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蒋介石国民党支配の50年代台湾

2024-11-30 10:24:08 | 中国・台湾

 蒋介石国民党は1950年以降、地方公職選挙を導入して、台湾人エリートの地方政治への参加を可能とし、中央政治における外省人支配との二重構造とした。青年層対策では1952年10月、蒋介石の長子蒋経国中国青年反共救国団を設立し、青少年に軍事訓練や娯楽を提供するとともに、これを組織化、政治的教化をし、反政府化を予防した。

 1950年代には、外省人知識人らによる雑誌『自由中国』が、国民党公認の反共自由主義から国民党の独裁を批判する傾向を強め、1959~60年には蒋介石の憲法改正、総統三選の動きを社説で批判、また、「中国民主党」結成を図った。

 この動きに対し、1960年9月、国民党は同誌編集長を逮捕・投獄し、同誌を廃刊とし、少数のリベラル知識人による民主化運動を圧殺した。

 この結果、中国大陸で共産党との内戦に敗退した国民党は、台湾での体制改革基盤強化に成功し、権威主義支配を再建した。

 これを可能にした背景には、神聖天皇主権大日本帝国政府が1905年から45年の敗戦まで植民地として支配するために作り上げた、すべての土地・住民を把握する体制がすでに存在していた事があり、国民党はこれを基盤として強固な支配を確立したのである。

(2022年11月25日投稿)

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いわゆる「台湾出兵」は台湾占領と琉球処分強行の領土拡張(侵略)政策

2024-11-30 10:18:37 | 中国・台湾

 神聖天皇主権大日本帝国政府(当時実権は大久保利通が掌握)による、教科書的に表現すれば1874年5月の「台湾出兵」の目的は、大日本帝国政府が国境を画定するための軍事行動である。「台湾」全体を「占領」し、大日本帝国政府の領土とするためであり、併せて「琉球王国」の清国との両属関係を断ち切り、大日本帝国政府の完全な領土とする「琉球処分強行」ためであった。しかし、「台湾占領」は、清国の抗議や、英国の反対にあいこの時点で達成できず、1895年、日清戦争後の下関条約でついに清国に割譲させた。

 【経過】

○1871年、廃藩置県実施、薩摩藩は鹿児島県となり、琉球王国は鹿児島県の管轄

○1871年10月、琉球王国への上納を終え、宮古島へ帰る役人たち約70名が那覇港を出港。途中暴風にあい台湾東南岸牡丹社へ漂着し、54名が台湾の先住民族(パイワン族)に略奪殺害された。原因不明。

○生き残った者12人は清国の役人により1872年正月、福建省福州へ送られ、6月には琉球王国へ送還された。琉球王国の漂着民が台湾の先住民族に襲われる例は、1790年、1810年にも見られ、この事件と同様に生存者は琉球へ送還されている。

○1872年7月、琉球王国政府から鹿児島県庁へ報告。大山綱良鹿児島県参事は、「台湾先住民を討つべし」と大日本帝国政府へ報告。

○1872年9月、琉球藩設置。外交権接収、清国への朝貢禁止、琉球国王を藩王とし華族に列す。

 ➀琉球藩の事務は鹿児島県を離れ、琉球王国が締結した外国との諸条約も含めて外務省の管轄に移す(琉球の外交権停止

 ➁大日本帝国海軍が琉球列島を測量。

 ③久米島・宮古島・石垣島・西表島・与那国島に「日の丸」を立てる。

 清国は認めず琉球王国も抵抗。琉球王国の帰属争いは継続。国際問題化。

井上馨大蔵大輔の「琉球国」に関する建議……正院あてに提出

「〈百度維新〉を迎えた今、琉球の『あいまいな位置』を一掃し、『皇国の規模御拡張の御措置』をとるべ   き事を主張し、その方法として、武力による制圧は避け、琉球の『酋長』にその『不臣の責』を問い、これまでの歴史や『順逆の大義』を説いて、版籍を収めさせ、『内地一執の制度』を施行する、というもの。」

○1873年、大日本帝国政府は「台湾占領計画」を立て、宮古島島民の「台湾遭難事件」の責任の所在を求めて清国と交渉。清国は、台湾全島は清国の領土であるが、先住民族は中国の教えが及ばない「化外の民」である、と述べ責任を回避。

