1871年11月からの岩倉遣外使節には、神聖天皇主権大日本帝国において最初の官費女子留学生(この時、華族・士族の男子留学生は53人)が5人同行した。北海道開拓使開拓次官・黒田清隆が募集した米国への留学生であった。留学条件は、官費留学生で、期間は10年、往復の費用・学費・生活費などの支給があった。出発に際して、皇后が「……婦女の模範に……」との沙汰書を授けた。5人の女子の出自はすべて旧幕府側で下記の通りである。
吉益亮子(16歳)⇒旧幕臣の娘。目を患い翌年帰国。
上田悌子(16歳)⇒新潟県士族の娘。病により翌年帰国。
永井繁子(11歳)⇒旧幕臣の娘。東京音楽学校などで教職に就く。後に海軍大将となる瓜生外吉と結婚。10年留学。
山川捨松(12歳)⇒旧会津藩士の娘。後に元帥・陸軍大将となる大山巌の後妻。「鹿鳴館の花」と呼ばれた。11年留学。
津田梅子(6歳)⇒旧幕臣・洋学者の娘。女子教育に力を注ぐ。11年留学。山川と帰国。
さて、津田梅子が、女子のための学校創設を決意した環境・精神的背景についてであるが、何といってもまず、梅子の父親が娘を留学させ、米国と米国人を知る機会を与える決意をしたという点である。梅子の父親、津田仙は元佐倉藩士で、1853年に米国ペリー艦隊が来航した時、江戸海岸防備の任に当たり、米国艦隊の優秀さを見学している。その後、1867年に幕府勘定吟味役・小野友五郎の渡米に随員となり、福沢諭吉らと約半年間の米国生活を体験している。維新後、北海道開拓使嘱託となり、開拓次官・黒田清隆が欧米視察から1871年に帰国した時、顧問として同行してきた米国農商務局長・ケプロンから、女子教育振興論を聞かされている。以上の父親の経験体験が、梅子を米国へ留学させる決意をさせ、それが梅子の精神に大きな影響を与えたといえるだろう。梅子がこの留学の機会を与えられた事得た事が先ず、女子の学校創設を決意する大きな要因となったのである。
次は、ホームステイ先の家族からの影響である。中流家庭(ワシントン、日本大使館勤務のランマン夫妻)に預けられ、「日本人の身体をもった米国人」と評されるほどに米国人的思考を身につけた事である。この事が、帰国してからの日本社会での女性の置かれた立場や夫婦の在り方や男女の在り方に敏感に反応意識思考するようになったようである。彼女は述べている。「女性は猫のようにおとなしく怠惰です。ただ男たちの命令を待っている従者のようです。彼女たちを責めたい気持ちもありますが、同時にその地位に憤りを感じます」と。
そして梅子は、神聖天皇主権大日本帝国における女子教育の立ち遅れを痛感する中で、女子のための学校創設を自己の使命と考え、再び1889年に米国フィラデルフィア・プリンマー女子大学へ留学し、教育学や教授法の研究をした。
そして1900年7月、大山捨松(大山巌侯爵夫人)に顧問として協力を得て、念願の私塾「女子英学塾(1948年津田塾大学)」を創立。そして、開校式の式辞で、今日有名な「オールラウンド・ウーマン(多才な女性)になれ」と彼女の熱い思い訴えたのである。
※『戦後50年 みんな生きてきた』(朝日新聞社編)には、津田塾に関係する方々の「津田ものがたり」が所収されている。
(2022年4月25日投稿)