九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

いつもの閑話休題・中田英寿のこと 文科系

2006年08月24日 11時21分49秒 | スポーツ
まず、彼のジャパン代表登場がどれだけ衝撃的であったかから、始める。
97年、フランスワールドカップ・アジア予選途中で絶望的な苦戦続きから加茂・代表監督解任という窮地が訪れていた。前回の「ドーハの悲劇」を経て、「今回こそは、WC日本初出場!」という国民の期待が崩れかけていた瞬間である。この瞬間に、突如出現した新米の二十歳。チーム危機の中から、実力でレギュラーをもぎ取り、あまたの先輩たちが即座に「チームの司令塔」と自然に認めて、その後数ゲームで日本初出場という結果を出して見せた「日本の救世主」。日本を騒がせたのも当然のことだろう。この20歳の出現がなければ、フランスで、ワールドカップ日本初出場という歴史自身がなかったはずなのだから。クライマックスとして上げられるのが「ジョホールバルの奇跡」、対イラン第3代表決定戦である。得点したのは中山、城、岡野。この3人への最終パス(アシスト)は全て中田が出したものだった。

さて、この彼、その後も日韓、ドイツと三回のワールドカップを引っ張り続け、さらに希有のアスリートであることを証明し続けて見せた。これが、中田の20歳から29歳までの出来事なのである。そもそも「3大会連続出場」は他に川口、小野だけだし、「3大会レギュラー出場」ともなればもちろん、中田以外にはいない。こうした結果からだけでも、日本サッカー界の常識を覆した革命児と表現しても、サッカー界の誰一人反対はできないという選手なのである。

さて、サッカー選手としての彼は、そもそもどんな特長をもっていたか。
二十歳の彼のパスは、「『追いつけ!』という不親切この上ないもの」と評論家たちの総スカンを食った。が今やもう、彼のパススピードしか世界には通用しないとは、周知の事実である。
「フィールドを鳥瞰していることを示すようなあの広い視野はどうやって身につけたものなのか?」。こちらは、反対者のいない関係者全員が初めから一致した驚きの声だった。どんなプレー中でも背筋を伸ばし首を前後左右へと回してきょろきょろする彼のスタイルは、その後日本の子ども達の間に広がっていったものだ。正確なロングパスは正確な視野からしか生まれないのだから。
「人のいない所へ走り込まないフォワードにはパスをあげないよ」。これも今や、「フォワードは技術以上に、位置取りが全て」という、日本でも常識となった知恵だ。これについては日本FW陣の大御所、中山雅史のこんな証言がある。
「中田が俺に言うのね。『そんなに敵ディフェンダーをくっつけてちゃ、パスがあげられない。どこでも良いから敵を振り切るように走ってって。そこへパスを出すから。そしたらフリーでシュート打てるでしょう』。俺、思ったね。そんな上手くいくかよ! でもまー、走ってみた。きちんとパスが来たじゃない。フォワードとして『目から鱗』だったよ!」
この出来事が中田20歳の時のことだ。10年上の大先輩によくも言ったり!従ってみた中山もえらい。中山のこの素直さこそ、39歳の今日まで現役を続けられている最大の理由と、僕には思えるほどだ。封建的な日本スポーツ界では、本当に珍しいエピソードなのではないか。
中田はまた、自分個人用のサッカー専用体力トレーニングに二十歳前から毎日欠かさず汗を流し続けている。「走れなければサッカーにはならない」、「外国人には体力負けするなんて、プロとしては言い訳にもならないよ」。自らのプレー実績で示してきたこれらのことの背景こそ、このトレーニングなのである。

さて、これら全ては今でこそ日本でも常識になっているものだ。しかし、中田はこれら全ての「世界水準」を20歳にして、どうやって身につけたのか。「世界から習った」、「例えば16歳で出会ったナイジェリアから」などと彼は述べている。ほとんど世界の相手を観察して得た「知恵」なのである。もの凄い観察力、分析力、練習プログラム構成力、自己規制などなどではないか!この上ない頭脳の持ち主が、観察のチャンスに恵まれたと語りうることだけは、確かだ。

彼はまた、世の全てが媚びを売るがごときマスコミへの反逆者でもある。「嘘ばかり書く」、「下らない質問ばっかり投げてくる」と主張し続け、「こんなものは通さず、自分の大事なことはファンに直接語りたい」と、スポーツマン・ホームページの開拓者にもなったのだった。弱冠21歳、98年のことである。それも、日本語、英語だけでなく、中国語、韓国語版まで備えたサイトである。イタリア語、英語にも通じた国際人というだけではなく、アジアの星にもなっていたということなのだろう。
他方、日本のサッカーマスコミは未だに程度が低い。この劣悪さを象徴的に語るならば、野球の、それも得点やホームランばかりを追いかけているように見えるということだろうか。因みに、野球のようにボールばかりを追いかけるテレビ画面からは、サッカーの神髄は絶対に見えてこないはずだ。


 ありがとう、中田英寿。僕をこれほどのサッカー好きにしてくれて。僕の生活にサッカーの喜びを与えてくれて。
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調査の怪! 1  へそ曲がり

