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「希望は戦争」 赤木智弘氏の主張      ネット虫

2007年08月20日 22時00分42秒 | Weblog
 三十一歳フリーターの赤木智弘氏の戦争待望論がネット上の議論を沸騰させ多くの若者の支持を得た。これを受けて朝日新聞の「論座」でもその主張は取り上げられ、先日のNHKの討論番組にも登場し注目されている。
 ネットサーフィンの結果「論座」での彼の主張を捕まえる事が出来たので、紹介したい。

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『「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。』

 平和とはいったい、なんなのだろう?
 最近、そんなことを考えることが多くなった。
 夜勤明けの日曜日の朝、家に帰って寝る前に近所のショッピングセンターに出かけると、私と同年代とおぼしきお父さんが、妻と子どもを連れて、仲良さそうにショッピングを楽しんでいる。男も30歳を過ぎると、怒濤の結婚ラッシュが始まるようで、かつての友人たちも次々に結婚を決めている。
 一方、私はといえば、結婚どころか親元に寄生して、自分一人の身ですら養えない状況を、かれこれ十数年も余儀なくされている。31歳の私にとって、自分がフリーターであるという現状は、耐えがたい屈辱である。ニュースを見ると「フリーターがGDPを押し下げている」などと直接的な批判を向けられることがある。「子どもの安全・安心のために街頭にカメラを設置して不審者を監視する」とアナウンサーが読み上げるのを聞いて、「ああ、不審者ってのは、平日の昼間に外をうろついている、俺みたいなオッサンのことか」と打ちのめされることもある。
 しかし、世間は平和だ。
 北朝鮮の核の脅威程度のことはあっても、ほとんどの人は「明日、核戦争が始まるかもしれない」などとは考えていないし、会社員のほとんどが「明日、リストラされるかもしれない」とおびえているわけでもない。平和という言葉の意味は「穏やかで変わりがないこと」、すなわち「今現在の生活がまったく変わらずに続いていくこと」だそうで、多くの人が今日と明日で何ひとつ変わらない生活を続けられれば、それは「平和な社会」ということになる。
 ならば、私から見た「平和な社会」というのはロクなものじゃない。
 夜遅くにバイト先に行って、それから8時間ロクな休憩もとらずに働いて、明け方に家に帰ってきて、テレビをつけて酒を飲みながらネットサーフィンして、昼頃に寝て、夕方頃目覚めて、テレビを見て、またバイト先に行く。この繰り返し。
 月給は10万円強。北関東の実家で暮らしているので生活はなんとかなる。だが、本当は実家などで暮らしたくない。両親とはソリが合わないし、車がないとまともに生活できないような土地柄も嫌いだ。ここにいると、まるで軟禁されているような気分になってくる。できるなら東京の安いアパートでも借りて一人暮らしをしたい。しかし、今の経済状況ではかなわない。30代の男が、自分の生活する場所すら自分で決められない。しかも、この情けない状況すらいつまで続くか分からない。年老いた父親が働けなくなれば、生活の保障はないのだ。
 「就職して働けばいいではないか」と、世間は言うが、その足がかりはいったいどこにあるのか。大学を卒業したらそのまま正社員になることが「真っ当な人の道」であるかのように言われる現代社会では、まともな就職先は新卒のエントリーシートしか受け付けてくれない。ハローワークの求人は派遣の工員や、使い捨ての営業職など、安定した職業とはほど遠いものばかりだ。安倍政権は「再チャレンジ」などと言うが、我々が欲しいのは安定した職であって、チャレンジなどというギャンブルの機会ではない。
 そして何よりもキツイのは、そうした私たちの苦境を、世間がまったく理解してくれないことだ。「仕事が大変だ」という愚痴にはあっさりと首を縦に振る世間が、「マトモな仕事につけなくて大変だ」という愚痴には「それは努力が足りないからだ」と嘲笑を浴びせる。何をしていいか分からないのに、何かをしなければならないというプレッシャーばかり与えられるが、もがいたからといって事態が好転する可能性は低い。そんな状況で希望を持って生きられる人間などいない。
 バブル崩壊以降に社会に出ざるを得なかった私たち世代(以下、ポストバブル世代)の多くは、これからも屈辱を味わいながら生きていくことになるだろう。一方、経済成長著しい時代に生きた世代(以下、経済成長世代)の多くは、我々にバブルの後始末を押しつけ、これからもぬくぬくと生きていくのだろう。なるほど、これが「平和な社会」か、と嫌みのひとつも言いたくなってくる。