○1874年2月6日、大日本帝国政府は「台湾占領」と「琉球処分強行」の前提をつくるため、「台湾の先住民族地域は清国の領土ではない。主権者のいない地域である。大日本帝国政府の属民が殺害された仕返しをするのは政府の義務である」という事を根拠に台湾出兵を決定。

米英スペインなどの諸外国は大日本帝国政府の台湾への侵略戦争を警戒し、苦情申し出と局外中立を宣言。米国を当てにしていた大久保利通は計画中止を命令したが、西郷従道司令官は命令を拒否して出兵を強行。三菱汽船会社が軍事輸送を担当。

○1874年5月、西郷従道軍約3600名(鹿児島県士族300人を含む)は長崎を出発し、台湾南部に上陸し、パイワン族の住む牡丹社及び南部に住む先住民族を攻撃。戦闘は1カ月足らずで終了(その後も占領し続け撤兵は74年12月)。戦死者12名。マラリアなどで561名が病死。

※1874年5月、琉球藩を内務省の直轄地とし、井上の建議のような皇権拡張方針一貫して強行。琉清関係の廃絶と天皇のもとの中央集権国家機構の枠内に琉球を包含する「藩治職制」を強制。

○大日本帝国政府の「台湾占領」の目的は、清国の抗議、英国の反対にあい挫折。

○1874年10月、英国公使の仲介。清国は宮古島遭難民に対し10万両、大日本帝国陸軍が台湾で建設した道路や家屋の買収費として40万両、計50万両(約67万円)を支払う事で決着。大日本帝国政府は台湾を清国領土であることを認め、清国は琉球藩を日本領土である事を認める形となった。しかし、同年、琉球藩は清国になお進貢使を派遣。

○1875年5月、大日本帝国政府は内務官僚松田道之を琉球藩に派遣し、清国への進貢や冊封の廃止、藩王の上京鎮台分営の設置などを命じたが抵抗。琉球は米英清各国公使に救済を訴える。

○1876年、大日本帝国政府は琉球藩の裁判権・警察権を接収。

○1877年4月、琉球藩は受諾拒否し、王族の幸地朝常をリーダーに久米村の人間も集め、密使として清国福建省福州琉球館へ遣わした。清国は大日本帝国政府へ正式に抗議。清国公使から寺島宗則外務卿へ「隣国どうしの交際のならいに背き、弱小の国を欺くなど決してあってはならない」と。

○1879年4月4日、大日本帝国政府は再び松田道之を、警官160名、熊本鎮台から300余名の軍隊とともに派遣し、首里城武力で占領。琉球藩を廃し沖縄県を設置琉球処分)。450年間の琉球王国滅亡。藩王尚泰の上京、邸宅及び公債20万円給与、侯爵授与(1885年)、首里玉陵に埋葬。

○琉球王国滅亡の知らせは清国福州にも伝えられた。琉球館に派遣されていた琉球密使(脱清人)は北京や天津へ嘆願を直訴。幸地朝常は天津で李鴻章に嘆願。しかし、李鴻章は欧米列強と対抗するうえで、日本との関係を重視したため認めず。

※神聖天皇主権大日本帝国政府は、欧米的な近代国際法の論理台湾の先住民族を侵略し、琉球処分を強行した。その論理は、国境を明確にする事にあり、国境が明確でない土地は先に手を付けた国の領土(無住地先占)であるというもの。琉球各地に「日の丸」を掲揚した事や、神聖天皇主権大日本帝国政府が侵略した台湾の先住民族の族長たちに服属の証として「日の丸」を配布した事に見られる。

(2023年12月6日投稿)

 

 

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朝日新聞GLOVE・Travel「歴史伝える秘密トンネル」台湾台北で隠蔽された日本植民地支配の歴史

2024-11-30 10:17:13 | アジア・太平洋戦争

 朝日新聞GLOVE・Travelが、台湾省台北市に遺る「~秘密トンネル」と題した記事を載せていた。それは「蒋介石とその妻・宋美齢が設けた脱出用秘密トンネル」としており、その所在地は、かつて(改築後)私もその玄関前まで訪れた事がある所で、彼らが海外の賓客を接待し宿泊させる専用施設として使用した高級ホテル「円山大飯店」地下にあるとしている。