2006年08月24日 10時41分15秒 | Weblog
 長くなるので4~5回に分けます。出しゃばりで申し訳ありません。

 私の体験です。最初に、当時の置かれた状況を述べます。当時、私は大きな事業所に所属していました。事業所はその下に行政区ごとに支所を持っていました。支所の下には多くの現場がありました。ここでは「事業所」・「支所」・「現場」という用語を使って説明します。

 さて、ある「支所」の「現場」でひとりの職員が「年次有給休暇」を行使しました。その結果、彼には「戒告」という処分が下されました。

 当時の事業所では「年次有給休暇」の制度がなく、代わりに天皇から授けられた「賜暇」というものがありました。これ、戦前の話ではありません。現代の話です。他の事業所だけでなく、全国的にも「年次有給休暇」の制度はあり、行使することが当たり前とされていた時代です。しかし実際には休みを取る場合は全てが「病欠」という処理がされました。家族や自分の結婚式や新婚旅行も「病欠」扱いです。
 当時は「特別休暇」も認められていないのですから、家族に不幸があっても「病欠」扱いでした。

 新聞報道も「年休取ったら処分?」とあきれたようなコメントを発表したぐらいです。

 ところで、彼は勝手に権利行使したのではありません。「現場」の労働組合の分会長として支部の会議に臨み、このおかしさを指摘したのでした。結果、支部の決議として「年休権」の行使が決定され、その第1号として行使したのです。その答が「戒告処分」でした。

 この「処分」に対して、労働組合本部の対応は“今後の経過を見守る”といった程度で、なんらの動きも示さないという状況でした。

 私たちは彼を支援ために「守る会」を結成しました。
「会」の抗議を受けた事業所側は次のように言いました。“年休の制度は認めている。彼の行使の仕方が違法であるから処分したのだ”、と。
 このため「会」は事業所を告発しました。人事委員会の公開審査を要求したのでした。

 「審査」が始まりました。事業所側は処分の正しさ?を立証するため、彼の職場の職員を多数、証言台に立たせました。しかし、「守る会」側の代理人や本人の反論の結果、証言内容は全て覆されました。中には、事業所側を弁護していたのに、途中から180度態度を変えた人もいました。また、証言を待つ間にいた「控え室」から逃げ出した人もいたぐらいです。
 
 でも、これだけでは審査は終わりません。今度は事業所側の「ウソ」、“年休権を認めていた”について、これを打ち破る必要があります。
 こんなことで、何人かに白羽の矢が当てられたのですが、その第1号が私でした。これが背景です。

 まだ、「調査の怪!」には入っていませんが、長くなったので、続きは次回にします。


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なぜ日本は中国と戦い続けたのか?

2006年08月23日 17時04分37秒 | Weblog
日清戦争からおよそ半世紀、日本は中国と
戦争を断続的に続けてきました。
これは中国が日本国内に攻め入ったのではありません。
日本が中国に攻め入ったのです。

一体、その動機はなんだったんでしょうか?
経済的な利害関係でしょうか?
政治的な覇権争いでしょうか?
また、なぜ戦場が中国でないといけなかったんでしょうか?

私もよく分かりません。
明快な答えはあるんでしょうか?

                 落石
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からから問答  へそ曲がり

2006年08月23日 00時19分13秒 | Weblog
問 このごろ、このブログの中で“合掌!”という言葉が使われていますが、どんな意味ですか?
答 「狭辞苑」(「広辞苑」ではありませんよ )で調べると次のようになっています。本来は仏教の言葉で、仏に参る時に使われています。手を合わせて拝むという意味です。また、木を交差させることにも使われます。「合掌造り」がそうですね。この頃では葬儀の初めと終わりにこの言葉がよく使われていることから、「終わり」という意味にも使われます。手紙の文面の最後に使われることもあります。

問 どうして、ここでは「終わり」にこの言葉を使ったのですか?
答 討論の中身があまりにも馬鹿馬鹿しいために、“これ以上はやっていられない”ということで、一方的に「打ち切り宣言」をするという意味で使った訳です。

