日本の中世社会では、時の為政者たちは神々の実在を信じており、その神々の戦争が存在すると考えていた。
『吾妻鏡』には1183(寿永3)年、源頼朝が義経らを派遣し、木曽義仲と平家を追討しようとしていた1月19日夜、「鹿島大明神が賊徒追討に出陣する」という夢告が、鹿島社(茨城県鹿島町)の社僧にあり、翌20日夜、同社の宝殿が不気味に鳴動し、鹿や鶏が激しく群れ騒ぐ中、真っ黒い雲が宝殿を覆い、やがてその雲が西にたなびいていったとある。頼朝は、「鹿島大明神が上洛された、との報告後、敵を滅ぼす事ができた。誠に大明神の霊験あらたかなるものがある」と述べ、朝廷に鹿島社の保護と尊崇を要請している。また、頼朝自身もこの件で鹿島社に恩賞を与えており、大明神の出陣を信じていたと見做してよい。
『花園天皇日記』には1314(正和3)年、北九州で、「蒙古が襲来したため、我々が防戦しているが、香椎(宮)の神は半死半生の重傷を負った。祈禱してくれたなら、もう一度出陣して蒙古と戦うつもりだ」という託宣があったとし、この報告を受けた天皇は、自らの不徳がこうした外寇を招いたと自責して、仏神の助けを乞い願っているのである。また、「祈祷してくれたならば、もう一度出陣して蒙古と戦うつもりだ」とあり、「祈禱」というものが神々を奮い立たせて戦闘に赴かせる手段であったという事がわかる。祈祷は、暴力であり軍事力であり、神々の世界での戦闘行為そのものであったといえる。
※祈祷……宮中で行われた公的な祈祷には「太元帥法」がある。国家鎮護の目的で、平安初期から正月行事として行われた。真言密教の修法で、大壇上に「百の利剣、百の弓箭、法具」などを配置して行った。元々敵調伏を祈り国王の威力を増進させる方法で、敵国伏滅のためにも随時行われた。日清・日露戦争や昭和天皇即位時、アジア・太平洋戦争などでも行われた。
戦争に勝利した場合には、神仏にも恩賞が与えた。鎌倉後期には、神風により蒙古を撃退してくれたとして、幕府・朝廷は寺社の経済的保護政策を強力に推進した。
神聖天皇主権大日本国政府は、アジア・太平洋戦争開戦翌年1月には、元寇(蒙古襲来)の際の先例に倣い、全国7社の一の宮である武蔵の氷川、上野の貫前、伊豆の三島、駿河の浅間、若狭の若狭彦、美作の中山、肥後の阿蘇の各社で、敵国降伏祈願祭を執行した。アジア・太平洋戦争末期の1944(昭和19)年6月、神祇院は『神社本義』を刊行し、「我等日本人が先ず自ら拠り進むべき道は、古今を貫いて易らざる万邦無比の国体に絶対随順し、敬神の本義に徹し、その誠心を一切の国民生活の上に具現し、もって天壌無窮の皇運を扶翼し奉るところにある。これ即ち惟神に大道を中外に顕揚する所以である。……かくて皇国永遠の隆昌を期する事ができ、万邦をして各々その所を得しめ、あまねく神威を諸民族に光被せしめる事によって、皇国の世界的使命は達成せられるのである」と述べている。
敗戦直後の11月12日天皇は、伊勢神宮、神武天皇山陵、明治天皇陵にそれぞれ「終戦奉告」のため参拝した。さらに12月3日、皇族男子を宮中に呼び、「歴代天皇に親しく自分がお参りして終戦のご奉告をしたいのだが、今の状態ではできない。みなで自分の代わりに御陵に参拝してほしい」と命じた。12月初旬、7人の皇族は手分けして全陵を参拝した。高松宮は京都・月輪陵など40数陵、閑院宮は奈良・聖武天皇陵など15陵、朝香宮は大阪・応神天皇陵など16陵といった具合にであった。
秋篠宮夫妻は「立皇嗣の礼」を終えた報告という事で、2022年4月21日に天照大神を祀る伊勢神宮を参拝し、22日には天皇皇族が初代天皇と見做している神武天皇陵を参拝した。先進国に、このような事を行っている国が存在するだろうか?それも国民からの巨額の税金を使って。
(2022年4月24日投稿)