 現在の建物は1973年に改築され14階建てとなっている。トンネル地下1階東西に1本ずつ存在し、西側(全長約85m)は2019年に、東側(全長約70m)は2021年に一般公開されたとの事。天井の高さと幅はどちらも2mほどで、4~5階の高さを曲がりくねった階段や坂道を下って外へ脱出できるように造られているようだ。

 この記事を見て残念に思った事がある。それは、後段で日本(神聖天皇主権大日本帝国政府)統治時代の建物として台湾総統府(元台湾総督府。総督は軍事指揮権のほか行政・立法・司法の権限掌握。初代総督は海軍軍令部長、海軍大将・子爵・伯爵の樺山資紀)とともにその時代の建物が多く残る迪化(てきか)街日本の植民地時代には非武装抗日運動の拠点であった)を紹介しているのであるが、最も重要な歴史を載せていない事である。それは蒋介石と宋美齢が円山大飯店を建てた場所に、かつてどのような建物が建てられていたかという事にまったく触れていない事である。総統府の建物などについて紹介をしながら、この事を紹介しないというのはどういう事だろう。プロとして知らないとは考えられないから、意図的に隠蔽したと言われても仕方がないだろう。

 つまり、円山大飯店が建てられいる場所は、神聖天皇主権大日本帝国政府国家神道に基づき1900年に、敗戦まで天照大神を祀った官幣大社「台湾神宮」を高台に建て、台北の街を見下ろすように存在していた場所であるという事実に触れていないからである。

 敗戦まで海外には、神聖天皇主権大日本帝国政府国教とした国家神道(日本各地の神社を、天皇の祖先=天照大神を祀ったとされる伊勢神宮を頂点とし、官幣社・国弊社・府県社・郷社・村社・無格社というランク付けをし、国家管理していた)に基づく同化政策=皇民化政策=民族性抹殺政策により建てた「神社」は約700社存在したといわれており、ブラジル・合衆国・中国・朝鮮・シンガポール・南洋諸島など広範囲に分布していた。

 日清戦争の結果、神聖天皇主権大日本帝国政府台湾を初の植民地とし、その支配のための重要政策として全島に神社を建てた。そして1900年には官幣大社台湾神宮を建て、その後、県社・郷社・村社・無格社の建設を進め、合計65社を建てた。神社に準ずる「社」(116社)も島の隅々にまで建てた。祭神天照大神である。台湾支配の特徴は「皇民練成」「皇民意識」の育成であった。帝国政府はアジア・太平洋戦争開始とともに、皇民化政策=同化政策=民族性抹殺政策を強化し、「皇国精神の徹底を図り国民意識の強化に努る事」と定め、日本語使用及び日本式への姓名変更とともに神社崇敬を重視強制した。それは台湾民族にとって寺廟の廃止にとどまらず芸術・風習まで「日本精神」を強制され、戦争総動員体制に組み込まれ使い捨ての駒とされる事を意味していたのである。

(2022年2月7日投稿)

 

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朝日新聞は大嘗祭(皇室神道儀式)実施が政教分離原則違反であり、公務員の憲法尊重順守義務や主権者国民の権利を侵害する事こそ啓発すべき

2024-11-29 22:08:52 | 大嘗祭

 朝日新聞は、2018年3月17日の「天皇の代替わり 7」の記事で、大嘗祭(新嘗祭)に使用する小道具について、どこの地方の新穀を使うのかは、19年5月の新天皇即位後に占いで決めるとか屏風は誰に依頼するのかとか装束はどうするのかとか。短期間で準備をする宮内庁職員が忙しくなると書いて筆を終えている。これだけではメディアは主権者国民の知る権利の最も重要な点に応えた内容とはいえない。