問 どこが馬鹿馬鹿しいのですか?  
答 歴史についての「某」氏の理論で見ましょう。詳細はこのブログの8月15日の討論を見て下さい。
 1 「某」氏 の理論は次のことを土台としています。
  “歴史はあったがままの過去に立ち戻り、過去を現在のつごうでねじ曲げず、過去を過去として尊重することからはじまる”(西尾幹二:「国民の歴史」より)
   なお、正確に言えばこの人ではありません。この人と同類の人です。下に記載してあります。
 2 それに基づいて、次のように主張しています。 
  “じゃあ私達の少なくとも生きたことがない、織田信長の比叡山延暦寺の殺害や焼いたことをどう裁くのですか。日本に攻めてきた元をどう裁くのですか?西尾さんが言うように、過去は過去として・・というの歴史から学ぶ我々として常識ではないでしょうか”
 3 自分が生きていない時代についての評価はするなと言っています。そのまま認めろ、と言っています。自分の目で見たものしか評価してはならないことになります。これが「常識」だそうです。
 4 そういう一方で、朝鮮戦争とか、スターリンの時代とか、東京裁判などなどに、自身?の分析や評価を加えています。彼はこの頃何歳だったのでしょう?その頃を分析・評価出来るような優れた頭脳を持っていたとでも言うのでしょうか?
 5 それだけではありません。今度は“明治時代からの歴史を見ろ、日露戦争は正義の戦争だ、朝鮮の併合は彼らが望んでしたものだ”などなど、自分が生まれる前のことまで論評する始末です。まさに『講釈師 見てきたような嘘をつき』の世界です。
 6 これでは「タイム・マシン」でもなければ不可能です。その矛盾を突かれて、初めは居直りました。
  “東京裁判を静かに何故受け入れなければなりませんか?”、などと。「1」や「2」の主張とは180度あべこべになっています。でも、居直りはまだ続きます。
  “なお信長の比叡山の焼き討ちや一向宗の弾圧の理由は理解できます。中世の国家からの決別であります。武士が統治権を握るという確固とした方針が貫かれています。信長は中々のものです”
  出来ないはずの「信長」の時代についても論評を加えるようになってしまいました。素晴らしい「タイム・マシン」をお持ちです。
 7 ここまできても、彼は自説の矛盾について口を塞いだままです。“認めなさい”と言われても「沈黙」のままです。では、主張が変わったのか?全く変えていません。ここのコメントでも「落石」さんに呼び掛けています。
  “やはり憲法改正問題を考えるにあたって、落石さんの意見もあるでしょうが、本当は、明治維新からあの戦争までの総括と戦後の占領時期を含めての戦後の総括とこれからの日本のありかたを、展望することではと思いますが・・”と。
  それだけではありません。「落石」さんは “国家あっての国民”という考えに疑問を呈しているのです。ところが、「某」氏はなんと言っているか?
  “ 落石さん、そうですね、国家あっての国民ですね。”、と。この「そうですね」は何を意味しているのか、まるで「落石」さんと彼とが同じ意見であるかの如く言っています。もし違っているのなら、作文力が全くないという見本です。
 8 もう一度19日付の投稿「歴史を複眼で見る」をご覧下さい。この中のコメントで彼は何と言っているか。
  ここで彼は突然「北朝鮮ミサイル問題」を持ち出して、こう言っています。
  “先回のミサイルは、岩手県を越えていったのですよ。もう無茶苦茶ですね”、と。
 9 このブログでの最近のミサイル問題といえば、先月の「ミサイル実験問題」のことです。
  となると、このミサイルはどういう飛び方をしたのでしょうか?
  岩手県の上空を飛んだ後、急に方向転換して日本海に戻り、その後青森県や北海道の上空を通過しないで日本海に落下したことになります。人類がこれまでに開発出来なかった凄いミサイルを開発したことになります。
  そんなこと、新聞などに一行でも書かれていたでしょうか。
 10 それとも、「先回」というのがそれより以前のことを指しているのでしょうか?
  そうだとするなら、先月の「ミサイル実験問題」について論議しているのに、全く「方向違い」の問題を提起していることになります。「レイテ沖海戦」の話をしているところへ「日本海海戦」の話を持ち込んで、“お前の意見を出せ”といっているようなものです。ピント外れのお手本です。

 11 突然に「論点」を勝手に変えて自分の土俵に引きずり込もうとする、彼がよくやることです。“無茶苦茶”なのはどちらでしょうか。
 
  まだまだいっぱいありますが、こんな論者?と意見を交わすことがどんなに馬鹿馬鹿しいかお分かりでしょう。ここでの「文科系」さんの批判コメントはまさに図星です。だからこそ“合掌!”なのです。

問 そういう主張をする人は他にもいますか?
答 います。とくに知られているのは「藤岡信勝」・「西尾幹二」・「西部 邁」・「小林よしのり」氏です。まだ他にもいますが・・・。くっついたり喧嘩別れしたりしています。また「靖国神社」と繋がっている人もいます。
  彼らの歴史観はいろいろ呼ばれています。「藤岡史観」・「司馬遼太郎史観」・「新自由主義史観」・「歴史偽造史観」などなど、いろいろ呼ばれていますが、今日までに築き上げられた歴史の見方を「自虐史観」とか「東京裁判史観」とか称して、それをひっくり返そうという立場に立っています。また、「靖国史観」と呼ばれているものと「瓜二つ」です。神社主催の学習会に講師として参加している人もいます。
  その特徴は、自分たちがやったことは全て正しく、もし違ったことがあっても、原因は彼らが悪いからだという捉え方です。とくに、アジアに対する蔑視がひどいのも特徴のひとつです。とりわけ彼らが力を入れているのは、「東京裁判」を否定することと、あの戦争を「大東亜戦争」と位置づけることです。彼らが盛んに言う“明治維新からあの戦争までの総括と戦後の占領時期を含めての戦後の総括とこれからの日本のありかたを、展望すること・・・”は、何を狙っているかの証明です。「憲法第9条」を替えさせるためには、どうしても突破しなければならない「関門」になっているのです。
  22日付の彼の投稿は、ずばりそのものになっています。“嘘も100回繰り返せば真実になる”と言った人がいましたね。アドルフ・ヒットラーです。

問 こんなことを言っていると、また反論が来るのではないでしょうか?
答 間違いなく来るでしょう。彼らが自分の考えを変えない限りは・・・。でも、どんな反論が来るか楽しみですよ。矛盾だらけの主張と、カビの生えた「アカ攻撃」、それこそ「真っ赤な嘘」がいっぱい並びますからね。

