つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

中国の木版印刷術

2024-03-25 11:05:34 | 中国・台湾

 朝日新聞「日曜に想う」が、中国で発明された「木版印刷」や朱子学の創始者「朱熹」について触れていた。

 中国の歴史では、(960~1127)の時代にその後の世界の社会文化の発展に大きな影響を与える「3大発明」(木版印刷術、火薬の製造法、羅針盤後漢蔡倫が発明したを含めて4大発明とも)が行われた。木版印刷技術唐代に始まり、宋代以後普及した。唐代には主に仏典・暦本・字書などが印刷された。経書(儒教)五代になって出版された。仏典ではの建国者太祖大蔵経(一切経ともいう。経〈釈迦の教え〉・律〈生活規範〉・論〈経の解釈〉からなる「三蔵」の経典とその注釈書・史書などの仏教聖典を集大成した叢書)を成都で刊行させ文化の普及を促す事となった。この印刷術はマルコ・ポーロによりイタリアへ伝えられ、さらにヨーロッパへ広まった。ちなみに、現存するアジア最古の印刷物は日本の奈良法隆寺に伝わり称徳天皇に由来する「百万塔陀羅尼経」であるといわれる。

 火薬の製造法については、北宋仁宗(位1022~63)の頃、硝石・硫黄・木炭を混合した黒色火薬が発明された。火薬が兵器として初めて実戦に使用されたのは唐末10世紀の始めで、宋代になると火薬が次第に発達し、色々な火器が作られた(『武経総要』1044年)。12世紀中頃、南京近くの采石の戦い(1161)で南宋軍がこれを初めて、南下する金軍(第4代海陵王、位1149~61)に対し使用した。モンゴル軍は鎌倉時代の日本で「てつほう」を使用した事が『蒙古襲来絵詞』(元寇1274、1281)に描かれている。ヨーロッパには13世紀頃、イスラム諸国に出征した十字軍により伝えられた。

 羅針盤は、北宋の末11世紀から12世紀にかけて航海に利用(朱彧『萍洲可談』)されるようになり、アラビア商船(イスラム商人)にも使用されヨーロッパに伝えられた。

 最後に、北宋時代より、「纏足」の風習が始まるが、朱熹は「男女の距離」を教える手段として南福建に普及させる事に熱心であった事を付け加えておこう。

(2024年3月25日投稿)

 

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「八紘一宇」刻字の塔(宮崎県宮崎市の県立平和台公園)、安倍政権は再び東京五輪聖火リレーの起点にする事は諦めたのか?

2024-03-25 07:56:04 | 戦争遺跡

河野俊嗣宮崎県知事に関する、2023年1月1日の動静について朝日新聞は、「自身のFBへの投稿2日午後6時42分)では「14時ごろ、宮崎神宮及び宮崎県護国神社初詣 夕方、倦怠感あり」としているが、宮崎県秘書広報課1日午後9時過ぎ、この日の行動を「宮崎神宮県護国神社初詣」と書いたメールを、「知事の動き」を掲載している宮崎日日新聞社に送ったが、2日午後、同社に変更を要請するメールを送ったという。同紙は要請に応じず、3日付朝刊に初詣の事も記載した。一方、県が2日午後5時過ぎに発表した河野知事の……プレスリリースには、1月1日は「公舎などで過ごす」と書かれていた」とする報道を行った。ちなみに、宮崎神宮神武天皇を祀っており、県護国神社靖国神社の支社である(2023年1月6日)。

※以下は表題に関して2021年7月25日に投稿したものであるが、河野俊嗣知事上記の記事の意味を理解するうえで役に立つと考えられるので改めて投稿しました。

 2020年東京五輪の聖火リレーについて、メディアが報道し始めた。安倍自公政権の五輪組織委員会は、開幕4カ月以上前の東日本大震災発生日の3月11日前後に始めたいようだが、1964年当時のように、「八紘一宇」刻字の塔(宮崎県宮崎市の県立平和台公園)を、再び2020年の東京五輪聖火リレーの起点の一つにする目論見は持っていないかのような内容の報道がなされているが、まだ油断はできないだろう。さて、前回の東京五輪聖火リレーに関して、以下の内容を2016年7月28日に投稿したのですが再投稿しますのでぜひ読んでください。 

