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安倍自公与党が「政治の安定」訴える理由:圧倒的多数の力を正当性の根拠とし、これまで以上に野党を無視し憲法改悪を強行するため

2019-07-11 14:35:51 | 安倍政治

 参院選が7月4日に公示された。自民党と公明党などの与党は「政治の安定」という言葉を最も力を込めてアピールしている。自民党総裁安倍晋三氏は、自己の政党がさも「善人集団」であるかのように思い込ませるために、今は存在しない民主党を、「政治の安定」を害する「極悪人」であるかのように仕立て罵倒非難し、過去に所属していた人間を貶め、民主党にトラウマを持つ国民有権者に対し「フラッシュバック攻撃」し、そこから抜け出せないような「攻撃」手法を強めている。これは「信頼」をえるために「理解」をしてもらう努力をするという誠実な手法ではない。このような手法を使って政権維持をしているのが自民と公明なのである。

 安倍氏は、「あの時代に逆戻りするわけにはいかない。与党でしっかりと力を合わせて、政治の安定を確保していきたい」としつこくアピールしている。山口氏は、「日本の政治の安定のためには連立政権に公明党がなくてはならない」と同様なアピールをしている。大阪では太田房江氏が、「安倍政権になってからこの国が立ち直ってきた……この道を続け、自民党の政策実現力で一つ一つの政策を前に進める事が一番重要だ。そのためには政治の安定が不可欠で、野党にこの国の政治を任せる事はできない」とアピールしている。

 安倍氏は、なぜ力を込めて「政治の安定」を望み、主権者国民に強くアピールしているのだろうか。それは、彼の最後の仕事としている「憲法改正(=憲法改悪)」を実現するためであり、とりあえずは「憲法に自衛隊を明記するという事」なのである。彼はこの実現のために主権者国民を粘り強く説得しようとはさらさら考えていない。どうするか?3分の2を超える議席数を確保しておこうとしているのである。そういう状況を作っておけば、それを自己正当化の根拠として、国会審議は形だけのものにし少数のため無力化した野党に手こずる事もなく無視もでき、絶対多数の数の力にものを言わせて強行採決する事が可能となるという事を狙っているという事である。

 もちろん、何もかもが自民党の思い通りやりたい放題となる。ファシズム体制の国家を作る事もである。自民党の「改憲草案」はそのような内容となっている。

 主権者国民は今こそ目を覚まさなければ、自己の心魂精神さえ思い通りにならない社会国家に変貌する事によって驚かされるだろう。それはかつての神聖天皇主権大日本帝国下の奴隷的国民の姿に逆戻りさせられる事を意味する。当時の国民は貧しい生活を当然の如く強いられたものであった。そのため、日々より良い生活を求めていた。為政者はずる賢く、その奴隷的国民の思いを「侵略戦争」の「兵隊」として利用する事によって、自己の権力を強化し財産を肥やそうとしたのであった。安倍自公政権を甘く見ていていけない。彼はその神聖天皇主権大日本帝国を理想の日本の姿であると思っており、それへの回帰を自己の課題であると思い込んでいるからである。

 より良い価値観(人権尊重)に基づかない政権の政治は、真により良い国民生活をもたらさない。我々主権者国民大衆は経済的に苦しい生活の中でも、冷静に広く長い目で物事を判断する事に心がけ、耳障りの良い金もうけだけに夢を与える政権には騙されないように気をつけなければならない。安倍自公政府は、政府自体が甘言を尽くす悪徳投資会社に変貌しており、主権者国民はその政府に騙されている状況であると言って良い。もう目を覚まさなければ、主権者国民大衆は彼らに利用されるだけされて、彼らにとって役に立たなければ廃棄されてしまう事になるだろう。金儲けだけのために心魂を他人に売った者に真の幸せと満足はもたらされない

 安倍自公政権下で、主権者であるはずの国民は、世界史上のローマ共和制末期から帝政時代に、有力者為政者によって「パンと見世物(パンとサーカス)」を提供され、またそれによって飼いならされた無産市民と同じような状況に置かれていると思われる。「パン」とは「食糧」で、現在ではそれを手に入れるための「仕事」、「見世物」とは「サーカスや戦車競技や奴隷剣闘士の闘い」などで、現在では「主権者国民大衆に提供される娯楽(見世物興行)全般」であり、権力を狙う有力者が市民の人気を獲得しようとして提供したり、為政者が「政治の安定」を狙って提供したのであるが、安倍自公政権はこれと同様の手法をとっていると考えて良い。

