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鷹子さんへ。僕が問題にしていること。 文科系

2006年08月16日 14時20分39秒 | Weblog
ある会社がただ望みを語っていても潰れるだろう。優良な会社は、20年10年の長期計画がしっかりしている。しっかりした長期計画とは情勢分析がしっかりしていること。情勢分析の柱はマーケット調査。その根幹は言うまでもなく人々の要求の移り変わり。過去の現実を要求の移り変わりという視点(この場合は会社の製品から遠くない分野の要求の移り変わりにすぎませんが)から、冷厳に見ていく。ここでもリアリストほど「要求」から見るなどと言えば笑い飛ばして、売れ筋を見ると語るはず。その上に会社としての希望、要求を実現していく方向、技術、人材組織、原価管理などの計画を作る。
事ほど左様に、夢、望み、要求の実現を語ることは、同時に冷厳に実在、現実を見ていくことでなければならないということだろう。

さて、上記のことを1会社で行うこととは違って、歴史とか哲学、倫理学とかいう世界で行っていくのはさらに途方もない難問になっていくはず。歴史的現実を踏まえない哲学は幻想だろうし、事実の整理や望みを語らない歴史は、死んだ一千京どころではない無限大の事実のバラバラな集まりに過ぎないであろう。だからそもそも人間には、「この二つの正しい統一は可能なのか」という大問題まで出てきてしまう。ヨーロッパは、こんなことをかれこれ2500年追究し続けた歴史を持っている。「事実」だけ、「望み」だけ、「『事実』(確認をしあう)世界は限定的なこと、そこから出て『個人』領域のこととしてだけだが『望み』は持たせて貰う」、などなど、いろんな流派が深い浅い、広い狭いいろいろと局面を変えて繰り返されてきた。宗教的望みなども己の運命をかけて参加して来るから、命がけの厄介な問題になることも多々だった。
こういう問題設定から過去の哲学者達はこんなことを最大の問題と考えるに至った。「そもそも本当に存在するものとは何か」、「その実在するものを人間、俺はちゃんと認識できるのか」、「こういうことを踏まえ、整理しなければ、俺が満足できる生き方を語るなど、夢のようなもんだ」などなどと。
ここで余分なことも一言。大人がお説教をするときは、大抵卑近な実生活を脇に置いた実のない観念論だ。善意に見ても、無反省な人々ということだろう。他方、世に虐められ慣れてきた敏感な子ども、青年たちは、そういう大人の世渡りの言葉を間もなくすぐに見抜くようになるかわりに、「分かった。世に虚構だけを見るしかない。まともな人間は浮遊人」ともなりやすい。上の問題はこういうことにも当然、関わってくる。それ以上問題を深く追究しなければ、あとは「浮遊ではなく確信を」として「断定、断言だけ」に基づいた生き方も起こりうる。

さて、直感で悪いですが、昨今の「日本大好き歴史観」は西洋哲学の上に述べた伝統的中身から見て、洗練されたものではないと思います。その私なりの証拠はこんなものでしょうか。世界的な真理なんてどうでも良いという。国別の歴史観だけで結構と語る。しかも最初から「愛国主義」と絡んでいるから眼が「希望即実在」になりやすい。こうして、歴史や実在と、認識や精神と、私となどの区別を付けないままであったり、自分が考えを進めていく道具である言葉やその対象とはそもそも何なのかすら吟味しないままに歴史が語れると考える。僕はこういう批判の一端を示してきたつもりです。


なお、「上部構造の相対的独自性」とは以下のようなものです。カール・マルクスが述べた概念ですので、それに従います。ただし、従来の世界の共産党は日本のそれも含めて、このことを一面的にしか理解していなかったと、僕の恩師の受け売りもあって、若い頃から考えてきました。これが共産党の世界的破産の最大原因だったと考えているくらいです。
社会の思想の変遷史は、その「究極の動力」を己自身の中に持ってはいない。それは社会の経済的仕組みの変遷の中に求められる。経済の変化(これを「土台」と呼びました)に連れて、政治、制度、法律、習慣、道徳、思想などの社会全体(これを「土台」に対して「上部構造」と呼びました)が「遅かれ早かれ」変わっていく。
しかしながら、思想その他の上部構造は、社会の土台、その経済的仕組みの変遷を早めたりも遅らせたりもする。ただしこの側面は、先の側面、経済のその他への規定性に比べるならば「相対的なもの」である。なぜなら、人間は現に存在するものから感じ、認識し、想像し、創造していくことしかできないのだし、生きていくための経済活動、職業などは何を置いても一時も休むことができず実在させてきたものなのだから。
なお、経済的仕組みは思想その他の中に、直接に何かを作り出すということはできない。経済は、思想その他それぞれの従来までの歴史的枠組みを、その外から間接的に変化させていくだけだ。これらの歴史的枠組みを無視して、思想などを経済的要請に直結させようとするのは機械的唯物論と呼ばれるものの一種である。強権政治になり、結局、経済発展をも遅らせることになる。先述のこういった側面を無視することになるからだ。「思想その他は社会の経済的仕組みの変遷を早めたりも遅らせたりもできる」。

なお、マルクスが考慮に入れなかったことはもちろん多くあると思います。普通選挙の世界的普及とその影響、世界経済の絡み合いの深さや大きさから1国だけでは動かなくなったこと、マスコミの世界的発達。これらのことの採り入れにも影響した最も重要な哲学的欠陥として、人々の内面について知情意の情の解明の弱さ、特に指導者達自身の情の無自覚、つまり、人間へのそういう1面的理解などです。こういう哲学がその本性上持ちやすい一面性ということなのでしょう。
コメント (3)
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