 最後に面白い本を1冊紹介します。彼らのマニュアル本として、あの「ゴミ出版社」が提供しています。

 「歴史の嘘を見破る ー 日中近現代史の争点35」 中嶋峯雄 編  文春新書  900+税 

  目次をいくつか並べてみましょう。
   ・ 日露戦争は大陸侵攻の足がかりだったと言われたら 
   ・ 日本は満州を横取りしたと言われたら
   ・ 「万人坑」・「三光作戦」・「731」で大量殺害されたと言われたら
   ・ 支那は差別語だと言われたら
   ・ 朝鮮戦争はアメリカの侵略だと言われたら
   ・ 毒ガス・慰留兵器による被害は日本の責任だと言われたら  などなど

 いずれも頭に“中国に”という言葉がついていますが、わたしたちが同様の批判をすれば、たちまちのうちに“お前はシナの味方をするのか!”、“お前はどこの国の人間だ!”との罵声が飛んでくるでしょうね。
 でも、この本の中の「矛盾」や「嘘」を見抜くことは、「パズル」で遊ぶより遥かに楽しいですよ。
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靖国・憲法・教育基本法・天皇制もすべからくあの戦争に起因する(保守系)

2006年08月22日 02時10分20秒 | Weblog
恐らくですが、ドイツも第一次世界大戦と第二次世界大戦での慰霊をどう弔うのかで、とりわけ第二次世界大戦での処理を困ったこでしょう。しかも東西は分断されて、共産主義のソ連と同胞の共産主義化された東ドイツと対峙してきました。
それが統合後、どう慰霊するのかと・・。
それに比べれば、日本の先の大戦理由はわかりやすいものです。もう大戦理由は、散々書いてきました。この大戦理由の反駁してくれた方はいません。
何故かなと思ってきました。あの東京裁判を肯定するかの主張は、へそ曲がりさんが突出していますが、でも何故この日本が大東亜戦争をしたのか、そのお答えがありません。戦前(いつからのかがわかりませんが)の日本を裁くだけです。
へそ曲がりさんの戦災体験は、大変だったと思います。
とにかくこの日本が、あの広大なシナ大陸を侵略して統治まで想像してたでしょうか。あの南京政府を樹立したように、やはりシナ大陸はあの洪さんしかいないのです。満州国でさえラストエンペラーです。
とにかく何故勝つ見込み(アメリカの占領政策もない)のないあの戦争に踏み切ったのでしょうか?未だにへそ曲がりさん、守るさん、文科系さんからのお答えがないのです。日本は、ヒットラーの様に、第三帝国の世界制覇を日本は夢など見ていませんよ。
さて私的なことですが、私は昭和18年2月11日の誕生です。その時母42歳、父45歳でしょうか。母はこの年で出産するのは恥ずかしいと私を堕胎するために階段を飛び降りたり、医者へ行って薬をと行ったようです。しかし医者は妊娠促進剤を与えていたようです。それを女房から聞きましたが、私は不快でもなくあり得る話だと思いました。もう長女は20歳でしたから・・。母は、「恥ずかしい」と思ったのでしょうね。でもそれを聞いても私は、母への敬慕は変わりません。
何が言いたいかと言えば、人間にも、国家にも避けがたい運命のようなものがあるという事です。
世界で戦争や内紛がなくらないのは、これまでの歴史というかその地勢的な位置(運命)に左右されるものがあるのではないのかと言いたいのです。
そして国家も人間の集団です。果たしてどの国も理性的に、冷静の対処してきたのでしょうか。
私は何故、あの戦争について戦勝国でありアメリカ・イギルス・シナ・などの東京裁判やB・C級の目茶苦茶な裁判?を肯定しなければいけないのでしょうか。
かつアメリカ指導の憲法・教育基本法といった国家の基本に係わる法律を後生大事にすべきなんでしょうか。それがわかりません。

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靖国史観のルーツ  へそ曲がり

2006年08月21日 01時09分30秒 | Weblog
 19日(土)の「毎日新聞」の朝刊第2面に興味深い記事がありました。
 ここでは12回にわたって「靖国」というタイトルで連載してきましたが、最終回では「『戦後』からどこへ 」というテーマで、「靖国史観」のルーツを探っています。「改憲論」の目指す方向を知るためにも興味のある記事かと思って紹介します。
 これまでに私が紹介した新聞記事の中でも最も重要な意味を持つものと考えます。長いですが、全文を掲載します。「平泉」という名前に注目して下さい。

      見出し 1 : A級戦犯合祀の源流
      見出し 2 : 今に脈打つ戦前史観

 靖国神社の歴史博物館「遊就館」の1階大展示室中央に陳列されている人間魚雷「回天」。太平洋戦争末期、「海の特攻隊」に使われ、100人余の若い兵士の命を奪った旧海軍出身の松平永芳元宮司が入手した同館の呼び物の1つだ。
「回天」を発案した黒木博司海軍少佐は、皇国史観を主唱した東京帝大文学部国史学科の「 平泉 澄(きよし)」教授に心酔していた。
 平泉氏は黒木氏を激励し、人間魚雷案が軍上層部に採用されるよう宮中にも働きかけた。
 