 人はパンのみにて生きるに非ず、という言葉の意味に今一度改めて思いを致し、参院選で誰をどの政党を選ぶべきか決める事が重要だ。棄権する(自民党と公明党を支持する事と同じ効果を持つ。いじめの加害者を幇助する傍観者と同じ行為)というような、自分の意見を持たず、社会や歴史に責任を持たず生きるような「ずるい」生き方をすべきではない。そんな人間は誰からも信頼を得る事はできないし、人間として成長発展する事もできない。

(2019年7月11日投稿)

 

 

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大阪市立小学校全校朝礼で愛国の歌姫が「神武天皇の歌」:この校長を処分せず、「君が代」不斉唱不起立の教師は処分する市教委と大阪市長(維新の会)に憲法尊重擁護義務や人権尊重意識は皆無。

2019-07-11 00:41:08 | 国旗・国歌

 2019年7月5日の新聞に、大阪市立泉尾北小学校で、先の5月8日に、小田村直昌校長(元銀行員、2012年に公募で民間人校長となる)が「愛国の歌姫」と呼ばれるシンガー・ソングライターの山口采希(「教育勅語」を「大切な宝物」という歌にし、塚本幼稚園で歌ったり、明治天皇の御製と五箇条の御誓文を組み合わせた楽曲を作成し、神社や自衛隊や、戦艦三笠でもライブ活動)を招き、全校朝礼を実施した。彼女は、敗戦まで唱歌とされた神武天皇」(研究では天皇という称号は使用されておらず、実在しない)や「仁徳天皇」(神武と同じく実在は不明)という歌や、「ああ勇ましく日の丸が行くぞ」などという歌詞内容のオリジナル曲「行くぞ!日の丸!」などを児童に聴かせた(7月3日判明)。唱歌「仁徳天皇」の歌詞は、

「玉の宮居は名のみにて あれにぞあれし 大殿に 

三歳の月日 凌ぎつつ 民のかまど にぎはし給ふ 

その大恩めぐみ 雨降りしきる あしたにも

風ふきすさぶ 夕べにも 大御身の上は 忘られて

民のうえのみ 思ほし給ふ その大御心」

というものである。「民のかまど」は皇民化教育を目的とした、教育勅語児童読本(1940年)や修身教科書の定番教材で、「慈悲心」「お恵み」を賛美し皇国臣民に感謝させ「天皇」に命を賭して奉仕する精神を植えつけるものであったが、山口はこれについての話もした上で歌った

 また、山口のオリジナル曲「行くぞ!日の丸!」を歌う前に話した内容が、学校教育の場では常識として絶対に許されるはずがないのであるが、故意の虚偽(おそらく勉強不足の事実誤認ではなく)を、児童に語っていたのである。それは、「今年は、人種差別をなくそうと日本人が世界に向けて声を上げた1919年の人種差別撤廃条約提案(当時台湾や朝鮮を侵略し過酷な植民地支配をしており、虚偽の説明をしている)から100年で、そんな節目の年に改めて、世界中のみんなが違いを認め合って手を取り合い、たくさんの笑顔が咲き誇る事ができるようにという思いで、おじいちゃんおばあちゃん、ご先祖様が引き継いで来られた優しい気持ちを伝えます」というものである。この言い回しは大東亜共栄圏建設を理想とした敗戦までの学校教育教科書(修身を主とする)表現の焼き直しと考えるべきで、山口の語る内容はまったく当時の神聖天皇主権大日本帝国政府の実態とはまったく異なるもので、侵略を隠蔽し、侵略行為を美化する虚偽である。

 しかし、これに対し、校長は小学校HPで「とてもいいお話」「とても素晴らしいゲストでした」と絶賛している。校長自身も山口の歌の前に、新天皇を「神武天皇」から126代目と説明し、「神武天皇」を実在視した訓話を行った。さらに、校長は山口とツーショットの写真を学校HPで公表しているが、その校長が満面の笑みを見せて両手で持っているものは、山口が記念に贈った、敗戦まで神聖天皇主権大日本帝国政府が使用し臣民に使用させた、初代「天皇」を「神武天皇」としその即位を紀元とし、時を数え表す「皇紀2679年」と大書した色紙である。「皇紀」は敗戦後の日本国憲法下では廃され、使用を認めていないものであるにもかかわらず、学校HPに校長が喜色満面で載せているのである。それは常識では厚顔無恥そのもので非常識の極みである。

