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舛添要一氏とは             ネット虫

2007年08月31日 12時47分09秒 | Weblog
 安倍さんもこの組閣に失敗したら「ハイそれまでよ。」という訳で一ヶ月必死で考えたのが27日の内閣改造。最近の世論調査では30%台に持ち直したそうであるが
その理由の一つに、年金問題をかかえる厚生労働大臣に安倍氏を最も批判した「舛添要一氏」を取り込んだことが大きく影響している。
 前言をあっさりとヒルガエシ大臣席に尻尾をふって走っていった舛添氏にはこちらの顔も赤くなるほどでが、今のところは安倍総理の救世主。
 どんな男か見てみよう

『ウイキペディアより』
   舛添要一   (ますぞえ よういち、1948年11月29日生 )

日本の政治家、国際政治学者、タレント。参議院議員(2期)。自由民主党参議院政策審議会長、厚生労働大臣。株式会社舛添政治経済研究所所長。

[編集] 概要
福岡県八幡市(現北九州市八幡東区)生まれ。福岡県立八幡高等学校を経て、東京大学入学。1971年、東京大学法学部政治学科卒業後、ヨーロッパ政治史を専攻の助手として研究室に入る。その後はヨーロッパに留学し、パリ大学現代国際関係史研究所客員研究員、ジュネーブ高等国際政治研究所客員研究員などを経て東京大学教養学部助教授。フランスの政治・外交を専門とし、国際関係論などを講じていた。1980年代末から『朝まで生テレビ!』などの討論番組に頻繁に出演し、テレビ映えする討論スタイルで脚光を浴びる。テレビ出演に引っ張りだこだった1989年6月に東京大学を退職しフリーに。1990年代にかけては東欧民主化や湾岸戦争で国際政治が注目され、また国内ではリクルート事件、消費税導入などを経て自民党体制が揺らぎ、やがて政界再編に突入、オウム真理教事件や少年犯罪など社会を揺るがす事件も増える中で、舛添に代表される新鋭の学者・評論家はテレビで大いに活躍、「文化人」と呼ばれる知的タレントとしてお茶の間の人気を博した。

政治とのかかわりでは、1991年、北海道知事選挙に、自由民主党から擁立されて立候補を検討。しかし、それまで北海道には何のゆかりもなく、知名度で担がれたため、出馬表明前の事前調査で現職候補・横路孝弘との圧倒的な差を見て、出馬を辞退した。その後も度々政界進出が噂されたが、後述の介護体験も一つのきっかけとなり、1999年4月には東京都知事選挙に無所属で出馬。石原慎太郎の圧勝の前に3位で落選したが84万票を獲得した。2001年7月、第19回参院選に比例代表区から立候補(自由民主党)し、1,588,862票を獲得しトップ当選。

2005年、自民党が結党50年に発表した憲法草案においては、党新憲法起草委員会の事務局次長として草案作成の取りまとめに大きな役割を果たした。そのことも評価され、2006年10月、安倍政権発足に伴い当選1回ながら自民党参議院政策審議会長に就任した。また、小泉政権末期で論議となった皇室典範改正論議では女系天皇容認の立場である。

高い知名度から議員となってからもテレビ出演の機会は多く、政府や党のスポークスマン的な役割も果たしている。2007年4月より、朝日ニュースター『政治学原論』のキャスターとして週1回ゲストと討論している。

2007年7月29日の第21回参院選では、再選を目指し自民党公認で比例代表区より立候補、与党への逆風の中で票を減らしたが、467,735票を獲得して自民党トップで当選した。選挙前後を通じて安倍内閣の閣僚や総理の政権運営を厳しく批判してきたが、2007年8月27日の安倍改造内閣において年金問題を始めとする多くの問題を抱える厚生労働大臣に任命される。記者会見では「年金支給漏れ問題」の解決に意欲を見せる。

[編集] 人物・エピソード
2000年に実母が亡くなるまでの数年間は、介護のため週末は北九州で過ごすことが多く、仕事の重点も関西にシフトさせていた。晩年認知症であったこの母の介護体験記「痴呆症の母を守って家庭崩壊」を『婦人公論』に連載(『母に襁褓をあてるとき――介護・闘いの日々』として後に中央公論社より刊行)。母の介護を巡る困難や親族との軋轢などを赤裸々に描き、大きな反響を呼んだ。この体験以来、福祉や介護問題を始めとした厚生行政への働きかけや問題提起を活発に行っており、自ら政治の世界に足を踏み入れるきっかけの一つともなった。

以上のような体験を持つため、麻生太郎外相の「アルツハイマー発言」には激怒。「バカと一緒になりたくない」と街頭演説の時間をずらすなど、党執行部にいながらも自由な発言をした。後に、「久間さんの失言問題と同じように辞めろと言うつもりだった。謝ったからいいけど」と、怒りが収まらないまでも、これ以上問題を引きずらないことを明らかにした。

『朝まで生テレビ!』には草創期からの常連出演者で、番組20年目を迎えた2006年春までの229回の放送中95回に出演。これは大島渚(87回)、高野孟(66回)、西部邁(53回)などを凌いでトップである。

