※「八紘一宇」の塔の成り立ちや、なぜ、敗戦後のGHQによる日本軍国主義否定の支配を切り抜け、今日まで存在できたのか、については、別稿の「今時『八紘一宇』刻字の塔、再び東京五輪聖火リレーの起点に?」を読んでください。
さてここでは、メディアが伝えなかった事、それは礎石の返還交渉において、宮崎県知事がいかに信義に悖る対応をしていたか、という事、について伝えたい。
礎石の返還を宮崎県に要求したのは、2006年12月6日に南京市に「南京民間抗日戦争博物館」を開設した「呉先斌」さんです。
呉氏は礎石返還を要求するため、何度も宮崎県知事に宛てて、「公開書簡」を送りました。
その内容は、「塔に使用されている南京の『石』を返還してほしい。そして、この『石』を日本に、宮崎県に持ってきた経過、歴史事実を明らかにし、より多くの宮崎県民に対して説明していただくような教育などをしてもらいたい。私は民間の博物館を開設している一市民ですが、これは南京市民総体の思いでもあります。真摯な回答をいただける事を心から願います」というものでした。
呉氏の再三の要求の結果、2015年10月27日に宮崎県知事は呉氏と面談する事を約束しました。
呉氏は10月25日には宮崎県に入りました。ところが、前日26日の夜11時になって電話が入りました。それは常識では考えられない信義に悖る対応(どこからか政治的圧力がかかったのであろうが、人を馬鹿にしている態度)で、「知事は急用ができたのでお会いできません」という連絡でした。そして、知事の代わりに、県都市計画課の課長との面談、それも1時間の面談という事になってしまったのです。
そして面談中、都市計画課課長は「この塔には軍国主義の意味合いはありません。これは『平和』の塔です。」という事をずっと言い続けたのです。
呉氏はこれに「反論」しました。一つは、「建設が始まったのが1938年、そして終わったのが1940年、この間は日本の侵略が最も激しい時期ではないか。こうした侵略は各地の人々に悲惨な体験を与えただけでなく、日本の侵略は日本の人々にも大きな影響、被害を与えたのではないか」と。
もう一つは、「1950年に当時日本にいた同盟軍GHQが、この塔を撤去するように命じている。それはこの塔が侵略、軍国主義の象徴だったからである。この命令に対して当時の宮崎県知事は非常に姑息な手を使った。それはこの題字にセメントを塗って字を消したのである。また、根元に置いてあった、当時ファシスト軍人の像を撤去して、塔そのものの撤去を免れたのです。そして、この塔のある場所を『平和公園』と名づけたのである。」と。
この「反論」に対して、都市計画課課長は答える事ができなかったのです。
都市計画課課長は、メディアの取材に、「県民が散歩や遠足などで訪れる場所で、観光地としても定着しており、取り壊しはできない。現状のまま保存する事を考えている」と述べ、要求には応じなかった。
また、「戦利品」という指摘に対しては、「古い事なので過去の経緯は分からないし、調べようもない」と述べた。ちなみに、「塔」の中の「厳室(いつむろ)」には世界地図が描かれており、「天皇」の支配が及ぶ地域が示されている。
呉氏は言う。「この『石』そのものを南京に戻す事は重要な事だとは思っていない。このまま台座に安置されるのは構わない。ただ少なくともこの『石』がどのような脈絡で、どのような経過と思想と当時の状況の下でここのあるのか、どのように生まれてきたのか、そういう歴史を明らかにする、そうした『碑』か『銘板』を掲げるべきではないかと思う。今後その方向の交渉を、運動を続けていきたい」
(2016年10月27日投稿)