 宮崎県宮崎市内の「県立平和台公園」内に、その正面に大きく目立つように「八紘一宇」という文字が刻まれた巨大な石積みの塔(37㍍)が立っている。今日では「平和の塔」と呼ばれている。

 しかし、そんな文字が刻まれた巨大な石塔がなぜ今日、県立公園に堂々と屹立しているのだろう。宮崎県はなぜそのような状態を放置させているのか。県はその意味を認識していないという事だろうか、そんな事はあり得ないだろう。であれば地方自治体の責任としてそのままの状態を放置する事は非常識であり許されるものではない。しかし、敗戦後70年を過ぎた今日も存在しているという事は、宮崎県は「確信犯と言ってよく、「意図的」に放置しているとしか考えられない。この姿勢は日本国憲法第99条が国民に対して保障する「憲法尊重擁護義務」「天皇及び摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」に違反するものであり、その「不作為」は処分に値するものである。

 「八紘一宇」という言葉の語源は、日本書紀にあり、それによると、神武天皇を初代天皇とし、神武天皇が大和橿原に都を定めた時に、「八紘を掩いて宇にせん」と抱負を述べた、と書かれている。その意味は「八方の地の果てまでを一つの家として統治支配するぞ」というもので、強い権力志向を表す言葉である。

 この日本書紀をもとにして、「八紘一宇」の造語を生み出したのは、宗教家の田中智学(1861~1939)で、それを軍部が1930年代から「天皇の威光がアジアを覆う」という趣旨で使用し始めた。そして、神聖天皇主権大日本帝国政府は1940年には、「八紘一宇」を盛り込んだ「基本国策要綱」を閣議決定したのであるが。

 その同じ年である1940年に「八紘一宇」の文字が刻まれたこの石塔が建てられているのである。その建造理由は、1940年がちょうど紀元2600年(神聖天皇主権大日本帝国政府が定めた、日本書紀に記された神武天皇即位年からの年数)にあたり宮崎県がそれを記念して、企画し建設したといわれる。また、中国への聖戦完遂(侵略戦争継続)のための国民の総動員と戦意高揚が目的であった。完成時の正式名称は「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」である。石塔はこのように「侵略戦争」に強くかかわる建造物なのである。

 この塔の基礎部分には1800個位の世界から略奪したり献納させた「」を使用した。うち約1割180個は、中国朝鮮半島からは120~130個、台湾からは41個、満州国からも。また南米や軍事同盟国ドイツからのものある。また、「八紘一宇」の塔の中には「厳室(いつむろ)」という空間をつくり、そこには世界地図を描き、「昭和天皇」の思召しが及ぶ(また、支配下にあった)地域として、朝鮮半島や台湾などを含むアジア全域樺太の南部、南米大陸などを描いているのである。

 敗戦後の連合国軍による占領支配の下では、戦争遂行や戦意高揚に関係する事物の多くが破壊されたり、地中に埋められたりなどして処分され国民の目に入らないようにされた。靖国神社の境内の事物についても同様であった(占領支配後は埋めたものを掘り返して元に戻して今の姿になった)。

 それでは、宮崎県のこの石塔については、どうなっていたのか。敗戦後、他の地域の事物と同様の対象となった。しかし、「八紘一宇」の文字が占領軍によって削除されただけで、塔自体は破壊されずにそのままの姿で残す事を認められたようだ