 この大嘗祭(新嘗祭)に関してメディアが主権者国民に伝えるべき事は、憲法が「主権者国民の人権を保障すべき義務を有する」と定める、「国家公務員や地方公務員」に対し、安倍自公政権が大嘗祭の実施それ自体が憲法の政教分離原則に違反する事であるにもかかわらずそれを認めないだけでなく、さらにその上に国事行為と位置づけて、「公務員」である自らと、「国家公務員や地方公務員」を「皇室神道宗教儀式」に従事参加させようとする価値観についてであろう。安倍自公政権は大嘗祭(新嘗祭)を皇室神道の宗教儀式であり憲法(政教分離原則)違反である事を認める気がなく、政府が「公務員が主権者国民に対する義務を遂行する事を認めない」事を押し付ける公務執行妨害をしているとみなすべきであり、その事により、主権者国民にとっては、憲法が主権者国民に保障する政教分離原則(基本的人権の尊重)が侵害否定される結果をもたらしているのであり、憲法が実質を伴わない言葉だけのものに変質させられているのである。

 この在り方は安倍自公政権が、大日本帝国憲法において、国民を臣民(天皇の家来)とし、信教の自由については「安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限りに於いて信教の自由を有す」とした(思想信条の自由については認めていないので条文は存在しない)のと同じ価値観を現在の国民にも強要し定着(社会的儀礼や習俗的行事とみな)させようとしている事を意味しているのである。天皇家皇族も大嘗祭(新嘗祭)をやめようとする意思がないから、彼らも安倍自公政権と結託して平成の代替わりに引き続き実施しようとしているものと考えてよいのである。

 平成の代替わりの「大嘗祭」は知られているので別稿に譲り、ここでは2017年の「新嘗祭」の様子について、いかに政教分離原則が無視され、国民の基本的人権が否定されたかを紹介したい。

 宮中献穀のための新穀は天照大神に供えるものである。今回も実施するという大嘗祭にはどの地方の新穀を使うのかは、19年5月の新天皇即位後に占いで決めるというが、毎年の新嘗祭の新穀は毎年全国各地で栽培させており、そのために毎年5月には全国で田植えの祭(御田植祭)が実施されている。2017年の北海道では比布町が選ばれた。献穀者の選出は、賞典長(皇室使用人の長、人件費は内廷費)から都道府県知事に対し、「本年度の新嘗祭に献穀を希望する者がある場合(皇室からの要請とせず国民からの希望に応える形式をとっている)は、別紙のような方法で受納しますから、よろしくお取り計らい願います」との文書が送られ、市町村長を通じて地元農協に伝達され、決定された。田圃には「新嘗祭献穀圃場」「耕作者○○」と書かれた高札が立てられた。田植え当日は上記の関係機関(奉賛会を含む)から約50名の出席があり、神職の下で、田圃に注連縄を張りお祓いをしたうえで、田圃耕作者の町役場勤務の女性2名、JAぴっぷ町勤務の女性3名、など6名の早乙女により苗を植えた。

 9月にはこの献穀米を刈り取る神事「抜穂祭」を行うが、九州南島原市では、地元の小学生が動員され、刈女、田男とされた。参加者は、市長、市議会議員、各町内会、各市内団体、地元小学校、長崎県議会議員、長崎県知事などであった。「お田植え祭」「抜穂祭」のいずれも知事や市町村長、県市議会議員、小学校教員など公務員が関わっており、小学生など住民も動員されている。

 10月下旬には耕作者夫妻が皇居に行き宮中行事に出席し献穀した。夫妻は農具や儀式ごとの祭服を新調したり、「直会」の飲食代、交通費、新調の礼服など高額の出費となった。ちなみに、献穀者または同居の家族が忌にかかった場合は献穀を遠慮するよういわれた。

 以上のような準備を前提として、安倍自公政権と新天皇(天皇家皇族)が2019年には戦前からの国家神道の宗教儀式である「大嘗会」(2018年は新嘗祭)を国民の税金を使い実施しようとしているのである。「大嘗祭」とは一体どのような意味を持つ宗教儀式なのであろう。

 国民学校6年の修身教科書「大嘗祭の御儀」に書かれている内容を紹介しよう。

「大嘗祭は、わが国でいちばん大切な御祭であります。御一代に御一度、神代そのままに、こうごうしいこの御祭をあそばされるのは、実にわが大日本が、神の国であるからであります。……これこそ、実に大神と天皇とが御一体におなりあそばす御神事であることを明らかにするもの、と申さねばなりません。」

