九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

小泉首相の靖国神社参拝に抗議します。 

2006年08月15日 19時10分58秒 | Weblog
抗議に賛成の方は、コメント欄に意思表示を
お願いします。
              落石
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全ての戦争や内乱・喧嘩などは、原因があって結果がある(保守系)

2006年08月15日 17時29分08秒 | Weblog
老爺さんなどの沢山の戦災時のお話など、それは貴重なものです。私とて戦争は嫌なんです。世界の歴史を考えたら、何故戦争は起きるのでしょうか?
私達が理解すべきは、その原因なんです。その原因を探っていく時に、非武装であれば避けられるというものですか?戦後、平和憲法なるものを護持しているから、避けられてきたのですか?いやアメリカとの軍事同盟があるから避けて来られた、いや結局自衛隊も出来たから、避けて来れたというものでしょか?
少なくとも、あの北朝鮮がソ連や中国共産党の支援を受けて、38度線を越えて侵略してきましたが、あれって何も、国連軍やアメリカから仕掛けたものではありませんでした。
何故、三国は侵略してきたのでしょうか。あれをあのまま放置しておいたら、少なくとも、日本は、共産国と正面から対峙することになり、日本の安全保障は危機的状況を迎えたことでしょう。
4人の方達は、やはりぬくぬくとこの戦後日本(アメリカの駐留と自衛隊の軍隊による守り)の中で育って来られたのです。
ですから私は今からでも遅くはないから、安保破棄、9条廃止、自衛隊廃止の運動をしたらと申してきました。
老爺、へそ曲がりさんに至っては、それほどの戦災体験をされているのなら、殺戮するアメリカを憎いと思いませんか?今度は負けないと思わないのですか?
私は文科系さん除くと、アメリカへの批判が皆無な所が、私には信じられません。
まさに三人は、戦後の占領政策にとっぷりと漬かってしまって、戦勝国にひれふしているような観を致します。
何故、あの戦争を日本は強いられたのかを理解して、戦前の日本の侵略性?を問うているのですか?
一体、日支事変は、シナ側の理由ですよ。あのアメリカや英国との戦争も日本から仕掛けたものですか?
この三人さんは、あの東京裁判の全体やアジア各国でのB・C級裁判を支持されるのですね。そして戦勝国側を裁くことも放棄されるのですね。とにかく明治以来の日本のありかたこそが問題だったというわけですね。
せめて私は主張しているように、明治前後の世界と極東アジアや日本の歴史を再度、学びませんか?
あの明治前後から大東亜・太平洋戦争まで、アジアや周辺国に対して日本だけが一方的に、戦争責任を問われるのでしょうか?
また20世紀の共産主義の残虐性と戦争原因についても、申し上げました。
これもよく加味して、お考え下さい。
靖国に小泉が行った位で、そう騒ぐ話では、ありません。
この辺りの整理がつかないと話になりません。

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小泉さんの最後っ屁に十句              まもる

2006年08月15日 12時57分16秒 | Weblog
英霊の姿に隠す十二人

 乗る人を忘れ舵切る愚船頭

 自由だと憲法持ち出し説教す

 不快だと言われ恍惚変態人

 めずらしく説明責任空説法

 戦犯をまた作り出す演出家

 展望も戦略も無き確信犯     

 惨敗を忘れ参拝上機嫌 

 何しても叱られると啖呵きり

 後継者できて最後の啖呵きり       
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私の戦争体験⑤・・・勤労動員(血の池)      爺老

2006年08月15日 04時10分07秒 | Weblog
工場に帰っても虚脱状態で仕事をするでもなくボンヤリしていたら、先生方が巡回しに来られ、「敬礼」の号令でみな挙手の礼をしました。私達の班は全員無事でした。それからすぐ「中学生集合」の合図で工場の入り口の広場に集合しました。他の班も皆そろって並びましたが、残念ながら、級友が一人亡くなりました。私達が働いていたすぐ隣の建物にいて即死でした。
 そんなことを話し合っていると、「あそこの防空壕に爆風でやられた人達がいる。すぐ救出してくれ!」と言われ、走って行き、暗い壕の中を手探りで負傷者捜しに入りました。
 人がいる気配で手で触ったらまだ温かだったので、「生きている!」と思い背負いました。運良くあまり重くない女の子だったのですぐ外に出してやれました。「保健所へ運べ。」の指示でやや離れた保健所へ運びました。
 保健所に行く途中、、もう沢山の負傷者が広場一杯に並べられていました。
 工場に引き返して、負傷者が残っていないかと、又、壕の中へ入りましたが中はもう空でした。
 外に出て、休んでいてふと気がついたのですが、防空壕の外壁に赤黒い斑点が飛び散ったようについていました。よく見ると、指紋が残っています。それで人の肉だと気付きました。骨は微塵に砕け、ぺしゃんこになって貼り付いていました。