「NHKスペシャル「ワーキングプア」が見過ごしたもの」

 2006年7月に放送された、NHKスペシャル「ワーキングプア 働いても働いても豊かになれない」を見ながら、私はなんとなく違和感を覚えていた。番組では、働いてもそれに見合った給料が得られず、生活もままならない人たちが、ワーキングプアとして並列的に紹介されていた。地方から東京に出てきて仕事を探すが、派遣でさまざまな土地をたらい回しにされたうえに、ホームレスとなってしまった30代の若者。会社をリストラされ、一家を養うためにバイトをいくつもかけ持ちしている元サラリーマン。イチゴの栽培が赤字で、家族全員の収入を合算してなんとか生活する農家。そして、一時は人を雇うほどの町一番の仕立屋だったが、今では小さな直しの仕事しかなくなってしまった職人。年金は妻の入院費に消え、生活保護を受けようにも、「妻の葬儀代に」と手をつけないでいる100万円の貯金の存在が、生活保護を受給するにあたっての障害になっているという。
 一生懸命まじめに働いても、生活が成り立たない社会が正しい状態ではないことは明らかだ。普通の人が普通に働けば、普通に生活できる社会を構築するべきだ。などと、ごく当たり前でなんの面白みもない感想を頭の中で反芻していると、頭のなかにモヤモヤッとしたものがわき上がってきて、どうも釈然としない。このワーキングプアというくくり方は何かがおかしい――その違和感を突き詰めていくと、番組では「元サラリーマン」「イチゴ農家」「仕立屋」といった経済成長世代と、「ホームレスになってしまった30代の若者」「フリーターである私」というポストバブル世代の間にある大きな差違を、見過ごしてしまっていることに気づく。
 前者が家庭を手に入れ、社会的にも自立し、人間としての尊厳をかつて十分に得たことのある人たちである一方、後者は社会人になった時点ですでにバブルが崩壊していて、最初から何も得ることができなかった人たちである。前者には少なくともチャンスはあった。後者は社会に出た時点ですでに労働市場は狭き門になっており、チャンスそのものがなかった。それを同列に弱者であるとする見方には、私はどうも納得がいかない。
 特に、仕立職人が、妻の葬儀のために手をつけずにいる貯金のために、生活保護を得られないことについて、識者が「妻の葬儀の費用を自力でまかないたいというのは人間の尊厳であり、それを捨てないと生活保護を得られないことに問題がある」と述べていたことが気にかかる。それが尊厳だというのなら、結婚して家庭を持つことや100万円の貯金など夢のまた夢でしかない我々フリーターの尊厳は、いったいどこに消えてしまったのか。
 格差問題の是正を主張する人たちは、高齢者が家族を養えるだけの豊かな生活水準を要求する一方で、我々若者向けには、せいぜい行政による職業訓練ぐらいしか要求しない。弱者であるはずなのに、彼らが目標とする救済レベルには大きな格差が存在するように思える。
 どうしてこのような不平等が許容されるのか。それはワーキングプアの論理が「平和な社会の実現」に根ざす考え方だからだと、私は考える。平和な安定した社会を達成するためには、その人の生活レベルを維持することが最大目的となる。だから同じ弱者であっても、これまでにより多く消費してきた高齢者には、豊かな生活を保障し、少ない消費しかしてこなかった若者は貧困でも構わないという考え方に至ってしまうのではないか。
 不況直後、「ワークシェアリング」などという言葉はあったが、いまだにそれが達成される兆しがないのは、誰も仕事を若者に譲らないし、譲らせようともしないからだ。若者に仕事を譲ろうとすれば、誰かの生活レベルを下げなければならないのだが、それは非常な困難を伴う。持ち家で仲良く暮らしている家族に、「家を売ってください。離婚してください」とは言えないだろう。一方で最初からシングルでアパート暮らしの若者に、結婚して家を買えるだけの賃金を与えないことは非常に簡単だし、良心もさほど痛まない。だから社会は、それを許容する。
                                 つづく

 朝日新聞「論座」2007年一月号    赤木智弘
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テロ特措法、本日の毎日新聞記事  文科系

2007年08月20日 11時29分36秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
テロ特措法について本日付け毎日新聞に二つの記事があったので、紹介する。二つとも論説委員の個人名記事であるうえに、主たる内容も同類であり、テロ特措法への毎日新聞の考え方がよく分かると考える。

一つは、2面連載の「発信箱」という囲み記事だ。毎回論説委員が個人名で書くのだが、今日の見出しは「『政局絡み』は悪か」である。その主論調はこういうものだ。「テロ特措法を政局に絡めるな(政権争いの党利党略に使うな)」という「一部新聞」の「言説」に反対と。そこにこんな文章が入り込んでいる。
「私は今、個人的には『条件は多々あるが延長もやむを得ないかなあ』という立場だ」
「無論、小沢氏は延長せずとも国益は損なわれないことをきちんと説明すべきだ」
「延長もやむを得ないかなあ」の理由も「国益」の実態も例によって説明はない。それが気になった。

二つ目は、5面の社説で、見出しもズバリ「『テロとの戦争』の全体的な見直しを」。これも一論説委員の記名記事である。概要はこうだ。
9・11時にワシントン駐在だった筆者にとっては、その後10月7日のアフガン攻撃に至るまでの経過は、個別的自衛権の発動とはいえ、納得できるものだ。アメリカが、国連などへの根回し、説得、安保理諸決議などの合意を、努力して、得たことだし。だからといって、半ば本能的な「延長」派、「親米DNA」派が、日本を正しい方向に導くとは限らない。その後アメリカは対テロ戦争第2幕、イラク戦争へと進んで、世界の足並みを乱した。イラクに足を取られてアフガンを混乱させたとすれば、アフガンへの各国の支援も生きないはずだ。考える時間は十分にあるから、「国益とは何か」をじっくり腰を据えて考えようではないか。

さてこの場合の国益とは何かを解説してくれる記事を僕は求める。一部石油業者の利益や、対米輸出業者の利己的な一部の利益や、献金が多い一部の利益や、献金を組織する経団連の利益だけなどなどに着目する者は「国益」をぼかしたままで国民を動員したいだろうからだ。次の選挙で自民党が負けたら大損をするという連中もさぞかし必死だろうから、利己的利益を「国益」と語り回るだろう。防衛省、外務省、文部科学省、道路公団などなどの語る言葉は特に要注意ではないか。
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