(2019年11月15日投稿)

 

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天皇のフィリピン訪問「おことば」;真の日比友好は「傲慢と欺瞞」の自省から始まる。

2024-11-29 21:49:01 | 皇室

 天皇は、2016年1月27日のフィリピンでの晩餐会にあたり、「お言葉」を述べた。これに触れて、思い浮かぶ事を書いてみたい。

 天皇は、「この度の私どもの訪問が、両国民の相互理解と友好の絆を一層強める事に資する事を深く願い……」と最後を結んでいる。ここには、国民各自がそれぞれの意思でフィリピン人と友好関係を築いている事に対して、天皇は自分の行動や言葉が影響を与えるものだと考えている事をうかがわせるが、この発想は「上から目線」で、敗戦前の神聖天皇主権大日本帝国政府時代のように、国民を低く見ている事を表しているものである。実際に友好関係を築く場合、天皇の行動や言葉はまったく関係がないと言ってよい。友好関係はそのような事を主たる要素として築けているわけではなく、個人と個人の人格が主たる要素となっている事は明らかである。時代錯誤も甚だしいし物事をよく理解していないし恩着せがましい発想であると言ってよいものである。また、天皇の行動や言葉を主たる要素とすれば友好関係が築けない場合が出てきたり壊れる場合もあるのである。つまり、天皇の「お言葉」は手前勝手で無味乾燥で薄っぺらで内容がなく「大きなお世話」であるという事なのである。

 国民のための訪問という体裁をとらず、現在天皇としてある自身が今回改めて友好関係を築きたいという体裁をとって、日比両国間の歴史に対する認識や立場を表明する事を通してその意志を伝えればよいのである。その内容がどのような評価を受けるかは別にして。その評価から天皇は学ぶべきは学んで行く事が大切なのである。

 フィリピンでは「独立運動の父」とされている「ホセ・リサール」の記念碑を訪れ、「武力でなく、文筆により独立への機運を盛り上げた人であった。若き日に彼は日本に一カ月半滞在し、日本への理解を培い、来る将来、両国が様々な交流や関係を持つであろうと書き残している。リサールは国民的英雄であるとともに、日比両国の友好関係の先駆けとなった人物でもあった」と述べている。独立運動は大雑把に言えば、「ホセ・リサール」がスペインによって1896年12月30日に「処刑」された後もアジア・太平洋戦争で日本が敗戦するまで続き、1946年7月4日に「フィリピン第3共和国」として米国から独立したのであるが、この人物だけしか触れず、他の人物や独立までの経過には一切触れていない。これは意図的になされた情報操作であり、国民に対する世論操作を狙ったものである。ここには天皇(安倍晋三日本政府)の考え方が表れていると言ってよい。また、米国政府の要請もあったと考えられる。なぜなら、その後、フィリピン独立運動を裏切った「米国」と侵略してきた「日本」が前後して植民地支配をし、フィリピンの独立運動に介入したからである。日本国民の前に改めてその事実がさらされる事により、戦前の米国や日本そして天皇についての真実の姿を知らせない知られたくない思惑があったのである。知らない事をあえて国民に知らせる事は彼らにとって都合が悪いという考えである。国民に対してひじょうに欺瞞的な態度であり姑息な考え方であり、国民を馬鹿にしているのである。

  1898年4月に米西戦争が勃発した。米国は戦争を有利にするために独立に全面協力する事を条件に、「アギナルド」に米西戦争に協力する事を求めた。1898年6月12日に初代大統領として「独立宣言」を発した。1899年1月23日、憲法を公布し、「フィリピン第1共和国」を樹立した。ところが、1898年12月10日に米西戦争の「パリ講和条約」が締結され、米国がフィリピンの領有権を2000万ドルで獲得すると、マッキンリー大統領は「独立を拒否」し約束を反故にした。そのため「米比戦争」(1899年2月~1902年7月)となったが米国は鎮圧し米国の植民地とした。その間に殺害されたルソン島民は61万人以上で6分の1に当たる。