 その日の夕方、ひどく爆撃された愛知時計の前を通らなければ帰れませんでした。工場の中心は鉄筋の三階建てでしたが、爆弾の穴が地下まで突き抜けていました。それに、この辺りは埋立地で柔らかい地盤でしたから爆弾の一つ一つが大きな穴(直径14・5メートル)を空け水も噴き出していて、溜まった水は、その場で死傷した人達の血でまっ赤に染まっていて、まるで地獄の血の池に迷いこんだようでした。

  そんな思い出のある方向に、今は、白鳥公園が出来て美しい日本庭園が見られるそうですが、今でも私は、あちらの方には足が向きません。
                            
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私の戦争体験記④・・中学3年生 勤労動員    爺老

2006年08月15日 02時46分43秒 | Weblog
 中学3年生になると、今度は工場へ勤労動員されるようになりました。熱田区船方の住友軽金属工場でした。飛行機の機体となるジュラルミンの製品を作ることでした。火入れした物を整形するのが主な仕事でした。
 しかし、その頃には空襲が頻繁になり、空襲の度に機械のスイッチを切って避難する繰り返しでした。いつも「空襲警報」の度に工場から少し離れた広場に避難するのです。
 そうしたある日、日本の戦闘機がアメリカの爆撃機を迎え撃つのを見ました。何しろ一万メートルの高空でのことです。アメリカの爆撃機は大きいので良く見えますが、ゼロ戦(当時の日本最高性能の戦闘機)小さくてなかなか見えません。時々太陽光を反射してキラッと光るのでわかる程度でした。しかし、スピードは段違いに爆撃機のB29の方が速く追いつきません。やむなく敵機より上空で待ち伏せし、急降下での攻撃、それもただ一度しか出来ない態勢での攻撃です。B29は機銃を沢山装備していますから、ゼロ戦がツーと近づいたと思ったらパッと火を噴いて落ちてきました。
 操縦士は普通落下傘で降りるのでしょうが、空気の薄い所でもあるし、覚悟した決死の闘いででもあったのでしょう、落下傘はついに開きませんでした。
 こうして落ちてきたゼロ戦の残骸が、私たちの工場に運び込まれて来ました。機体の後半は融けていましたし、主翼の日の丸には穴があいていました。

 あくる日、私たちの働いていた住友工場の隣の愛知時計の工場が爆撃を受けました。そして、その爆弾の一発が、私達のすぐ隣の建物に命中したのです。
 私はスイッチを切って防空壕へ走りました。その時左側から猛烈な爆風で右側の防空壕へ叩きつけられました。幸い、そこが砂山であったので無傷でした。
 その後、必死でいつもの広場に向って逃げました。 途中、工場前の広い道路にさしかかると、黒牛とそれを連れていたであろう人が爆弾の破片で腹をえぐられたのでしょう、腸が長く伸びて飛び散っていました。多分即死だったのでしょう、でも不思議なことにきれいな虹色をしていました。
 そこを過ぎてすぐ、私の目の前でキラリと何かが光りました。後で気付いたのですが自分の下駄(その頃靴は手に入らなかった。)の鼻緒の前が三センチくらいの三角形に鋭く抉られていました。親指と人差し指の間です。広場にたどり着いて気がついたのですがゾーとしました。多分、敵機を狙って撃った高射砲弾の破片がかすめたのだと思いました。
 避難先で友達にやつと会ったら「おお生きとったか! 顔がまっ青だぞ。」と言いました。しかし、言った友達の顔も「まっ青。」でした。

 次回も、この続きを書きます。           
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私の戦争体験記③・・・中学1・2年生 穴掘り   爺老

2006年08月15日 00時57分19秒 | Weblog
   先回までは小学校時代の戦争体験について書きましたが、今回からは中学時代の体験を思い出して書きたいと思います。

 1年生だけは平常の授業を受けました。英語はまだあってドイツ人の神父さんが教えていました。教科書の表紙に英国王室の紋章がついていたのですが、すぐにその箇所に紙を張らされました。敵国の紋章という事だったと思います。それから度々教科書の英文に墨をぬって消したりしました。そしてついに二年生になると英語がなくなりました。私は英語が好きだったので残念でした。またその英語の先生の初めてのじゅぎょうに病気で休んでしまったので、質問されても答えられませんでした。「休んだので知りません。」と答えたら「友達に聞いても勉強してこなくてはいけません。」とひどく叱られました。「そんな無理なこと!」と納得いきませんでしたので、叱られている間、短いチョツキの下から見える先生のピンクのお腹を見つめていました。他にも体育や軍事教練の先生が威張っていていつも叱られたり殴られたりしていました。一年生の時はそんな思い出ばかりです。
 
 二年生になるとすぐ、学徒動員に引き出され、建物疎開(空襲で燃え広がるのを防ぐため町並みの所々の家を壊して間引くこと。)の仕事を毎日しました。家屋に長いロープをかけて大勢で「ヨイショ、ヨイショ」と引っ張り倒すのです。そのあと防空壕に使えそうな材木を選んで、トラックに積んで運ぶ仕事でした。
 次に与えられた仕事は市内の防空壕堀りでした。町中のあちらこちらに人がしゃがんで入れるくらいの穴を掘っただけのものでした。いくつもいくつも掘りました。
 おかげで今でもシャベルの使い方は私の得意技の一つになっています。
 次回は三年生になつて、工場に勤労動員された時の思い出を書きます。

                
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反戦を貫いた僧侶  へそ曲がり

2006年08月15日 00時30分38秒 | Weblog
 かって、戦争に「反対」したり「平和」を口にするだけで【犯罪者】とされる時代がありました。そんな中にあって、弾圧されることを覚悟の上で自分の信念を曲げなかった人もいたのです。

 12日付「朝日新聞」夕刊9面に掲載されたものです。(これも「朝日」の独占記事か?)