 しかし、「確信犯」と考えられる事が起こった。それはその後の1964年の「東京五輪」開催との関係で、1961年になると、地元の観光業者らの働きかけを受けて宮崎県は、多くの県民や労働者の反対を無視して、かつての場所に「八紘一宇」の文字を復元したのである。それが今日、目にする事ができる「八紘一宇」の文字なのである。そして、当時の知事名による由来碑には「八紘一宇が平和を祈念して刻まれた」などと書かれたのである。この言葉には、日本による侵略戦争であるという「認識」は微塵も感じられないだけでなく、「東亜永遠の平和」のための「聖戦」として「正当化」するものであり、そのためもちろん「加害者」としての「反省」「謝罪」の言葉は「かけら」さえも見られないのである。おまけに、それ以降この石塔は「由来碑」の言葉から「平和の塔」と呼ばれるようになったようである。スリカエ欺瞞も甚だしいものである

 しかし、そのような認識の下に、1964年東京五輪では、「県立平和台公園」が「聖火リレー」の起点の一つとなったのである

 その後も今日まで、そのままの姿で存在し続けているのであるが、宮崎県知事や県議会、そして宮崎県民はどんな意識をしているのであろうか。

 2015年10月、中国・南京民間抗日戦争博物館の呉先斌館長が宮崎県庁(河野俊嗣知事2011年1月21日~)に来訪し、「この塔の礎石の一部は南京産である」として返還を要求した。返還要求しているのは3個で、1個は中国の霊獣「麒麟」の絵と「南京日本居留民会」の文字が刻まれたもので、14世紀に明王朝を興した皇帝陵墓にあった可能性があり、「国宝級の文化財」ともいわれるもの。ほかの2個は、「孫文」の陵墓である「南京中山陵」の刻印があるものと「南京紫禁山麓」と刻まれたものである。

 現在、宮崎県都市計画課(河野俊嗣知事)は、「取り壊しはできない。現状のまま保存する」方針であり、返還要求には応じない姿勢を続けている。「侵略戦争について学ぶ場」とする気もなく、返還要求に応じる気もない。ここにもこの現在においても「確信犯」としての姿勢を続けている。

 それはなぜか? この石塔をそのまま残し、2020年の「東京五輪」再び「聖火リレー」の起点(県立平和台公園から1㌔のところに「神武天皇」をまつる「宮崎神宮」がある)とするためなのである。そして、「聖火リレー」の「到着点」は「聖地」と呼ばれている「国立競技場」を建て替えた「新国立競技場」という構想が練られているのである。

※「国立競技場」がどのような意図で建築されたかについては、本ブログの別稿をぜひ読んでください

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追伸:「八紘一宇」の塔礎石返還交渉、宮崎県知事の対応は信義に悖る

2024-03-25 07:49:29 | 戦争遺跡

※「八紘一宇」の塔の成り立ちや、なぜ、敗戦後のGHQによる日本軍国主義否定の支配を切り抜け、今日まで存在できたのか、については、別稿の「今時『八紘一宇』刻字の塔、再び東京五輪聖火リレーの起点に?」を読んでください。

 さてここでは、メディアが伝えなかった事、それは礎石の返還交渉において、宮崎県知事がいかに信義に悖る対応をしていたか、という事、について伝えたい。

 礎石の返還を宮崎県に要求したのは、2006年12月6日に南京市に「南京民間抗日戦争博物館」を開設した「呉先斌」さんです。

 呉氏は礎石返還を要求するため、何度も宮崎県知事に宛てて、「公開書簡」を送りました。

 その内容は、「塔に使用されている南京の『石』を返還してほしい。そして、この『石』を日本に、宮崎県に持ってきた経過、歴史事実を明らかにし、より多くの宮崎県民に対して説明していただくような教育などをしてもらいたい。私は民間の博物館を開設している一市民ですが、これは南京市民総体の思いでもあります。真摯な回答をいただける事を心から願います」というものでした。

 呉氏の再三の要求の結果、2015年10月27日に宮崎県知事は呉氏と面談する事を約束しました。

 呉氏は10月25日には宮崎県に入りました。ところが、前日26日の夜11時になって電話が入りました。それは常識では考えられない信義に悖る対応(どこからか政治的圧力がかかったのであろうが、人を馬鹿にしている態度)で、「知事は急用ができたのでお会いできません」という連絡でした。そして、知事の代わりに、県都市計画課の課長との面談、それも1時間の面談という事になってしまったのです。