 1901年7月、米軍政から民政移管。07年、「フィリピン組織法」により、陸軍長官「タフト」により植民地化を進めた。その間、「桂太郎」日本政府は、米英両国と関わりを持ち、

 1905年7月、「桂・タフト協定」締結。内容は、①日本は、米国の植民地となっていたフィリピンに対して野心の無い事を表明。②極東の平和は、日本、米国、英国3国による事実上の同盟により守られる。③米国は、日本の朝鮮における指導的地位を認める

 1916年、「ジョーンズ法(フィリピン自治法)」を可決し、将来の独立が宣言された。

 1934年、フランクリン・ルーズベルト大統領の下で、「タイディングス・マクダフィー法(フィリピン独立法)」可決により、10年後(1944年)の独立を承認した。

 1935年9月、ケソン大統領の米自治領政府(独立準備政府)フィリピン・コモンウェルスが成立した。

 1938年2月、ケソン大統領は日本に対して「フィリピンの中立化」を布告した。

 フィリピンは米国から「独立」の確約を手に入れたのである。

 ところが、ここでハプニングが起こった。1941年12月8日に日本が米英に「宣戦布告」をし太平洋戦争を引き起こしたのである。1942年1月2日には日本軍はフィリピン・マニラを占領した。米軍は撤退し、ケソン大統領のコモンウェルスも米国へ亡命した。

日本軍政の実態について

一、1942年1月13日、日本軍は「死刑及び重刑」にあたる17の行為を発表した。①日本軍に対して反抗する者、②日本軍の重要秘密を流すもの、③スパイ行為をする者、④日本軍が使用している家・自動車等を破壊する者、⑤橋・道路・電信電話の装置を壊す者、⑥日本軍の命令に従わない者、⑦飲み水を毒又はその他の方法で汚す者、などである。

二、日本軍の残忍性。強姦された女性が逆立ちにさせられ、性器を銃剣で突き刺されて殺されたり、家族のいる前で犯される事もあった。日本軍にお辞儀をしなかったという理由で殺された。

三、1942年8月、「隣組」を設立。スパイ防止、抗日ゲリラ防止が本来の目的であったが、表向きは「平和と秩序を保ち、人々の生活を安定させる」事が目的とされた。

四、「ロロ」(スパイ・反日ゲリラに対する見せしめ)行為。それは「日本軍が村人を広場に集め(理由は知らせない)、顔や姿がわからないように(眼の部分だけを開けた)大きな袋をかぶせられた一人の男を連れてくる。その男は何人かの村人を指さす。指さされた村人は何日か後にいなくなった。殺されたのである。証拠もなく。

五、1942年2月17日、陸軍司令官が「教育に関する6項目」を発布。①大東亜共栄圏の一員としてのフィリピンの立場、「新秩序」建設の真の意味を理解させ日比友好関係を発展させる事、②米国、英国へ依存するという古い考えを一掃し、「新フィリピン文化」を育成する事、③民衆の道義を高め、物質主義を止める事、④日本語の普及につとめ英語使用をやめる事、⑤初等教育を重視し、職業教育を発展させる事、⑥労働を愛する精神を起こさせる事。そして、「君が代」を教えた

六、1942年2月26日、「教科書検定委員会」が作られ、「教育に関する6項目」に当てはまると思われる部分は「削除」した。例えば、「フィリピン、アメリカの旗」「フィリピンのコモンウェルス政府」「ワシントンの誕生日」「アメリカの通貨、度量衡」など。公立小学校では正しい英語ⅢⅣ」「必須英語5年、6年」「フィリピンの歴史」などの教科書の使用禁止

七、1942年9月1日、15週間の「先生訓練コース」を作ったが、その内容は「6項目に関する教育について」「体育」「フィリピンと日本の歌」「日本語」「日本歴史」などであった。

八、1942年11月、「日本語専門学校」を開設。このような日本軍の開校した「学校カリキュラム」には必ず「ラジオ体操」を入れた。その意図は、参加する事により「責任と協同の精神を養う」事であった。

このような日本軍政下で、「食糧不足」に見舞われ、「失業者が増大」した。このような状況が、「反日抗日ゲリラ」を生んだ。

  