      見出し 1 : 日中戦争は侵略 批判し有罪
      見出し 2 : 反戦の老僧 名誉回復へ
      見出し 3 : 真宗大谷派 岐阜の住職
      見出し 4 : 本山が処分撤回検討

 日中全面戦争が勃発(ぼっぱつ)した1937(昭和12)年。ほとんどの国民が「万歳、万歳」と召集兵を戦地へ送り出していた当時、「戦争は最大の罪悪だ」と語り、「侵略だ」と言い切った老僧が岐阜県にいた。名は竹中彰元(しょうげん)。発言は罪に問われ、本山からは処分も受けた。
 それからほぼ70年たったいま、関係者の尽力でようやく処分が正式に撤回される見通しが強まっている。(大塚 )

 竹中は1867年生まれ。岐阜県岩手村(現垂井町)の真宗大谷派明泉寺の住職を1925年まで務め、37年、戦争批判を2度、口にした。
 1度目は9月15日。早朝、出征兵士を国鉄垂井駅に送る道すがら、村でも血気盛んな性格で知られた在郷軍人を呼び止め、こう告げた。
 「戦争は罪悪であり、人類に対する敵であるからやめたがよい。国家として、戦争は得なものではない」
 約1カ月後の10月10日、村内の寺で営まれた法要では、集まった住職5、6人を前に言った。
 「この度の事変について他人はいかが考えるか知らぬが、自分は侵略のように考える」
 「戦争は最大の罪悪だ。(中国の)保定や天津を取ってどれだけの利益があるか」

          陸軍刑法違反
 こうした反戦的な発言は自然と役場などに広まり、10月に逮捕される。陸軍刑法に違反し、「流言蜚語」を流したという容疑だった。
 妹が差し入れに行った留置場で「私らも白い目で見られる。頼むから悪かったと言うとくれ」と何度説得しても、「まことのことを言うとる」と拒み続けたという。
 結局、執行猶予3年がつきながらも禁固4カ月の有罪に。
 大谷派本山も、衣の色や法会の際の着席順を最下位にする「軽停班3年」という処分を下し、布教使の資格も奪った。
 竹中はその後、表立って戦争について発言することはなく、45年10月に78歳で死去。戦争が終わったことを知らせると、にこりと笑みを浮かべたという。
 戦後長く、「忘れられた存在」だった竹中に最初に光を当てたのは、愛知県一宮市の圓光寺の住職大東仁さん(41)。87年に大学の卒業論文で取り上げた。

          知らないふり
 だが、そのときも竹中の妹の孫にあたる明泉寺の現住職、竹中信雄さん(85)は、裁判資料について「卒論なら教える。外に出ないから」とやっと見せてくれたほどだった。
 論争相手となった在郷軍人や住職の子孫が近くで暮らしていたからであり、信雄さんは「知らんふりをするしかなかった」と振り返る。
 94年、大東さんが仏教の戦争責任を問いかけた著書「お寺の鐘は鳴らなかった」(教育史料出版会)で取り上げ、ようやく知られるようになった。

          善処を約束
 竹中の処分撤回についてはいま、岐阜県瑞穂市の入徳寺の住職広瀬顕雄さん(75)らが運動を続けている。昨年11月、2375人分の署名を添えて本山に要望。今年6月、さらに請願を出したところ、本山のトップが「善処」約束したため、名誉回復を確信して請願を取り下げた。
「10月の彰元忌までに名誉を回復してほしい」と広瀬さんは期待する。
 大谷派の暦の今年度末(来年6月)までが撤回時期の目安になると言う本山関係者もいる。

 
 8月15日には2つの印象があります。

1 “もう明日からは空襲警報のサイレンが鳴らない”という安心感です。一週間に二度殺されかかった恐怖の気持ちが薄れたことです。なくなったのではありません。「トラウマ」というのでしょうか、60年近く過ぎたいまでも恐怖感は消えません。工場のサイレンの音にもビクッと反応してしまいます。“9条を守りたい”という私の原点がここにあります。

2 “夜がこんなに明るいのか”と思ったものです。家々の窓から明かりが洩れていたのです。勿論いまの明るさとは雲泥の差です。前の日までは、少しでも明かりが洩れていようものなら、パトロールの人が怒鳴り込んできました。「灯火管制」を守っていないということです。守らなければたちまちのうちに「非国民!!」ということになります。照明弾を落されれば真昼のように明るくなってしまうのですから、守っていても「無駄」ということになるのですが・・・。当時はそんなことにも神経を使わなければならなかったのです。 
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