 今こそ、自らの「奴隷根性」を検証し、それを打ち捨て、「自由人」となるための闘いを始める事がのぞまれる。

 ※東京湾のアメリカ戦艦ミズーリ号艦上で、9月2日、降伏文書に日本側全権として調印した東久邇宮稔彦(皇族)内閣の重光葵外相の言葉を紹介したい。

日本人は、政治を見る事、あたかも芝居を見るがごとく、観賞はしても、自分自身が役者の一人であり、自ら舞台の上にある事を悟っていない」(『重光葵著作集』第1巻)

(2022年2月12日投稿)

 

 

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