 1943年10月14日には、日本は、「大東亜共栄圏」への参加と対米戦争への参戦を条件に、「ラウレル」を大統領として日本の傀儡である「フィリピン第2共和国」を成立させた。しかし、日本の思うような支配ができないだけでなく、「抗日ゲリラ」活動が益々盛んとになった。

 1944年10月20日には米軍が「コモンウェルス」とともにレイテ島に上陸し、45年2月から1か月間の「マニラ市街戦」をへて米軍は日本軍を制圧した。

マニラ市街戦(1945年2月3日~3月3日)などについて、天皇は「貴国の国内において日米両国間の熾烈な戦闘が行われ、この事により貴国の多くの人が命を失い、傷ついた。この事は、私ども日本人が決して忘れてはならない事であり、私どもはこの事を深く心に置き……」と述べているが、市街戦となった原因は「日本大本営」がフィリピン日本軍に「市街戦を命令」した事にあり、日本の最高戦争指導者の意識にこそ重大な問題があったのであり責任を問われるべきものであった事を国民は知っておかなければならない。国民の16人に1人、111万人が死亡したフィリピンでは毎年2月14日に追悼式が行われている。

 そして、「私ども日本人が決して忘れてはならない事」と「国民全員」を意味する表現で述べているが、これこそ国民は「不快感」を明確に表明すべきであると思う。なぜなら、加害者であり許しを請わなければならない戦争加害最高責任者(その子孫であればそれを継承する事は当然である)である「天皇」が、相手国に対して「加害者」(それは加害行為を強要される被害者といえる)となる事を「強制」した、又「加害行為」を「強制」(それに反対した国民を「非国民」として扱い「治安維持法」によって「刑罰を科し、今日なお名誉回復をも認めていない)した「国民」に対して、口にできるはずがない「傲慢さ」を表す「言葉」であるからである。このような「言葉」からは、「天皇」は「国民」に対して「罪の意識」「謝罪の意識」はまったく感じられないし、「加害」の責任を「国民」に負わせようとする意識さえ感じられる。これは敗戦直後の東久邇宮内閣が発した「一億総ざんげ」論の考え方につながるものであり同根のものと考えてよい。なんと、日本政府は間違いなく敗戦前の「神聖天皇主権大日本帝国政府」へ回帰している。なんと恐ろしい時代日本になってきた事であろう。なんと恐ろしい「天皇・安倍政権」であろう。彼らの常識は世界の非常識である。彼らは民主主義を大切に思う国民と同じ「土俵」には立っていない。彼らはその事にうろめたさも感じていない。国民が「欺瞞」と判断しても彼らは自分たちが正しいと信じているのであり、一つの宗教信仰の域に入っている。それは天皇教(国家神道)である。安倍晋三が天皇家と親戚関係にある事からも納得できる。説得して彼らが翻意するというようなものではない世界に住んでいるのである。国民はそのような政権の持続を許しておくならば「人権尊重を基にした幸せ」を守る事はできない。

 メディア、故意に以上の内容に触れない事も主権者国民は忘れてはならない。メディアは企業であり、経営上利益を損なう事はあえてしないという事も忘れてはならない。国民は思考停止に陥らず、常に科学的な思考を保ち、絶え間ない努力によって真実を知る事が大切である。

 メディアは、昨年11月、「加納莞蕾美術館」の名誉館長をしている加納莞蕾の娘佳世子氏が、昨年11月にフィリピン元大統領キリノ氏の孫娘ルビー氏と面会したと報じていた。今回、天皇はフィリピン訪問に際して、ルビー氏と面会したようである。何かを知る何かに関わるという事はその事に対して自己の責任が生じると考えるのが常識である。加納莞蕾は自分の言葉に基づいてどのように責任を果たしたのだろうか。佳世子氏は父親の言葉に対してどのように責任を果たしてきたであろうか。今日の安倍政権下の日本に対してどのように責任を果たしているのであろうか。その責任が果たせていなければ、莞蕾氏の言葉は「欺瞞」でしかなかったという事になり、佳世子氏もメディアに出てきた事は「欺瞞」の上塗りであり、メディアは加納氏やその娘佳世子氏を美談に仕立て上げたという「欺瞞」を行った事になる。天皇も今後どのようにその責任を果たすのかという事が問われる事になったのであり、それから逃れる事は出来なくなったのである。そうでなければ、キリノ氏ルビー氏フィリピンの人々は日本の政府やメディアなど国家挙げての「詐欺」にひっかかった事になり、改めて恨みを持つ事になるだろう。

