松下幸之助は、大阪市東区久宝寺町4丁目の松屋町筋にあった自転車屋「五代商店」の小僧だった。和歌山県海草郡(現海南市)の出身で、家は土地では上位の地主であったが、1899(明治32)年に父親が米相場に失敗し跡形もなくなった。小学校を4年で退き、1904(明治37)年11月に大阪へ奉公に出された。八幡筋の火鉢屋に3カ月、そして「五代商店」へ。当時、自転車は輸入の米国製か、英国製ばかりで、1台100円から150円する高価なものであった。休みは正月、天長節、夏祭りだけ。月に20銭の小遣い。食事は、朝は漬物、昼は野菜一菜、晩は漬物が決まりであった。
1908、9年頃、新車の宣伝のため、発売元の間で自転車レースが大流行した。卸し専売に発展していた「五代商店」も参加したが、幸之助はその選手もした。毎朝4時半頃から、住吉のレース場で猛練習しては、各レースに出場した。「小さいのにえらいなあ」と人気を集めた。堺のレースではゴール寸前で転倒し左肩甲骨骨折で意識不明になるまで奮闘した。1910(明治43)年、5年7カ月の小僧生活に別れを告げ、「大阪電灯(関西電力の前身)」の内線工となった。
※松下幸之助のことば
「貧乏には慣れていたので、さほど辛いとは思わなんだが、難儀はずいぶんしたな。しかし、世間というものは、厳しくもあるし、また温かいものや。こないしたろ、と思うことが、なかなか思惑どおりにいかん。それでも辛抱して真剣に取り組んでいるうちに、周囲の情勢が変わったり、辛抱している姿に共鳴、援助があったりして、思いもしない道が必ず開けてくるもんです。逆境よし、順境またよし。その日その日と真剣に取り組むことが大事ですな。」
(2024年11月29日投稿)