 松平氏もまた平泉氏を師と仰ぐ1人だった。敗戦後、長く務めた筑波藤麿元宮司が78年3月に急逝。後任を探していた靖国神社総代の村上勇・日本遺族会会長(当時、元建設相)は同年6月4日、福井県勝山市の生家、白山神社で宮司になっていた平泉氏に、松平氏の宮司就任について相談している。内定したのは同月末だった。
 
 福井藩主の血筋の松平氏は、海軍機関学校受験前の1年間、平泉氏宅に寄宿し、「他の方々には感ぜられない畏敬の念」を抱いていた。戦後、郷里の師を訪ねる時は、いつも駅から神社まで5キロの道を「神に歩みに行く厳粛さ」(親類の話)で歩き通した。15畳敷きの社務所1階応接間には、松平慶民元宮内相(永芳氏の父)の「忠義塡骨髄」という書が掲げられ、はかま姿の平泉氏とスーツを着た松平氏が机をはさみ、背筋を伸ばして差し向かいに正座したという。
 
 松平宮司は就任間もない78年10月、宮中や世論に配慮して10年近く「宮司預かり」になっていたA級戦犯合祀を決行した。85年に東京・神田錦町の学士会館で行われた戦後教育批判の会合で「生涯で意義あると自負できるのはA級戦犯合祀だ。現行憲法否定を願うが、その前に極東軍事裁判の根源をたたいてしまおうという意図の下に合祀した」と個人的な思想確信に基づく行動だったことを明かしている。

 師の平泉氏も合祀の10年以上前、その必要性を説いていた。田村元・元衆院議長が父親の旧制高校時代の親友だった平泉氏を白山神社に訪ねた時のこと。平泉氏は「戦犯というものは存在しない。国に尽くした人たちの戦死に準じる絞首刑だ」と主張。「東京裁判は認められないが、戦犯といわれる人たちは無謀な戦争をやった」と反発する田村氏に、「日本の国体をもっと勉強しなさい」と答えたという。

 「遊就館」の戦史パネルを書いた元防衛研究所戦史部主任研究官の永江太郎氏(69)も平泉史学を継承する「日本学協会」常務理事。A級戦犯合祀や独特の歴史展示など靖国問題の源流は、平泉氏の思想にあると言える。

 平泉氏は戦時中、皇族や政治家、軍人らと交わり、東条英機、近衛文麿両首相の相談に乗るなど戦争政策に深くかかわった。農民史を卒論に書こうとした学生に「豚に歴史がありますか」と反問し、学徒出陣の最終講義では短刀を抜いて和歌を詠み「永久にお別れです」と宣言したという。
 敗戦で大学を辞職したが、ほどなく言論活動を再開している。
「現行のマッカーサー憲法なるものは外国の暴力による強制であり、日本国の憲法とすることは恥ずべきこと。何よりも先に顔を洗ってつばの汚れを去るべきだ」。 54年、岸信介元首相が会長の自由党憲法調査会に招かれ、激烈に自主憲法制定を主張。68年1月17日にも岸氏と「重要なる会談」をした。翌年、自主憲法制定国民会議(岸会長)が発足している。

 東大を去った平泉門下生の何人かは、文部省で教科書検定や学習指導要領の作成を担当。80年代に始まった歴史教科書問題と靖国問題は、表裏の関係にある。その間、経済はバブル景気と「失われた15年」で激動し、国民的な歴史認識の熟成はなおざりにされた。

 岸氏の孫で次期首相最有力の安倍晋三官房長官は、靖国問題や東京裁判で詳細な持論を展開し、憲法や教育基本法の改正に意欲を燃やす。直接のつながりはないが、その論理は平泉史観と驚くほど似ている。


   お願い
 常連投稿家の「文科系」さん、「落石」さん、「守る」さん、ぜひ「平泉史学=皇国史観」なるものを調べて下さい。そうするとその論理が「某」氏と“驚くほど似ている”ことに気づかれると思います。「大日本帝国」の亡霊がいまでもさまよっています。

  
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歴史を複眼で見る  へそ曲がり

2006年08月19日 14時54分38秒 | Weblog
 よく聞く言葉がある。“歴史を単眼で見てはならない、複眼的に見ること、相手の立場にたって考えること、言葉のすり替えをしないこと”。同感である。歴史の教訓が生み出した基本原則である。この視点は今後のアジア外交の立て直しにも重要であろう。

 ところで、この視点で「北朝鮮問題」を見たらどうなるか。

 戦後の日本は「平和国家」であったというが、これを「北朝鮮」側から見たら、同じことが言えるだろうか?

 共和国から見れば、日本は殖民地として支配した国であり、また、日本の敗戦は南北を分断した原因ともなったし、朝鮮戦争では日本は米軍に基地を提供したし、武器。・弾薬・食料などを米軍に補給したなどという存在に見える。
 それだけではない。1965年には「日韓基本条約」が締結されたことにより、以後、共和国は事実上「日米韓軍事同盟」の包囲網の中に置かれてきた。
 つまり、彼らの目からは、この百数十年間、日本は一貫して「敵国」として存在したのである。彼らか゛硬直化した姿勢をとった要因のひとつでもある。