加納莞蕾の言葉「許されざる者を許す事が日本人が過去を反省し、懺悔し、軍国主義を拒否する事になる」と訴え、BC級戦犯の助命減刑嘆願書をキリノ氏に送った。

※フィリピン国民の反対を押し切って助命減刑を決断したキリノ氏の日比両国民への声明「私は日本人戦犯に対し、特赦(議会の承認を必要とする「大赦」でなく、大統領権限で行える「特赦」にした)を与えた。妻と3人の子ども(2歳の娘は銃剣でとどめを刺された)、さらに5人の親族を殺された者として、自分の子孫や国民たちに、われわれの友となり、我が国に長く恩恵をもたらすであろう日本人に対し、憎悪の念を残さないために。結局のところ、日本とフィリピンは隣国となる運命なのだ」(1953年7月6日)。 

 これまでの日本政府又現在の安倍政府は、被害者の心を察する気持ちが極めて薄い。それは自分たちは正しいという「傲慢さ」にある。それを押し通すために「欺瞞的な手法」がとられる。それは対外国に対しても、日本の国民に対しても一貫している。そのために政府間の友好関係が築けないし、国民の権利を尊重しないという姿勢をとる。その根底にはアジア・太平洋戦争に関わる一切の事柄について、「自衛のための戦争」「アジアの解放のための戦争」「仕掛けられた戦争」であったとする認識を疑わず固執しているからである。彼らは天皇家と一体化しており、天皇家とともにあるから、自らの地位と名誉と財産を守るためにも、天皇家に戦争責任が及ばないようにしなければならず、「天皇制」を守り続けなければならない宿命にあるのである。

最後に、今回の天皇のフィリピン訪問は、安倍政権がすすめる「集団安全保障体制の整備」政策の一環として実施されたのである。

 1945年、日本の敗戦により、翌年の「米比マニラ条約」で、「フィリピン・コモンウェルス」の組織を引き継ぎ、1934年の独立の約束により「フィリピン第3共和国」(1946年7月4日)が成立し独立を達成した。

(2016年1月29日投稿)

追記助命減刑嘆願署名運動日本人戦犯家族が全国的に繰り広げ、新聞やメディアも取り上げ、日比親善人形使節が7万体の人形をキリノ大統領に贈届した。それに対し、キリノ大統領は「死刑執行は慎重に検討するが、一括減刑は考えていない。一括減刑は侵略行為を大目に見る事に等しい」と方針を発表した。しかしその後、大統領は、フィリピン国民の中に敵を作る事になったが、「日本は大きな可能性を秘めている。わが国はまだ成長の途中にある。2つの国は地理的に近く、切り離せるものではない。協力し合う事で我が国の力になるだろう。いつの日かまた親友に戻れる日がくるだろう」と考え、1953年6月27日大統領は「議会の承認を必要とする大赦でなく、大統領権限で行える特赦を与える事にした。終身・有期刑戦犯全員釈放死刑囚は終身刑に減刑のうえ日本に送還し、日本の刑務所で服役させる」と決断した。そして、同年7月6日に日比両国民に上記のような声明を発表した。

同年7月22日、108人の戦犯は全員帰国(横浜港)した。うち死刑囚56人は「巣鴨プリズン」へ移送された。

これに対しキリノ大統領は国民から「軽率な釈放で戦犯を無意味に帰国させた」と非難された。そして、同年11月10日の大統領選挙では対決候補であるマグサイサイに大敗した。しかし、キリノ大統領は任期切れ2日前の同年12月28日に日本で服役中の元死刑囚全員にさらに「恩赦令」を出した。同年12月30日、戦犯元死刑囚は全員釈放された。1956年2月29日、キリノ元大統領は65歳で死去した。

(2023年8月13日投稿)

 

 

 

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