英語、フランス語に堪能で訳書も多い。その他のヨーロッパ諸言語にも通じ、『舛添要一の6カ国語勉強法』という本を出版した。
留学先のフランスで始めた柔道は講道館二段である。
片山さつきは元妻。現在の妻とは3度目の結婚である。

週刊文春「デーブ・スペクターのTOKYO裁判」で、中国天安門事件に関し舛添は「いや共産主義じゃなくとも、100万人ぐらい殺せる大政治家じゃないとどこの国でもダメだってこと」「僕は宇野さんに何十人愛人がいてもいいと思う。企業から何億円お金もらったっていいと思う。大事なのは彼がどういう政策を実行するかという点です。へソの下はどんなにダーティでもいい」「土井たか子みたいに男に恵まれないような女性に限って、男の浮気を批判するんだ。金丸信がいったように、男も知らない女が党首になっちゃ、社会党もダメだね。人類の半分を知らない奴に政治はできない」「政治家にはものすごいエネルギーが要求されるの。日本国民1億2000万人を救うためなら、軍隊を出動させることだってある。自分の嫁さん以外の女の1人や2人抱くぐらいのエネルギーがないような奴に日本の政治は任せられないよ」と発言し、物議を醸した。

フジテレビ系「たけし・逸見の平成教育委員会」に準レギュラー出席。司会進行役の北野武には「軍鶏みたいな顔」と見立てられた。当然とも言えるだろうが、最も正解率が高かった教科は、社会であった。
2回目の東京都知事選出馬を睨んでいた2000年、札幌テレビ制作の「号外!!爆笑大問題」で、同年12月に開通予定の都営地下鉄12号線の国立競技場駅開業を機に、都交通局が正式名称を公募した事を番組で扱った際に、舛添がゲスト出演。舛添は「都庁から出て都庁に戻るから『都庁線』がいい」と発言。
2000年問題のとき、あまりにも大げさに騒ぎすぎたこともあった。ホテルの缶詰などを用意していたが、想定された騒動は起こらなかった。
2000年には、映画『ちんちろまい』にほんの数秒ではあるが武田鉄矢演じる主人公に鞄を渡す男として出演した。

政界入り以前は競走馬も保有していた。サプライズパワー(東京ダービー、かしわ記念、日本テレビ盃の勝馬)の馬主であり、サプライズパワーとアトミックサンダーで2年連続東京ダービーを制している。

1992年に舛添自らが登場するファミコンゲーム「舛添要一 朝までファミコン」(ココナッツジャパンエンターテインメント)を出したことがある。
ファイティング・ナイフやハンティング・ナイフのコレクターで、東京でサミットが開かれて厳戒体制がしかれているさなか、日産テラノの荷台に何本かのナイフと1本の木刀を載せて都内を走っていて逮捕されそうになった。

1996年3月放送の朝まで生テレビ!(テーマ:ホンネ激論!日韓共生の道はあるか!?)において、2002年のワールドカップ誘致合戦に話題が及ぶと「私に言わせればサッカーなんてたかが球ケリですよ! たかが球ケリの為に日韓関係が壊れてはいけない。ぜひ次のワールドカップは韓国で開催して頂きたい。それで日韓関係が良くなるのならそのほうがいい。」と発言。韓国側のパネリストから拍手を受けた。
ビートたけしのTVタックルにおいては、大竹まことや田嶋陽子が天敵であり、ライバルとなっている。本人は政治的主張で大竹に反論しても、大竹からは外見的特長で反論されることが多い(例:「いや、僕はハゲてないから」、「いや、僕はハゲは嫌いだからな」など)。こうやって返される本人は「もうイヤだ(笑)」といって呆れ返ることが多い。過去に「歯槽膿漏を防ぐために徹底的に歯をケアしている」と披露したとき、「あんたは歯よりも頭をなんとかしないさいよ」と大竹まことから言われた。

郵政造反組復党問題では復党に賛成で、「小泉という血も涙もない男が勝手にやったこと」とする立場だったが、世論の反発が高まると、一転して反対に転じた。落選していた衛藤晟一の復党・参院選出馬が持ち上がった際は「百害あって一利なし」などと発言している。衛藤復党に反対する理由として、舛添は「公明党との選挙協力に支障が出るため」と述べている。しかし過去において、自身が1999年の東京都知事選挙に無所属で出馬した際、対立候補の一人である明石康(元国連事務次長が公明党との選挙協力を円滑にする意図のあった自民党に擁立された候補であることに激しく反対していた。

尊敬する政治家は野中広務と青木幹雄である。また党の部会への出席率は高く、野中からは「自民党議員は舛添さんを見習うべき」と評された。現実に野中らは2003年の自民党総裁選の際、反小泉の統一候補として舛添擁立を真剣に考えていたとされる。反小泉候補としては他に平沼赳夫擁立構想が一時取り沙汰されていた、野中と平沼が政治的信念を180度異にすることや派閥の領袖だった亀井静香が難色を示したため、実現に至らず、舛添の名が浮上したとされる。野中は最終的には舛添擁立を断念し、藤井孝男を擁立した。