 そして面談中、都市計画課課長は「この塔には軍国主義の意味合いはありません。これは『平和』の塔です。」という事をずっと言い続けたのです。

 呉氏はこれに「反論」しました。一つは、「建設が始まったのが1938年、そして終わったのが1940年、この間は日本の侵略が最も激しい時期ではないか。こうした侵略は各地の人々に悲惨な体験を与えただけでなく、日本の侵略は日本の人々にも大きな影響、被害を与えたのではないか」と。

 もう一つは、「1950年に当時日本にいた同盟軍GHQが、この塔を撤去するように命じている。それはこの塔が侵略、軍国主義の象徴だったからである。この命令に対して当時の宮崎県知事は非常に姑息な手を使った。それはこの題字にセメントを塗って字を消したのである。また、根元に置いてあった、当時ファシスト軍人の像を撤去して、塔そのものの撤去を免れたのです。そして、この塔のある場所を『平和公園』と名づけたのである。」と。

 この「反論」に対して、都市計画課課長は答える事ができなかったのです。

 都市計画課課長は、メディアの取材に、「県民が散歩や遠足などで訪れる場所で、観光地としても定着しており、取り壊しはできない。現状のまま保存する事を考えている」と述べ、要求には応じなかった。

 また、「戦利品」という指摘に対しては、「古い事なので過去の経緯は分からないし、調べようもない」と述べた。ちなみに、「塔」の中の「厳室(いつむろ)」には世界地図が描かれており、「天皇」の支配が及ぶ地域が示されている。

 呉氏は言う。「この『石』そのものを南京に戻す事は重要な事だとは思っていない。このまま台座に安置されるのは構わない。ただ少なくともこの『石』がどのような脈絡で、どのような経過と思想と当時の状況の下でここのあるのか、どのように生まれてきたのか、そういう歴史を明らかにする、そうした『碑』か『銘板』を掲げるべきではないかと思う。今後その方向の交渉を、運動を続けていきたい」

(2016年10月27日投稿)

 

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文化財返還 藤塚隣氏の『歳寒図』と民主党政権『朝鮮王朝儀軌』

2024-03-25 07:35:00 | 朝鮮問題

 2021年6月5日朝日新聞「そよかぜ」が「日韓の信頼にじむ一枚の絵」と題する記事を載せていた。

 日本が大韓帝国を大日本帝国に併合し地域名「朝鮮」として植民地支配していた時代、京城帝国大学教授であった藤塚隣氏が京城(現ソウル)滞在時に集めた、李氏朝鮮時代の書芸家、金正喜(号は秋史、1786~1856)氏の資料2700点余り(現在大韓民国国宝の「歳寒図」など)を、隣氏の息子の明直氏が死の直前の2006年に、秋史氏が住んだ京畿道果川市の文化院寄贈していた事などが泉千春氏の調査で明らかになった事を紹介していた。末尾は、泉氏の「『歳寒図』も日本から奪い返したと言われているが、これは信頼に基づいて実現した物語です」という言葉で結んでいた。

 この記事を読んで思い出した事がある。それは、韓国併合から100年目の2010年、時の民主党政権が特定の図書を大韓民国に「引き渡す」と宣言し、同年11月の「図書に関する日本国政府と大韓民国政府との間の協定」(日韓図書協定)に基づいて、2011年に『儀軌』類81部167冊を大韓民国政府に戻した事である。

 1910年から47年まで、神聖天皇主権大日本帝国政府は、「王族」と「公族」という身分を新しく作った。それは1910年の韓国併合の際、穏便に併合を実現するためにあらゆる手段を取って朝鮮人を懐柔しようとしたが、その一つとして、明治天皇大韓帝国皇室のために詔書を出し創設した身分であった。

