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李氏朝鮮国植民地化の過程その2:第2次日韓協約(韓国保護条約)締結

2019-10-16 15:08:48 | 朝鮮問題

 桂太郎内閣は1905年4月には「韓国保護権確立の件」を閣議決定し、明治天皇はそれを裁可した。それは「明文を以て保護権を確立し、対外関係を挙げて我が掌裡に収めるため保護条約を締結し、駐箚官をおいて内政外交を監督する必要がある」としている。小村寿太郎外相は1905年8月の第2次日英同盟協約で英国政府に、大韓帝国に対する大日本帝国政府の「指導、監理及び保護の措置を執る権利」を認めさせた。また、日露戦争の講和条約・ポーツマス条約ロシア政府にも、韓国に対する大日本帝国政府が「指導保護及び監理の措置を執る」事を認めさせた。さらに、日露間の斡旋をした米国のルーズベルト大統領にも、確認をした。

 そして、1905年11月15日、枢密院議長・伊藤博文が、林駐韓公使を伴い、第2次日韓協約案を持って、第26代大韓帝国皇帝・高宗と会談し、大韓帝国の対外関係すべてを大日本帝国政府が行う事情を説明した。

伊藤「日露戦争の結果、貴国の領土を保全した。なお進んで平和を恒久に維持するためには、両国間の結合を一層鞏固にする事が極めて緊要である。その方法は、貴国における外交関係を、貴国政府の委任を受け、我が政府自らが代ってこれを行う事である」

高宗「要はただその形式を存し、……」

伊藤「形式とはいかなる意味か」

高宗「使臣往来の事例のようにする事である」

伊藤「事ここに至りしもの、今や牢として此の断案は動かすことはできない

高宗「朕が切実な希望を貴皇室及び政府に致せば、多少の変更は可能か」

伊藤「本案は断じて動かす事のできない帝国政府の確定議であり、今日の要はただ陛下の御決心がどうなのかのみである。これを承知しようと拒否しようと勝手であるが、もし拒否するならば、その結果は一層不利益を来す事を覚悟すべきである

高宗「事は重大である。朕は今自ら之を裁決する事はできない。政府臣僚に諮り、又一般人民の意向を察する必要もある」

伊藤「陛下が政府臣僚に諮るのは最もである。しかし、一般人民の意向を察するというのは奇怪千万。なぜなら、貴国は憲法政治ではない、万機すべて陛下の親裁に決する君主専制国ではないか、人民意向というが、それは人民を扇動し、日本の提案に反抗せよとの思召しと推察できる。昨今儒生輩を扇動して秘密に反対運動を行わせようとしている事はすでにわが軍隊が探知している」

高宗「決してそのような意味ではない」

伊藤「急を要する事なので、陛下は今夜直ちに外部大臣を呼び、林公使の提案に基づき直ちに協議をまとめ、調印の運びとなるよう勅命を下しなさい

というものであった。この様子は伊藤が、威圧脅迫という手法で、大韓帝国皇帝に対し、大日本帝国政府の決定を押し付けているのであり、協議というものではない

 翌16日17日と、伊藤らは各大臣に詳細な説明をしたが、了解を得られなかった。そのため伊藤は日本軍に対し宮廷周辺での大規模な示威行動を命じて威嚇し恐怖心を与えた。地区の全日本軍に完全武装させ宮廷前の大通りや広場で、行進を行なわせ、大砲を持ち出させた。兵士らは行進し、引き返し、喚声を上げ、城門を占領し、大砲を据え付け、実力行使以外の事はすべて行った。そして、夜には剣付銃を持たせて皇帝の寝所近くに立たせ、同意させた。

 そして、伊藤は、皇帝は既に大日本帝国政府の方針にほぼ同意しているとして各大臣に同意を迫り、参政大臣と支部大臣以外を同意させ、参政大臣をさらに脅迫し追い詰めた。

伊藤「閣下は本案を拒否し、ついに日本と絶交しようとする意志を表示するつもりか。予は諸君に愚弄されて黙っているつもりはない」と迫り、

韓大臣「いえ、決して日本と絶交しようなどとは思っていない。この協約については思慮百端、どうしても吾意を翻す事はできない。我が陛下の聖旨に背き、又閣僚と意見を異にするに至った。進退を決し、謹んで大罪を待つ以外にない」と応じた。