 そして現在は、“先制攻撃をしろ!”“経済制裁をもっとしろ!”の大合唱の中に置かれている状態である。
 2,000発もの核ミサイルを自分たちに向けながら、1発に大騒ぎする国、彼らにとっては理解不可能であろう。
 なんのことはない。かっての「ABCD包囲網」の中に置いているようなものだ。彼らに“われわれは止むを得ず立ち上がったのだ。祖国防衛戦争だ!”と言わせるための口実を与えているようなものではないか。
 “自分たちには主張する権利はあるが、同じ主張を相手がするのはけしからん”、これではまるで暴力団の言い分だ。

 万一、彼らが「われわれは止むを得ず立ち上がった!全員玉砕覚悟だ!」としたら、この国はどうなるだろう?後世の人々は「北は正しかった」とでも言うのだろうか?
 “圧力をもっと掛けろ!、先制攻撃をしろ!、針ねずみのように核武装しろ!”と叫ぶ人たちへの回答が、期待とはあべこべになって出てくるだろう。

 そうさせない方法はひとつしかない。これも識者の言葉である。“よく話し合い、交流を積み重ね、ともに歴史を歩めるようにしていく”ことではないか。あの悲惨な戦争体験を繰り返さないためにも・・・。
 “夢だ!”“馬鹿だ!”“間抜けだ!”などと、いくら罵倒されてもこの道を歩んでいきたい。

 改憲論者の叫びは、この日本を地獄の底に引きずり込む「道案内」に過ぎない。

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このブログへの「投稿」「コメント」について。   ブログ管理人

2006年08月19日 13時17分13秒 | Weblog
 8月15日の保守系さんの「全ての戦争や内乱・喧嘩などは、原因があって結果がある。」の投稿に対してブログ新記録の21のコメントがありました。

 その中で、「一般法則論者さん」からコメントがあり、最後に<この文を削除しないことを希望します。>との一文が書かれておりました。そのことについてのお答えを兼ねてブログ管理人の「投稿」「コメント」についての考え方を述べて見ます。

 このブログは、主に憲法九条の改定問題について関心のある方々に改憲・護憲を問わず自由な討論の場を提供し、夫々の主張をすると同時にお互いの考え方を知る機会になればと立ち上げたブログです。
 また、主張の内容については「九条問題」に限定せず「平和」に関わるテーマなら自由に書いていもらいたいと考えております。
 どのような主張の「投稿」や「コメント」も自由にしてもらいたいと考えております。 
                                                                ですから「コメント」ばかりでなく「投稿」に必要なIDやパスワードもプロフィル欄に公開してありますし、2月2日の投稿欄には「コメント」や「投稿」の仕方について詳しく紹介しました。このブログの全ての鍵を参加してくださる皆さんに預けてあるわけです。

 ですから、頂いた「コメント」や「投稿」を「削除」するなどということは考えておりません。

 ただ現在一部のブログで行われている、「宣伝」、「いたずら」、「節度を欠いた誹謗中傷」、「ブログ改竄」などなどの「ブロク荒らし」があった場合は、真面目な参加者の言論を保障するためにも何らかの対応をする場合があるかも知れません。その場合は、ブログで管理人の考えを公開し皆さんのご意見を聴くつもりです。ご意見をお聞かせください。

              
 
 
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昭和21年3月6日 天皇の戦犯単なる噂

2006年08月19日 11時26分56秒 | Weblog

中部日本新聞の記事です。

天皇の戦犯単なる噂 憲法改正後に御退位か

アンカラ放送4日RF「共同」
東京からの報道によれば、日本天皇は憲法改正終了後退位
手続きに署名される筈といわれるが、東久邇宮殿下も
「天皇は皇位に留まることを欲しておられないから
退位されれば御満足であろう」と語っていられる。


 この頃には、天皇が終戦当時、および、その後における
 天皇の演じられた役割に鑑み、戦犯に指名されることは
 ないという憶測が広がっていたようです。

 終戦当時の行動に鑑みてというのは、御聖断のことでしょうね。
 
                       落石

    

昭和20年9月18日 
 アメリカ上院本会議 天皇を戦争犯罪者として裁判にと、決議。

9月26日
 オーストラリア政府、文書で天皇訴追を要求。

11月29日
アメリカ政府、マッカーサーに、天皇訴追についての証拠集めを指示。

昭和21年1月25日
マッカーサー、天皇不起訴をアイゼンハワー参謀総長に通知。

4月8日
最終的に不訴追が決定。

案外、早く情報が国内のマスコミに流されているんですね。
日本政府の検閲と占領軍の検閲は、
かなりやり方が違っていたようです。

この時点では、昭和天皇の退位は当然と考えられていたようですね。






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昭和21年1月26日の中部日本新聞   落石

2006年08月18日 09時37分54秒 | Weblog

天皇について敗戦直後の人がどう思っていたのか?
ちょっと面白い記事です。


国民輿論の動向  首相への投書
という見出しで次の様な記事がありました。

 政治問題への投書67通

中心議題は天皇制に関するもので、問題が世界批判の対象に
なりつつある現在、国民志向の一半が窺われるのだが、

 国体護持の一線を堅持する15に対して、
 廃止を主張するもの2、 
 天皇の責任追及及び退位の要求がそれぞれ4、
 となり、この天皇制批判の側に立つ合計10通は
 比率的に見て前例のない最初の高率を示している。

その他には、軍閥戦犯者の徹底的処罰要求の6、
京都遷都説4を算えるのが注目される。


これは、最近一ヶ月の首相への投書337通を
分析したものだそうです。
食糧問題の50通より多いのが注目されます。
といっても、投書などできる人は、それなりに
余裕のある階層だったかも知れません。

それにしても考え方は割れていますね。



 


  

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昭和天皇に戦争責任があったか? 落石

2006年08月17日 18時00分44秒 | Weblog
この単純な問題設定に皆さんはどう考えます?

