つれづれなるままに心痛むあれこれ

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戦後75年「本土決戦 新聞が指南した」:九州「防衛新聞」だけでなく「朝日新聞」はそれ以前から

2020-08-17 15:38:12 | メディア

 2020年8月14日の朝日新聞「戦後75年」が「本土決戦 新聞が指南した」という見出しで、九州で発行された「防衛新聞」(1945年4月18日朝日新聞西部本社創刊)の記事を紹介していた。「国民遊撃戦」と題した連載も組まれていたようだ。

 ところで、朝日新聞の全国版ではすでにそれ以前から、そのような内容の記事を載せていた事を紹介しよう。例えば、

 1944(昭和19)年9月22日朝刊「神風賦」には、「体当たり精神」を賛美した記事を載せていた。それには「……体当たり精神とはどんなものか。『弾丸が雨と降る中に、倒れても倒れてもなお突撃して来る超人的能力』として、日本の歩兵の突撃精神は、外国戦術家の驚異となっている。この歩兵の突撃精神を、さらに一歩進めたものが体当たり精神である。もとより生還を期さない。生命の執着を地上に忘れてきたものに違いない。いな、俺は死ぬんだといった感じのものではなく、その瞬間には、生死を超越し敵を斃さねばならぬという必墜の信念でぶつかってゆく気持だといわれる。……肉弾の強さは洋の東西を問わぬ。特に日本はこの肉弾をもって、今日まで戦って来た。物量よりも、武器の性能よりも、生命をもってぶつかって行く肉弾精神こそ、敵の最も怖るる『不思議な力』である」としている。

 1945年4月16日朝刊には、女性や老人など残る一般人を対象に、手榴弾の握り方や投げ方を細かく説明している。「投げ方は立ち投げ、膝投げ、伏せ投げの3パターンがあり、兵士は立ち投げで30~35㍍、伏せ投げで20㍍以上投げるが、この距離は容易に投げられる距離ではないから、老若男女は投げる訓練をすべきである。手榴弾がないからといって訓練ができないでは済まされない。手榴弾との同じ形、重さの石でも何でもよいから、訓練を積むべきである」としている。

 1945(昭和20)年6月11日朝刊には、大本営陸軍部刊行の『国民抗戦必携』を引用し、刃物などを使った敵兵殺傷の仕方を紹介している。例えば、「ナタ、玄能、出刃包丁、鳶口、鎌等を用いる時は後ろから奇襲すると最も効果がある。正面から立ち向かった場合は半身に構えて、敵の突き出す剣を払い、瞬間胸元に飛び込んで刺殺する。……一人一殺でもよい。とにかくあらゆる手段を用いて何としてでも敵を殺さねばならない」としている。

 1945(昭和20)年6月14日には、「敵来らば『一億特攻』で追い落とそう」という見出しで「『一億特攻隊』の言葉が叫ばれて既に久しい。だがこの言葉の叫び続けられねばならぬところ、国民のなかにはまだ特攻精神に徹しきっていないものがあるのではないか。しかも今ほど一億国民すべてに、あの烈々醜虜(外国人の意)を焼きつくさずんばやまぬ特攻精神が求められることはないのだ。沖縄の決戦なお続くといえども大局我に利あらず。我々は遂に敵の本土上陸を覚悟しなければならなくなった。男も女も、老人も子供も、一たび敵が本土に上陸せば、武器となし得るものすべてを武器とし、敵兵を突き刺さねばならないのである。一億特攻、今にしてこれを我がものとして敵に立ち向かうのでなければ勝利は永遠に失われるであろう。……『一億特攻』と絶叫し、本土上陸の敵を迎え撃つことに最後の勝利を見つめたいのである。……」としている。

 メディア(当時は新聞・雑誌・ラジオのみ。テレビはなかった)が果たした恐るべき実態である。しかし、日本のメディアは現在も、上記のように、主権者国民を洗脳し、教化し、扇動する動きを強めている。公共放送との位置づけのNHKも。主権者国民は幸せに生きる権利を守るうえで、メディアが発信する情報に対する判断能力(メディア・リテラシー)を向上させなければならない。

(2020年8月17日投稿)

 

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「母の日」の由来

2020-08-17 09:07:11 | 文学・歴史

 1948(昭和23)年7月20日発布の法律第178号「国民の祝日に関する法律(祝日法)」では、5月5日の「子どもの日」は、「子どもの人格を重んじ、子どもの幸福をはかる」日とするとともに、「母に感謝する日」ともしているが、一般的に「母の日」は「5月の第2日曜日」という事になっている。

 由来はアメリカにあり、母を亡くした人は、生前のキリストマリアの涙を意味する「」、母が健在の人は復活したキリストを意味する「」のカーネーションを胸に飾り、母に花束を贈って常日頃の母の苦労を慰め、母の愛を讃えて感謝する日とされている。

 アメリカのウェストヴァージニア州教会に、ミス・ジャービスという女教師がいた。日曜学校の説教の時、モーセの十戒の一つ「汝の父母を敬え」という章の解説に「母の恩の深い事を人に悟らせる方法を考えよ」と教えていた。彼女が亡くなり、その追悼式が命日に行われた時、一人娘のアンナ・ジャービスは、母が好きだったという白いカーネーションを母に捧げる事で母の教えを伝えていこうと思い、信者たちに白いカーネーションを配った。信者たちはそれを胸に飾って、教えの通り母への感謝を示した。

 この話を伝え聞いたデパート経営者ジョン・ワナメーカーが、1908年5月の第2日曜日に母を讃える記念会を催して、アンナの話を人々に伝えた。これが反響を呼び、1914年、議会の決議をへて、第28代ウィルソン大統領が国民の祝日として、5月の第2日曜日を「母の日」とする事を定めたという。

 

 

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ぶらっと関西歴史散歩「奈良・竹内集落」が紹介する松尾芭蕉の句碑

2020-08-17 09:01:56 | 文学・歴史

 2020年8月14日の朝日新聞「ぶらっと関西歴史散歩」が奈良・竹内街道」を取り上げていた。竹内集落に近い「二上山」についても紹介していた。ここへは昔、2、3回訪れた事があった。縄文石器時代の石器の材料、主に西日本で流通し使用された「サヌカイト」の産地であったためで、それを直に目にし手で触れた体験をしたものであった。

 また、竹内集落は江戸時代に松尾芭蕉が訪れていくつかの俳句を残したとし、「綿弓の句の石碑」が存在する事も紹介している。この句は『野ざらし紀行』に載せられた句であろう。芭蕉は1684(貞享元)年8月から85(貞享2)年4月にかけて、門人の千里を同行させ、初めての文学の旅に出て、俳諧紀行文『野ざらし紀行』をあらわした。その『野ざらし紀行』に「大和の国に行脚して、葛下の郡竹の内といふところはかの千里が旧里なれば、日ごろとどまりて足を休む、としてこの句─ 綿弓や琵琶になぐさむ竹の奥 ─を詠んでいる。

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