 伊藤は、第2次日韓協約(韓国保護条約)を、以上のような経過で大韓帝国政府に対し締結を強要した。内容は、前文では皇帝の希望を入れ「韓国の不況を認める時に至るまで」との文言を加え、第3条では、大日本帝国の代表者として朝鮮国の事実上の最高行政官(最高権力者)として統監を置く事、地方には知事にあたる理事官を置く権利を有するなどとした。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、日朝修好条規来、李氏朝鮮国(1897年より大韓帝国)の独立を主張してきたが、それは李氏朝鮮国(のち大韓帝国)だけでなく欧米諸国や日本国民をも欺瞞する建前に過ぎず、その本音真の狙いは「李氏朝鮮国(大韓帝国)を日本の保護国化する事だったのである

 

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李氏朝鮮国植民地化の過程その1:日韓議定書締結、第1次日韓協約締結

2019-10-16 15:07:56 | 朝鮮問題

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、1875年の江華島事件以降、李氏朝鮮国(1897年大韓帝国と改称)に対する侵略の度合いを強めてゆき、1895年には閔妃暗殺を起こすまでに至り、朝鮮政府や民衆に不信や怨恨を持たれていたが、日清戦争の講和条約・下関条約において清国に対し、朝鮮の独立を認めさせたのを足掛かりに、これ以後の脅迫や暴挙に比べてそこまでするまでもなく、日露戦争下の1904年2月下旬に日韓議定書締結に成功した。しかし、その内容は、大韓民国にとって日本への従属の第1歩となった。

 議定書第1条では「東洋の平和を確立するため、大韓帝国は施設の改善に関しその忠告を容れる事」とし、第3条では「大日本帝国政府は大韓帝国の独立及び領土保全を確実に保障する事」、第4条には「第三国の侵害により若しくは内乱の為大韓帝国の皇室の安寧或は領土の保全に危険ある場合は、大日本帝国政府は速やかに臨機必要の措置を取るべし。而して大韓帝国政府は右の行動を容易ならしむるため十分便宜を与える事」とした。つまり、大日本帝国が韓国政治に干渉する権利を有する事や、国防を全面的に担う事を大韓民国に認めさせたのである。

 桂内閣は1904年5月末、元老会議と閣議対韓方針を決定した。大韓民国について、「到底永くその独立を支持する能わざるは明瞭である」とし、「宜しく政事上軍事上並びに経済上漸次該国に於ける我地歩を確立し、帝国自衛の途をまっとうせざるべからず」と判断し、次のような対策をとった。

「帝国は日韓議定書によりある程度において保護権を収るを得たるも、なお進んで国防外交財政等に関し一層確実且適切なる締約及び設備を成就し、以て該国に対する保護の実権を確立し、且之と同時に経済上各般の関係において須要の利権を収得して着々その経営を実行せんこと当務の急なりと信ず」

同時に具体化のための「対韓施設綱領」も決定した。それは外交問題においては「適当なる最近の機会に於て韓国政府をして外国との条約締結その他重要なる外交案件の処理に関しては予め帝国政府の同意を要する旨を約せしむる」必要がある。財政問題においては「なるべく速やかに我邦人中より適当の顧問官を入れ徴税法の改良貨幣制度の改革に着手し、遂に韓国財務の実権を我掌中に収むる」必要があるというものである。

 1904年8月には上記の方針に沿って第1次日韓協約を締結させた。内容は「韓国政府は日本政府の推薦する、日本人1名を財務顧問外国人1名を外交顧問とし、すべてその意見にしたがい施行すべし」「外国との条約締結その他重要なる外交案件に関しては予め日本政府と協議すべし」というものであった。外交顧問を外国人とした事については、「対韓施設綱領」では「顧問は寧ろ外国人を以て之に充て帝国公使監督の下にその職務を執らしめんには、内外に対し円滑に我目的を達し易かるべし」としている。外交顧問には米国人スティーブンスがなり、財政顧問には大蔵省主税局長・目賀田種太郎がなり、貨幣制度の改革を実施した。

 そして、1905年4月には、「韓国保護権確立の件」を閣議決定し、明治天皇の裁可を得ている。

 そして、1905年8月には第2次日韓協約を締結させた。

 

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