昭和21年1月19日の中部日本新聞の記事

 天皇を戦犯に サンフランシスコ発のSP共同
 
 各社東京来電によれば、豪州及びニュージーランドは
 天皇を日本の主要戦争犯罪人として挙げていると
 伝えられる。なお、各社は昨年10月、中国も
 天皇を戦争犯罪人名簿に入れている旨、報道している。



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銃後といふ不思議な町を丘で見た 渡辺白泉

2006年08月17日 09時28分29秒 | Weblog
 
昭和12年ということで投稿したら、銃後、という
流行語について教えていただきました。

それによりますと、
銃後、という言葉は、砲火の背後に活動する将士という
意味だったそうです。
その意味が変ったのが、1937年(昭和12)でした。
日中戦争が始まったこの年の12月26日、
帝国議会での勅語(天皇の言葉)のなかに
「朕カ銃後ノ臣民ヨク協力一致シテ時難ニ当タレリ」と
あったことから銃後の臣民、つまり内地にいて、直接戦闘に
参加しない一般国民のことを指すように変ったそうです。

白泉の

 戦争が廊下の奥に立ってゐた

という句などは分かりやすく、感心していましたが、
この句については、あまり分かりませんでした。

しかし、この句は、新しく、銃後、とされた町を
丘の上から見て詠った時事的な句だったのですね。

これ以後、日本人は言論統制もあって、ひとつの方向に
引っ張られるように流れていく。
銃後は、それを可能にした言葉でもあったんですね。

今でいうと、規制緩和などでしょうか?

言論統制は起こらないように願っています。

岐阜のお坊さんの事件。
困った坊さんだと思った知り合いの誰かさんが
密告したんでしょうか?

マインドコントロールに魔手に陥らないように。

                 落石



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鷹子さんへ。僕が問題にしていること。 文科系

2006年08月16日 14時20分39秒 | Weblog
ある会社がただ望みを語っていても潰れるだろう。優良な会社は、20年10年の長期計画がしっかりしている。しっかりした長期計画とは情勢分析がしっかりしていること。情勢分析の柱はマーケット調査。その根幹は言うまでもなく人々の要求の移り変わり。過去の現実を要求の移り変わりという視点(この場合は会社の製品から遠くない分野の要求の移り変わりにすぎませんが)から、冷厳に見ていく。ここでもリアリストほど「要求」から見るなどと言えば笑い飛ばして、売れ筋を見ると語るはず。その上に会社としての希望、要求を実現していく方向、技術、人材組織、原価管理などの計画を作る。
事ほど左様に、夢、望み、要求の実現を語ることは、同時に冷厳に実在、現実を見ていくことでなければならないということだろう。

さて、上記のことを1会社で行うこととは違って、歴史とか哲学、倫理学とかいう世界で行っていくのはさらに途方もない難問になっていくはず。歴史的現実を踏まえない哲学は幻想だろうし、事実の整理や望みを語らない歴史は、死んだ一千京どころではない無限大の事実のバラバラな集まりに過ぎないであろう。だからそもそも人間には、「この二つの正しい統一は可能なのか」という大問題まで出てきてしまう。ヨーロッパは、こんなことをかれこれ2500年追究し続けた歴史を持っている。「事実」だけ、「望み」だけ、「『事実』(確認をしあう)世界は限定的なこと、そこから出て『個人』領域のこととしてだけだが『望み』は持たせて貰う」、などなど、いろんな流派が深い浅い、広い狭いいろいろと局面を変えて繰り返されてきた。宗教的望みなども己の運命をかけて参加して来るから、命がけの厄介な問題になることも多々だった。
こういう問題設定から過去の哲学者達はこんなことを最大の問題と考えるに至った。「そもそも本当に存在するものとは何か」、「その実在するものを人間、俺はちゃんと認識できるのか」、「こういうことを踏まえ、整理しなければ、俺が満足できる生き方を語るなど、夢のようなもんだ」などなどと。
ここで余分なことも一言。大人がお説教をするときは、大抵卑近な実生活を脇に置いた実のない観念論だ。善意に見ても、無反省な人々ということだろう。他方、世に虐められ慣れてきた敏感な子ども、青年たちは、そういう大人の世渡りの言葉を間もなくすぐに見抜くようになるかわりに、「分かった。世に虚構だけを見るしかない。まともな人間は浮遊人」ともなりやすい。上の問題はこういうことにも当然、関わってくる。それ以上問題を深く追究しなければ、あとは「浮遊ではなく確信を」として「断定、断言だけ」に基づいた生き方も起こりうる。

さて、直感で悪いですが、昨今の「日本大好き歴史観」は西洋哲学の上に述べた伝統的中身から見て、洗練されたものではないと思います。その私なりの証拠はこんなものでしょうか。世界的な真理なんてどうでも良いという。国別の歴史観だけで結構と語る。しかも最初から「愛国主義」と絡んでいるから眼が「希望即実在」になりやすい。こうして、歴史や実在と、認識や精神と、私となどの区別を付けないままであったり、自分が考えを進めていく道具である言葉やその対象とはそもそも何なのかすら吟味しないままに歴史が語れると考える。僕はこういう批判の一端を示してきたつもりです。


