2019年10月に入って、神戸市立東須磨小学校での、「教員間のいじめ」をメディアが報道した。メディアがこのような内容を報道するのは戦後史上では初めてであろう。しかし、「やっと」というべきかもしれないし、「ついに」というべきかもしれない。「やっと」というのは、すでにどこの学校でも「教員間のいじめ」は存在していたからである。また、「ついに」というのは、すでにこれまで存在した「教員間のいじめ」がどんどんパワーアップレベルアップしてきて、ついに看過できない状態にまで至ったのかと思ったからである。
加害教員らがいじめを行いえた立場や、いじめの内容や、いじめを行いえた職場環境や、いじめが発覚した時点での彼らの釈明などには、児童生徒間のいじめと同様の構図が存在している。加害教員らは、児童生徒に対し、いじめを行ってはいけないと指導する立場にありながら、児童生徒間のいじめの実態そのままを、自らすすんで行っていた。
加害教員は4人で30代の男性3人と40代の女性1人である。被害を受けた教員も4人である。加害教員らは同校では教員組織の中での中堅でリーダー的な立場であり、その立場を利用していじめを繰り返し行っていた。暴言や暴力、性的な嫌がらせなどのハラスメント行為である。被害教員の中の20代の男性教員に対しては、「ボケ」「カス」などの暴言を浴びせる事に始まり、物で尻を叩くなどの暴力や、LINEで女性教員に猥褻なメッセージを送るように強いたり、被害男性教員の車の上に乗ったり、車内でわざと飲み物をこぼしたり、目や唇に激辛ラーメンの汁を塗ったり、いじめている時の様子を写真に撮る、などというものである。加害教員らは、別の3人の20代の教員(女性2人、男性1人)に対してもセクハラ行為をしたり、侮辱したあだ名で呼んだりしていた。
このようないじめに対して周りの他の教員や校長や教頭など管理職の教員はどのように対応していたのか。周りの他の教員はほとんどが見て見ぬふりをしていたのである。つまり、極めて簡単に言えば傍観(共同正犯行為)していたのである。加害者でも被害者でもない第三者が傍観する事により、いじめは継続できたのである。これも児童生徒間の場合と同じである。また、校長や教頭など管理職は、加害教員らのいじめ行為を把握した時点でも、加害教員らに対しては「口頭注意」で済ませていた。そしてこの事をもって、市教委への報告は「問題は収束した」としていた。この対応は、いじめの隠蔽、管理職の責任回避ともいえる結果を導いた。これも児童生徒間のいじめによくある教員や学校の対応である。
そのため、上記の被害男性教員は、その後も、暴言を浴びせられ、9月から欠勤を続けている。加害教員らは、被害男性教員にいじめをチクられたため「仕返し」をしたのである。そのため児童生徒でいえば「不登校」状態に追い込まれたのである。
市教委は被害男性教員の家族から連絡を受けてやっと調査を始めた。その調査で加害教員らは、被害教員らに対するいじめ行為について、「悪気はなかった」「相手が嫌がっていると思っていなかった」などと、児童生徒間の場合の調査でも、よく発せられ良く聞かれる、児童生徒を導く教員とは思えない無責任な釈明をしている。
いじめの被害教員は守られるべきであり守るべきである。いじめ行為は人権侵害行為で犯罪行為であるという事は常識となっている。加害教員らはそのような意識がまったくなく、人権尊重意識を欠いていると言って良い。しかし、教員意識の現状は、彼らのような意識の教員はすでに以前から存在しており、益々増加の傾向にあり、たまたま東須磨小の彼らが表面化したと言って良い。また、東須磨小以外においても同様の意識の教員が少なからず存在し増加していると考えても何ら不思議ではない。再発を防止するために被害調査をする事が必要だろう。そして、彼ら加害教員のような人物を教員として採用している採用試験制度の見直しも必要である。制度の制定に関わった関係者や関係機関の責任も問わなければならない。それは、突き詰めれば文科省の体質や教育委員会、そして安倍自公政権を問う事でもある。
加害教員らは、自らの人権の大切さを認識できていないため、自らの人権を守る意識をもてないとともに、共に生きる仲間の人権を守る意識をもたねばならない事の大切さにも気づいていない。
(2019年10月9日投稿)