まず、彼のジャパン代表登場がどれだけ衝撃的であったかから、始める。
97年、フランスワールドカップ・アジア予選途中で絶望的な苦戦続きから加茂・代表監督解任という窮地が訪れていた。前回の「ドーハの悲劇」を経て、「今回こそは、WC日本初出場!」という国民の期待が崩れかけていた瞬間である。この瞬間に、突如出現した新米の二十歳。チーム危機の中から、実力でレギュラーをもぎ取り、あまたの先輩たちが即座に「チームの司令塔」と自然に認めて、その後数ゲームで日本初出場という結果を出して見せた「日本の救世主」。日本を騒がせたのも当然のことだろう。この20歳の出現がなければ、フランスで、ワールドカップ日本初出場という歴史自身がなかったはずなのだから。クライマックスとして上げられるのが「ジョホールバルの奇跡」、対イラン第3代表決定戦である。得点したのは中山、城、岡野。この3人への最終パス(アシスト)は全て中田が出したものだった。
さて、この彼、その後も日韓、ドイツと三回のワールドカップを引っ張り続け、さらに希有のアスリートであることを証明し続けて見せた。これが、中田の20歳から29歳までの出来事なのである。そもそも「3大会連続出場」は他に川口、小野だけだし、「3大会レギュラー出場」ともなればもちろん、中田以外にはいない。こうした結果からだけでも、日本サッカー界の常識を覆した革命児と表現しても、サッカー界の誰一人反対はできないという選手なのである。
さて、サッカー選手としての彼は、そもそもどんな特長をもっていたか。
二十歳の彼のパスは、「『追いつけ!』という不親切この上ないもの」と評論家たちの総スカンを食った。が今やもう、彼のパススピードしか世界には通用しないとは、周知の事実である。
「フィールドを鳥瞰していることを示すようなあの広い視野はどうやって身につけたものなのか?」。こちらは、反対者のいない関係者全員が初めから一致した驚きの声だった。どんなプレー中でも背筋を伸ばし首を前後左右へと回してきょろきょろする彼のスタイルは、その後日本の子ども達の間に広がっていったものだ。正確なロングパスは正確な視野からしか生まれないのだから。
「人のいない所へ走り込まないフォワードにはパスをあげないよ」。これも今や、「フォワードは技術以上に、位置取りが全て」という、日本でも常識となった知恵だ。これについては日本FW陣の大御所、中山雅史のこんな証言がある。
「中田が俺に言うのね。『そんなに敵ディフェンダーをくっつけてちゃ、パスがあげられない。どこでも良いから敵を振り切るように走ってって。そこへパスを出すから。そしたらフリーでシュート打てるでしょう』。俺、思ったね。そんな上手くいくかよ! でもまー、走ってみた。きちんとパスが来たじゃない。フォワードとして『目から鱗』だったよ!」
この出来事が中田20歳の時のことだ。10年上の大先輩によくも言ったり!従ってみた中山もえらい。中山のこの素直さこそ、39歳の今日まで現役を続けられている最大の理由と、僕には思えるほどだ。封建的な日本スポーツ界では、本当に珍しいエピソードなのではないか。
中田はまた、自分個人用のサッカー専用体力トレーニングに二十歳前から毎日欠かさず汗を流し続けている。「走れなければサッカーにはならない」、「外国人には体力負けするなんて、プロとしては言い訳にもならないよ」。自らのプレー実績で示してきたこれらのことの背景こそ、このトレーニングなのである。
さて、これら全ては今でこそ日本でも常識になっているものだ。しかし、中田はこれら全ての「世界水準」を20歳にして、どうやって身につけたのか。「世界から習った」、「例えば16歳で出会ったナイジェリアから」などと彼は述べている。ほとんど世界の相手を観察して得た「知恵」なのである。もの凄い観察力、分析力、練習プログラム構成力、自己規制などなどではないか!この上ない頭脳の持ち主が、観察のチャンスに恵まれたと語りうることだけは、確かだ。
彼はまた、世の全てが媚びを売るがごときマスコミへの反逆者でもある。「嘘ばかり書く」、「下らない質問ばっかり投げてくる」と主張し続け、「こんなものは通さず、自分の大事なことはファンに直接語りたい」と、スポーツマン・ホームページの開拓者にもなったのだった。弱冠21歳、98年のことである。それも、日本語、英語だけでなく、中国語、韓国語版まで備えたサイトである。イタリア語、英語にも通じた国際人というだけではなく、アジアの星にもなっていたということなのだろう。
他方、日本のサッカーマスコミは未だに程度が低い。この劣悪さを象徴的に語るならば、野球の、それも得点やホームランばかりを追いかけているように見えるということだろうか。因みに、野球のようにボールばかりを追いかけるテレビ画面からは、サッカーの神髄は絶対に見えてこないはずだ。
ありがとう、中田英寿。僕をこれほどのサッカー好きにしてくれて。僕の生活にサッカーの喜びを与えてくれて。