なお、「上部構造の相対的独自性」とは以下のようなものです。カール・マルクスが述べた概念ですので、それに従います。ただし、従来の世界の共産党は日本のそれも含めて、このことを一面的にしか理解していなかったと、僕の恩師の受け売りもあって、若い頃から考えてきました。これが共産党の世界的破産の最大原因だったと考えているくらいです。
社会の思想の変遷史は、その「究極の動力」を己自身の中に持ってはいない。それは社会の経済的仕組みの変遷の中に求められる。経済の変化(これを「土台」と呼びました)に連れて、政治、制度、法律、習慣、道徳、思想などの社会全体(これを「土台」に対して「上部構造」と呼びました)が「遅かれ早かれ」変わっていく。
しかしながら、思想その他の上部構造は、社会の土台、その経済的仕組みの変遷を早めたりも遅らせたりもする。ただしこの側面は、先の側面、経済のその他への規定性に比べるならば「相対的なもの」である。なぜなら、人間は現に存在するものから感じ、認識し、想像し、創造していくことしかできないのだし、生きていくための経済活動、職業などは何を置いても一時も休むことができず実在させてきたものなのだから。
なお、経済的仕組みは思想その他の中に、直接に何かを作り出すということはできない。経済は、思想その他それぞれの従来までの歴史的枠組みを、その外から間接的に変化させていくだけだ。これらの歴史的枠組みを無視して、思想などを経済的要請に直結させようとするのは機械的唯物論と呼ばれるものの一種である。強権政治になり、結局、経済発展をも遅らせることになる。先述のこういった側面を無視することになるからだ。「思想その他は社会の経済的仕組みの変遷を早めたりも遅らせたりもできる」。

なお、マルクスが考慮に入れなかったことはもちろん多くあると思います。普通選挙の世界的普及とその影響、世界経済の絡み合いの深さや大きさから1国だけでは動かなくなったこと、マスコミの世界的発達。これらのことの採り入れにも影響した最も重要な哲学的欠陥として、人々の内面について知情意の情の解明の弱さ、特に指導者達自身の情の無自覚、つまり、人間へのそういう1面的理解などです。こういう哲学がその本性上持ちやすい一面性ということなのでしょう。
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小泉首相の靖国神社参拝に抗議します。 

2006年08月15日 19時10分58秒 | Weblog
抗議に賛成の方は、コメント欄に意思表示を
お願いします。
              落石
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全ての戦争や内乱・喧嘩などは、原因があって結果がある(保守系)

2006年08月15日 17時29分08秒 | Weblog
老爺さんなどの沢山の戦災時のお話など、それは貴重なものです。私とて戦争は嫌なんです。世界の歴史を考えたら、何故戦争は起きるのでしょうか?
私達が理解すべきは、その原因なんです。その原因を探っていく時に、非武装であれば避けられるというものですか?戦後、平和憲法なるものを護持しているから、避けられてきたのですか?いやアメリカとの軍事同盟があるから避けて来られた、いや結局自衛隊も出来たから、避けて来れたというものでしょか?
少なくとも、あの北朝鮮がソ連や中国共産党の支援を受けて、38度線を越えて侵略してきましたが、あれって何も、国連軍やアメリカから仕掛けたものではありませんでした。
何故、三国は侵略してきたのでしょうか。あれをあのまま放置しておいたら、少なくとも、日本は、共産国と正面から対峙することになり、日本の安全保障は危機的状況を迎えたことでしょう。
4人の方達は、やはりぬくぬくとこの戦後日本(アメリカの駐留と自衛隊の軍隊による守り)の中で育って来られたのです。
ですから私は今からでも遅くはないから、安保破棄、9条廃止、自衛隊廃止の運動をしたらと申してきました。
老爺、へそ曲がりさんに至っては、それほどの戦災体験をされているのなら、殺戮するアメリカを憎いと思いませんか?今度は負けないと思わないのですか?
私は文科系さん除くと、アメリカへの批判が皆無な所が、私には信じられません。
まさに三人は、戦後の占領政策にとっぷりと漬かってしまって、戦勝国にひれふしているような観を致します。
何故、あの戦争を日本は強いられたのかを理解して、戦前の日本の侵略性?を問うているのですか?
一体、日支事変は、シナ側の理由ですよ。あのアメリカや英国との戦争も日本から仕掛けたものですか?
この三人さんは、あの東京裁判の全体やアジア各国でのB・C級裁判を支持されるのですね。そして戦勝国側を裁くことも放棄されるのですね。とにかく明治以来の日本のありかたこそが問題だったというわけですね。
せめて私は主張しているように、明治前後の世界と極東アジアや日本の歴史を再度、学びませんか?
あの明治前後から大東亜・太平洋戦争まで、アジアや周辺国に対して日本だけが一方的に、戦争責任を問われるのでしょうか?
また20世紀の共産主義の残虐性と戦争原因についても、申し上げました。
これもよく加味して、お考え下さい。
靖国に小泉が行った位で、そう騒ぐ話では、ありません。
この辺りの整理がつかないと話になりません。

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