憲法改正に積極的な考えを持ち、第21条の項目に、青少年に有害な情報を法律で規制する事を憲法に明記させ、青少年健全育成基本法の成立・児童ポルノ法の改正を目指そうとしている規制推進派のシンパである。
コメント (11)
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「麻生太郎氏の中国観」         麻生ウオッチャー

2007年08月31日 11時41分08秒 | Weblog
『総 理 訪 中』    2006年12月 麻生太郎HPより

自民党の総裁選挙も終わり、国会における首班指名の結果、安倍内閣が発足したのが9月26日。それから2週間も経たない10月8日、安倍総理の訪中が行われました。前々から中国外交部と交渉を重ねてきていた外務省としては、成果は大きかったと思っています。  
思い返せば小泉総理誕生の2001年からずっと、中国政府は「中国人民の感情がひどく傷つけられる」ことを理由に、総理の靖国参拝を批判し続けてきました。従って、中国政府が最も抵抗感がある8月15日という日に、小泉総理がモーニング姿で昇殿参拝を行ったことは中国政府に対して最も挑発的な態度であり、当然怒り心頭に発する行為として、今までよりも強い反応を示さないと辻褄が合わないことになると思いますが、皆さんもそうは思われませんか。  
しかし、今回の中国政府の反応は、えらく抑制的なものでした。つまり「面子」とか「感情」よりは、日本との関係改善を図りたいという様子だと見受けられます。  
日本のマスコミや野党からは、この5年間の小泉外交の失敗とか、東アジア外交の失策とか、アメリカに偏向している日本外交の結果などと、よく批判されてきました。 しかし私は中国の対日外交上の誤算による部分が大きかったと思っています。そもそも日中関係が悪くなった最大の原因は、中国政府が本来は宗教問題であり、日本の国内問題であるはずの靖国参拝を日中間の最大の外交問題と位置づけ、この解決を日中関係正常化の大前提にしたのが始まりです。小泉総理が靖国参拝をやめない限り「小泉政権を相手にせず」との方針を取り続けてきたのが中国政府でした。  
この間、日本国内でも中国の態度に呼応して「『政冷経熱』が経済も『涼』とか『冷』になり、日本経済は大打撃を受ける」といった話が財界やマスコミで随分と出ました。しかしこれに比べ、国民は今では経済的な損得より、国家の品格、国の名誉を守ることに関心を持ちつつあるのではないかと思います。「中国にぺこぺこして得することはない、むしろ損する」と感じる国民が多くなったと私は分析していますが、いかがでしょうか。  
私はこの感覚の大変化の背景に日本経済の底力があると思います。あれほどの資産デフレによる大不況に襲われながら、日本経済全体は500兆円の国内総生産を維持し続けました。もちろんリストラや貸しはがしでエライ目にあった人もいます。しかし日本経済は底割れすることなく、世界第2位の経済力を維持し、中国との外交関係が少々オカシクなっても、経済的に決定的な悪い影響は出ないという確信を多くの国民が持ったと思います。  
昨年10月私は外務大臣になりましたが、今年に入ってからの中国政府の対日外交の変わりようは、実に興味深いものがあると思っています。一番明らかなのは今年3月14日の第10期全国人民代表大会後の温家宝首相の記者会見でしょう。中国政府の従来の話を繰り返しながら、靖国問題の解決とは関係なく「政府間の戦略対話の継続」を含め、日中間の包括的な改善策を提案したんです。私はこれを見て長らく途絶えていた日中外相会談を提案しましたが中国外交部もこれに応じ、カタールのドーハにおいて実現しました。  
ご存じかと思いますが2005年の対中投資は日本以外の国からはマイナス0.5%で、日本だけがプラス約20%になっています。しかし2006年に入るや日本の対中投資は激減して、上半期(4月から9月)でマイナス31.4%となりました。明らかに「経涼」が「経冷」になったと中国も感じたと思われます。
しかし、この間の「靖国参拝」に対する態度は、小泉・安倍両総理とも変化していません。つまり、彼らのいう「靖国問題」は何ひとつ解決されないままです。日本の親中派といわれる国会議員も、総裁選をご覧になればお分かりのとおりで、また、国民はNHKの番組の調査で63%が靖国参拝を支持しました。
幸い、安倍総理の訪中が成果を挙げ、中国の対日政策は反日から親日に向きつつあります。
要は、「日中共益」であって、「日中友好」はその手段と認識して、外交を見ていただければと存じます。情緒的なアプローチや対応は、時として国益を大きく損ないますので。

※ ウオッチャー寸評

 長々と述べてはいるが、麻生氏の中国観は最後の二行に尽きる。       『要は「日中共益」であって、「日中友好」はその手段・・・」
 と言う所にある。麻生氏の危険性は中国と日本の関係を「経済的得失」のみに矮小化しているところだ。
 この考えを推し進めていけば、再び覇権を争うのみの恐ろしい結果となるだろう。
 分かり易さという裏に隠された粗野で無知な彼の論理は要注意である。
コメント (1)
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