97年、フランスワールドカップ・アジア予選途中で絶望的な苦戦続きから加茂・代表監督解任という窮地が訪れていた。前回の「ドーハの悲劇」を経て、「今回こそは、WC日本初出場!」という国民の期待が崩れかけていた瞬間である。この瞬間に、突如出現した新米の二十歳。チーム危機の中から、実力でレギュラーをもぎ取り、あまたの先輩たちが即座に「チームの司令塔」と自然に認めて、その後数ゲームで日本初出場という結果を出して見せた「日本の救世主」。日本を騒がせたのも当然のことだろう。この20歳の出現がなければ、フランスで、ワールドカップ日本初出場という歴史自身がなかったはずなのだから。クライマックスとして上げられるのが「ジョホールバルの奇跡」、対イラン第3代表決定戦である。得点したのは中山、城、岡野。この3人への最終パス(アシスト)は全て中田が出したものだった。
さて、この彼、その後も日韓、ドイツと三回のワールドカップを引っ張り続け、さらに希有のアスリートであることを証明し続けて見せた。これが、中田の20歳から29歳までの出来事なのである。そもそも「3大会連続出場」は他に川口、小野だけだし、「3大会レギュラー出場」ともなればもちろん、中田以外にはいない。こうした結果からだけでも、日本サッカー界の常識を覆した革命児と表現しても、サッカー界の誰一人反対はできないという選手なのである。
さて、サッカー選手としての彼は、そもそもどんな特長をもっていたか。
二十歳の彼のパスは、「『追いつけ!』という不親切この上ないもの」と評論家たちの総スカンを食った。が今やもう、彼のパススピードしか世界には通用しないとは、周知の事実である。
「フィールドを鳥瞰していることを示すようなあの広い視野はどうやって身につけたものなのか?」。こちらは、反対者のいない関係者全員が初めから一致した驚きの声だった。どんなプレー中でも背筋を伸ばし首を前後左右へと回してきょろきょろする彼のスタイルは、その後日本の子ども達の間に広がっていったものだ。正確なロングパスは正確な視野からしか生まれないのだから。
「人のいない所へ走り込まないフォワードにはパスをあげないよ」。これも今や、「フォワードは技術以上に、位置取りが全て」という、日本でも常識となった知恵だ。これについては日本FW陣の大御所、中山雅史のこんな証言がある。
「中田が俺に言うのね。『そんなに敵ディフェンダーをくっつけてちゃ、パスがあげられない。どこでも良いから敵を振り切るように走ってって。そこへパスを出すから。そしたらフリーでシュート打てるでしょう』。俺、思ったね。そんな上手くいくかよ! でもまー、走ってみた。きちんとパスが来たじゃない。フォワードとして『目から鱗』だったよ!」
この出来事が中田20歳の時のことだ。10年上の大先輩によくも言ったり!従ってみた中山もえらい。中山のこの素直さこそ、39歳の今日まで現役を続けられている最大の理由と、僕には思えるほどだ。封建的な日本スポーツ界では、本当に珍しいエピソードなのではないか。
中田はまた、自分個人用のサッカー専用体力トレーニングに二十歳前から毎日欠かさず汗を流し続けている。「走れなければサッカーにはならない」、「外国人には体力負けするなんて、プロとしては言い訳にもならないよ」。自らのプレー実績で示してきたこれらのことの背景こそ、このトレーニングなのである。
さて、これら全ては今でこそ日本でも常識になっているものだ。しかし、中田はこれら全ての「世界水準」を20歳にして、どうやって身につけたのか。「世界から習った」、「例えば16歳で出会ったナイジェリアから」などと彼は述べている。ほとんど世界の相手を観察して得た「知恵」なのである。もの凄い観察力、分析力、練習プログラム構成力、自己規制などなどではないか!この上ない頭脳の持ち主が、観察のチャンスに恵まれたと語りうることだけは、確かだ。
彼はまた、世の全てが媚びを売るがごときマスコミへの反逆者でもある。「嘘ばかり書く」、「下らない質問ばっかり投げてくる」と主張し続け、「こんなものは通さず、自分の大事なことはファンに直接語りたい」と、スポーツマン・ホームページの開拓者にもなったのだった。弱冠21歳、98年のことである。それも、日本語、英語だけでなく、中国語、韓国語版まで備えたサイトである。イタリア語、英語にも通じた国際人というだけではなく、アジアの星にもなっていたということなのだろう。
他方、日本のサッカーマスコミは未だに程度が低い。この劣悪さを象徴的に語るならば、野球の、それも得点やホームランばかりを追いかけているように見えるということだろうか。因みに、野球のようにボールばかりを追いかけるテレビ画面からは、サッカーの神髄は絶対に見えてこないはずだ。
ありがとう、中田英寿。僕をこれほどのサッカー好きにしてくれて。僕の生活にサッカーの喜びを与えてくれて。