桂太郎内閣は1905年4月には「韓国保護権確立の件」を閣議決定し、明治天皇はそれを裁可した。それは「明文を以て保護権を確立し、対外関係を挙げて我が掌裡に収めるため、保護条約を締結し、駐箚官をおいて内政外交を監督する必要がある」としている。小村寿太郎外相は1905年8月の第2次日英同盟協約で、英国政府に、大韓帝国に対する大日本帝国政府の「指導、監理及び保護の措置を執る権利」を認めさせた。また、日露戦争の講和条約・ポーツマス条約でロシア政府にも、韓国に対する大日本帝国政府が「指導保護及び監理の措置を執る」事を認めさせた。さらに、日露間の斡旋をした米国のルーズベルト大統領にも、確認をした。
そして、1905年11月15日、枢密院議長・伊藤博文が、林駐韓公使を伴い、第2次日韓協約案を持って、第26代大韓帝国皇帝・高宗と会談し、大韓帝国の対外関係すべてを大日本帝国政府が行う事情を説明した。
伊藤「日露戦争の結果、貴国の領土を保全した。なお進んで平和を恒久に維持するためには、両国間の結合を一層鞏固にする事が極めて緊要である。その方法は、貴国における外交関係を、貴国政府の委任を受け、我が政府自らが代ってこれを行う事である」
高宗「要はただその形式を存し、……」
伊藤「形式とはいかなる意味か」
高宗「使臣往来の事例のようにする事である」
伊藤「事ここに至りしもの、今や牢として此の断案は動かすことはできない」
高宗「朕が切実な希望を貴皇室及び政府に致せば、多少の変更は可能か」
伊藤「本案は断じて動かす事のできない帝国政府の確定議であり、今日の要はただ陛下の御決心がどうなのかのみである。これを承知しようと拒否しようと勝手であるが、もし拒否するならば、その結果は一層不利益を来す事を覚悟すべきである」
高宗「事は重大である。朕は今自ら之を裁決する事はできない。政府臣僚に諮り、又一般人民の意向を察する必要もある」
伊藤「陛下が政府臣僚に諮るのは最もである。しかし、一般人民の意向を察するというのは奇怪千万。なぜなら、貴国は憲法政治ではない、万機すべて陛下の親裁に決する君主専制国ではないか、人民意向というが、それは人民を扇動し、日本の提案に反抗せよとの思召しと推察できる。昨今儒生輩を扇動して秘密に反対運動を行わせようとしている事はすでにわが軍隊が探知している」
高宗「決してそのような意味ではない」
伊藤「急を要する事なので、陛下は今夜直ちに外部大臣を呼び、林公使の提案に基づき直ちに協議をまとめ、調印の運びとなるよう勅命を下しなさい」
というものであった。この様子は伊藤が、威圧脅迫という手法で、大韓帝国皇帝に対し、大日本帝国政府の決定を押し付けているのであり、協議というものではない。
翌16日17日と、伊藤らは各大臣に詳細な説明をしたが、了解を得られなかった。そのため伊藤は日本軍に対し宮廷周辺での大規模な示威行動を命じて威嚇し恐怖心を与えた。地区の全日本軍に完全武装させ宮廷前の大通りや広場で、行進を行なわせ、大砲を持ち出させた。兵士らは行進し、引き返し、喚声を上げ、城門を占領し、大砲を据え付け、実力行使以外の事はすべて行った。そして、夜には剣付銃を持たせて皇帝の寝所近くに立たせ、同意させた。
そして、伊藤は、皇帝は既に大日本帝国政府の方針にほぼ同意しているとして各大臣に同意を迫り、韓参政大臣と閔支部大臣以外を同意させ、韓参政大臣をさらに脅迫し追い詰めた。
伊藤「閣下は本案を拒否し、ついに日本と絶交しようとする意志を表示するつもりか。予は諸君に愚弄されて黙っているつもりはない」と迫り、
韓大臣「いえ、決して日本と絶交しようなどとは思っていない。この協約については思慮百端、どうしても吾意を翻す事はできない。我が陛下の聖旨に背き、又閣僚と意見を異にするに至った。進退を決し、謹んで大罪を待つ以外にない」と応じた。
伊藤は、第2次日韓協約(韓国保護条約)を、以上のような経過で大韓帝国政府に対し締結を強要した。内容は、前文では皇帝の希望を入れ「韓国の不況を認める時に至るまで」との文言を加え、第3条では、大日本帝国の代表者として朝鮮国の事実上の最高行政官(最高権力者)として統監を置く事と、地方には知事にあたる理事官を置く権利を有するなどとした。
神聖天皇主権大日本帝国政府は、日朝修好条規以来、李氏朝鮮国(1897年より大韓帝国)の独立を主張してきたが、それは李氏朝鮮国(のち大韓帝国)だけでなく欧米諸国や日本国民をも欺瞞する建前に過ぎず、その本音真の狙いは「李氏朝鮮国(大韓帝国)を日本の保護国化」する事だったのである。