中学3年生になると、今度は工場へ勤労動員されるようになりました。熱田区船方の住友軽金属工場でした。飛行機の機体となるジュラルミンの製品を作ることでした。火入れした物を整形するのが主な仕事でした。
しかし、その頃には空襲が頻繁になり、空襲の度に機械のスイッチを切って避難する繰り返しでした。いつも「空襲警報」の度に工場から少し離れた広場に避難するのです。
そうしたある日、日本の戦闘機がアメリカの爆撃機を迎え撃つのを見ました。何しろ一万メートルの高空でのことです。アメリカの爆撃機は大きいので良く見えますが、ゼロ戦(当時の日本最高性能の戦闘機)小さくてなかなか見えません。時々太陽光を反射してキラッと光るのでわかる程度でした。しかし、スピードは段違いに爆撃機のB29の方が速く追いつきません。やむなく敵機より上空で待ち伏せし、急降下での攻撃、それもただ一度しか出来ない態勢での攻撃です。B29は機銃を沢山装備していますから、ゼロ戦がツーと近づいたと思ったらパッと火を噴いて落ちてきました。
操縦士は普通落下傘で降りるのでしょうが、空気の薄い所でもあるし、覚悟した決死の闘いででもあったのでしょう、落下傘はついに開きませんでした。
こうして落ちてきたゼロ戦の残骸が、私たちの工場に運び込まれて来ました。機体の後半は融けていましたし、主翼の日の丸には穴があいていました。
あくる日、私たちの働いていた住友工場の隣の愛知時計の工場が爆撃を受けました。そして、その爆弾の一発が、私達のすぐ隣の建物に命中したのです。
私はスイッチを切って防空壕へ走りました。その時左側から猛烈な爆風で右側の防空壕へ叩きつけられました。幸い、そこが砂山であったので無傷でした。
その後、必死でいつもの広場に向って逃げました。 途中、工場前の広い道路にさしかかると、黒牛とそれを連れていたであろう人が爆弾の破片で腹をえぐられたのでしょう、腸が長く伸びて飛び散っていました。多分即死だったのでしょう、でも不思議なことにきれいな虹色をしていました。
そこを過ぎてすぐ、私の目の前でキラリと何かが光りました。後で気付いたのですが自分の下駄(その頃靴は手に入らなかった。)の鼻緒の前が三センチくらいの三角形に鋭く抉られていました。親指と人差し指の間です。広場にたどり着いて気がついたのですがゾーとしました。多分、敵機を狙って撃った高射砲弾の破片がかすめたのだと思いました。
避難先で友達にやつと会ったら「おお生きとったか! 顔がまっ青だぞ。」と言いました。しかし、言った友達の顔も「まっ青。」でした。
次回も、この続きを書きます。