 高宗太皇帝、純宗皇帝、皇太子李垠など大韓帝国皇室嫡流は「王族」として順に「李太王」「李王」「二代李王」とし、皇帝の弟にあたる義王李堈や太皇帝の兄にあたる興王李きなどの傍系は「公族」とした。そして、宮内省が「王公族実録」を編修する際に『儀軌』が必要不可欠となって東京宮内省に移管、「帝室図書」として宮内省が保管し、その後朝鮮に返還する事はなかったのである。戦後宮内庁が保管を引き継いでいたという経緯があったのである。

 ちなみに、『儀軌』についてであるが、朝鮮王朝では国家行事や王室の祭礼、葬儀、婚礼などに関し、儀式の仕方や道具の種類、収支決算などをその都度『○○儀軌』という名称で編纂してきた。その部数は数千に及ぶ膨大なものであり、現在ではそれらを総称して『朝鮮王朝儀軌』と呼び、2007年に記憶遺産となっている。

(2021年6月15日投稿)

 

 

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天皇は国体開会式出席を口実にした憲法違反の岩手護国神社参拝をやめよ。

2024-03-20 18:51:30 | 皇室

 2016年9月28日から4泊5日で岩手県を訪問する。被災地訪問の事が大きく取り上げられているが、本命は国体開会式の出席である。被災地訪問は本来予定には入っていなかった。なぜなら、震災は5年前に起こった事からである。そのため、予定していた国体の件だけで素通りできなくなったのである。もちろん、被災地訪問は「同情行為」でしか過ぎないが、象徴天皇としてはその「慈悲」の顔をアピールして置く絶好の機会なのである。同情や「慈悲の顔」は「差別行為」と「同質」である事を分かっていないらしく。

 天皇は第三者的な差別的な立場に立つ「同情行為」をやめるべきである。そして、自ら「原発廃止」に力を尽くすべきである。そうしてこそ「差別者の立場」から脱する事ができるのである。しかし、彼にはできないだろう。地位と名誉を捨てられないから。人間は「同情行為」ほど屈辱を感じる事はない。しかし、彼は良い事をしているとしか思えないのだろう。それは、彼の国民に対して持っている意識なのである。国民は彼らが自分たちと同様の感覚や意識をもち物事を判断していると考えてはいけない。

 被災地訪問については、これ位にして、本題へ入る事にしよう。本題は天皇と国体の関わりの件である。この事については以前、別稿「天皇は憲法尊重擁護の義務を果たしていない。安倍政権は政教分離原則の空洞化を狙う」で詳しく書いているのでぜひ読んでください。

 さて、天皇がなぜ「国体の開会式」に関わっているのかという事であるが、率直に言えば、1946年に国体が開始されてから今年で第71回目になるわけであるが、この間、天皇は開会式に出席するだけでなく、その際必ず、各都道府県に存在する「護国神社」へ参拝してきたのである。つまり、開会式に出席する事を口実に「護国神社」への参拝をしてきたという事である。「護国神社」が「靖国神社」の傘下にある事を考えれば、天皇が何の目的で参拝しているのかは自ずから明らかでしょう。

 1970年の第25回大会は岩手県で実施されているが、その時は、昭和天皇皇后は岩手護国神社に対して、「幣せん料」を奉納し、参拝した。

 10月1日は岩手護国神社の「秋季慰霊祭」となっており、そのように計画していたといえよう。天皇は10月2日には、宿泊地の花巻市から、国体会場である「北上市」ではなく、わざわざさらに北方の「盛岡市」まで出向き、そこから東北新幹線に乗車する予定である。その理由こそ岩手護国神社が「盛岡市八幡町」の「八幡宮境内」に存在するからである。

 この行為は、憲法第20条「信教の自由」第1項「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」や、第3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」という定めに「違反」しているのである。また、第99条「憲法尊重擁護義務」の「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し、擁護する義務を負う」の定めに違反しているのである。

 このような事から、天皇の「慈悲の顔」にこそ注意が必要なのである。

(2016年9月25日投稿)

 

 

 

 

 

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