 このような校長の姿勢に対し、市民団体「子どもたちに渡すな!あぶない教科書 大阪の会」が6月22日、「国民主権にそぐわない内容。公立学校でこのような集会は不適切で、児童や保護者に謝罪すべきだ」と大阪市教育委員会に抗議をした。

 この点での市教委の問題点は、市民団体から抗議を受けるまで市教委は気づいていない形となっているという事である。また、小学校校長は、教育委員会に報告していない形となっているという事でもある。しかし、真実は市教委も校長も互いに十分な意思疎通を図ったうえで今回の全校朝礼を実施したのであり、それを何の問題もない正当な教育内容であるとしていたのである。なぜなら、校長はこれまでユーチューブなどにおいても自己の思想信条や価値観について堂々とその正当性を主張しており、また、これまでの政策実行の姿勢を見れば、市教委や市長も同類である事が明白であり、知らないという事はあり得ないと考えられるからである。それは憲法に反した極めて独善的で偏向したものである。あり得ないが、もしも互いに知らなかったと言うならば、それはそれで職務怠慢という事を免れない事であり、いずれにしても処分の対象と見なすべきである。

 話を戻しそう。市民団体から抗議を受けた後、市教委は校長からの聞き取り調査をしたうえで、「神話など不確かな内容を取り扱う際は多面的な捉え方をするよう留意すべきだった伝えた」とメディアの取材にコメントした。しかし、これは市教委が、この全校朝礼における、校長の訓話や山口の話しの内容や歌った歌の内容や意味などを、憲法に照らして「真の問題点は何か」という判断をあえて避けており(能力を有していないのではなく)、そして問題処理対応のポイントを外し、「処分」に値する行為であるとも見做していないという事である。教育行政を担い教員処分の権限を有する立場のある者として、主権者市民を代表して子どもたちの人権と子どもたちのために教育内容を保障しなければならないにもかかわらず、その法的認識能力や人権尊重意識に欠けた極めて偏向した価値観に基づく対応をとっていると言って良く、その立場にある者としてその能力資質が相応しくないと言って良い。だから、憲法を尊重する主権者市民としては、子どもたちが今後、彼らにより人権を侵害され不利益を被らないように、直ちに罷免を要求すべきであるし、辞任するよう要求すべきである。

 また、市教委から上記の指導を受けた校長は、「押しつけるようにはやっていない」と答えたという。この点での問題は、全校朝礼の形式で実施したという事が、正に「強制」にあたるという事を自覚できていない(故意に認めないのであるが)事である。また、全校朝礼を始める前には、校長としては当然の事として生徒全員に「君が代」を歌わせ、あわせて「校歌」や「大阪市歌」を歌わせてご満悦なのである。この事はすべての行事において教員に命じて実施させているのである。このような事を「繰り返」えさせる事によって、敗戦までの国民学校教育のように、児童に皇国民としての錬成を行っているのである。基本的人権を保障している日本国憲法の下で。校長は独善的体質を持ち、人権尊重教育や科学的歴史教育やそれに基づく意見主張を、自己の価値観を正当化するのに都合よく歪曲して理解し、自己の価値観に対し反対し否定する意見主張に、常識を逆転させて「偏向」レッテルを貼り犯罪者に陥れるこの悪質な犯罪者的人格は、児童の人権と教育内容を憲法に則って保障すべき校長としての資格をまったく有していないというべきである。このような校長に対して、「処分」を考える気配も見せない任命責任を有する市教委及び市長ともども同類として共犯と見做して「退場」させるべきである。

 さらに問題として安倍自公政権を追求しなければならない事がある。それは校長が市教委に、今回の件について、「文科省が4月に出した『令和への代替わりに際し祝意を表する意義について児童に理解させる事が適当』との通知に則って実施した」と説明したからである。校長や市教委や市長については上記の処置が妥当であるが、安倍自公政権の文科省(文科相)が、このような一片の通知を出して、市教委や校長が教員に命じて、子どもに対して、有無を言わさず(子どもの権利条約にも保障され、日本政府も批准している人権を認めず )従わせたという事であるが、そんな事が許されて良いのだろうかという事である。憲法を尊重する主権者国民は、許されるとはいわないだろう。という事はこの事件が起きた元凶は「安倍自公政権」であるという事である。

(2019年7月11日投稿)

 

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