九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

熱い広島の俳句。            戦歌の訪ね人

2006年08月06日 12時03分31秒 | Weblog
今年も六十一回目の「原爆の日」を迎えます。広島では平和を願う「俳句大会」が毎年行われています。

昨年の今頃、、40回を数える「平和祈念俳句大会」が、広島市中央公民館において開かれました。下に掲げる俳句はその時の作品です。応募人員124名(1人2句)の投句を得て、いつもながらの平和を希求する俳句愛好者の熱意が感じられたそうです。
原爆体験の風化が叫ばれている今、広島ではこうした催しが各界で続けられています。
 
 主な作品は、

 ○広島県知事賞
 廃線の枕木を踏む原爆忌・・・・松原 英明

 ○広島県議会議長賞
 祈る手のケロイド汗を弾きけり・・・・木村 年男

 ○広島市長賞
 「母さん」とだけ太く書き流灯す・・・・林   明

 ○広島俳句協会平和賞(Ⅰ)
 哭く蝉と一つになりし祷りかな・・・・大原 萩尾

 ○広島俳句協会平和賞(Ⅱ)
 喜雨しみる瓦礫の一つひとつかな・・・・長谷川明子

 ○中国新聞社賞
 合掌を解かぬ羅漢や蝉しぐれ・・・・中村 初枝
 知り人のめっきり減りて原爆忌・・・・信廣 高陽
 球場に半旗掲揚広島忌・・・・田中 恵子
 平服の父の遺影や終戦日・・・・森本 弘子
 八十路には八十路の日暮原爆忌・・・・内田 大正
 電車待つ人みな無口ヒロシマ忌・・・・寺田 記代
 川清く流れるばかりヒロシマ忌・・・・務中 昌己
 敗戦日明治の母は愚痴言はず・・・・重西あつ子

 ○広島市中央公民館長賞
 起きぬけの喉の渇きや原爆忌・・・・山口ひろ女

広島を中心とした俳人や多くの人々の熱い平和の想いを読み取りました。

                 
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広島で地獄を見た兄たち  へそ曲がり

2006年08月06日 08時15分08秒 | Weblog
 小さい頃、母と長兄から聞いた話です。

 昭和20年の夏、母と姉と私の3人は、母の実家で過ごしていました。都会の食糧難と幼児が足手まといになることを避けるためでもあったようです。
 用があって、ここへ長男と四男の2人の兄が来ることになりました。名古屋から広島までは汽車で、そこから母の実家まではバスで、という計画でした。

 広島で旅館に宿泊しなければなりませんが、当時は金を払うだけでは宿泊出来なかったそうです。食糧難のため、「米」を出さないと断られるのです。

 名古屋の家には米がありません。母が旅館まで届けることになりました。広島まで出掛け、帰った日が8月5日、原爆が投下されたのが6日。兄たちは当初7日に広島に入る予定だったのですが、鉄道が不通になったため、予定日から数日遅れて広島に入りました。もし1日か2日ずれていたら、家族のだれかが被害を受けたことになります。

 旅館に宿泊することは出来ません。消えてしまったのです。野天での宿泊です。周りには被災者がいっぱい横たわっています。“水をくれ、水をくれ。”という呻き声があちらこちらから聞こえてきます。でも、水を飲ませたら直後に死んでしまうと聞いていたため、無視しました。
 一晩中殆ど眠ることが出来ませんでした。翌朝、辺りを見回すと、呻き声をあげていた人たちの殆どは息を引き取っていました。周りは遺体だらけだったということです。“あれは地獄だった。”とよく言っていました。

 でも、話を聞いただけではよく判りません。兄は熱を込めて話してくれるのですが、ピンときません。
 やがて、「アサヒグラフ」の原爆特集の写真集が発売され、長兄はすぐ手に入れました。結核にかかり(長兄については、改めて投稿するつもりです)、床に就いたままだったので、弟に買いに行かせました。
 死期が近づいていたのか、かすれた声でしたが、並んで座っている弟や妹たちに向かって強い口調で言いました。“これを見ればわかるだろう、これがぼくたちが見てきた地獄のようすだ。”と言って渡してくれました。そこで見たものはまさに地獄図絵でした。

 いま、全国各地で開かれている「原爆写真展」の写真は「アサヒグラフ」に掲載されたものとほぼ同じです「核保有論者」の方はぜひ見て欲しいと思っています。 アメリカが公開を渋っている訳もこれを見ればわかります。見れば「核廃絶論」か゜一気に増えることは間違いないでしょう。それでは困るのでしょう。『出来る限り見せないようにしたい』、これが本音ではないでしょうか。
 これを見てもなお「核保有論」を唱えるのなら、その人の心は「鬼」と言っても言い過ぎではないと思っています。

 一緒に行った四男の兄は健在です。しかし、結婚して以来、子どもが出来ません。放射能を浴びたことが原因になってはいないだろうか?と思うのですが、彼は絶対に話そうとはしません。
 あの日、広島にいたということを、彼の奥さんは知っているのだろうか?尋ねて見たい気持ちはありますが、兄が語らない以上それも出来ません。
 私にとって、『ヒロシマ』は「過去」ではなく「現在」にも続いている問題なのです。そして、これからも・・・。 



 「原爆写真展」に必ず展示される2枚の写真があります。この日の11時過ぎ、爆心地から2.2キロ離れた「御幸橋」の写真です。女子学生と思われる被災者が集まっている光景です。
 この場面を撮影した「松重美人」氏(写真家=当時、中国新聞社写真部員で広島師団司令部報道班員)が「アサヒグラフ復刻版」に寄稿されたものを紹介します。


       見出し: 2回しかシャッターが押せなかった。

 6日の朝も、いつものように広島師団司令部の報道部に詰めていました。午前4時に空襲警報が出たからです。警報が6時ごろ解除され、私は市の中心から2,7キロの翠町にある自宅にもどりました。妻と朝めしを食べ出勤の支度にかかったときでした。

 大量のマグネシウムを目の前で発火させたような青白い光で、一瞬、なにも見えなくなりました。間髪を入れず全身に針が突きささるような強烈な爆風が吹きこんできて、私はうしろの壁にたたきつけられました。食事の後片付けをしていた妻が“爆弾が落ちた”と叫んだように思います。

 妻の手を引っぱって、私は夢中で走りました。どこをどう通ったのか、気がついたときは家の前を通る 電車道の向こうにあるイモ畑にもぐりこんでいました。灰色と乳白色の霧状のものが空気中に広がり、すぐ近くに伏せている妻の姿もかすんでしまうほどです。心臓は早鐘をうつようでした。

 小1時間もそうしていましたが、新聞社か司令部に行かなければと思い、カメラを持ってめちゃめちゃになった家を妻にまかせて出かけました。御幸橋を渡り鷹野橋の方に進みましたが、火災が激しくて都心に入ることができません。引き返して平野町の方へ向かいましたが、この道も文理大(現・広島大教育学部)グラウンド付近は火のついたドラム缶を蹴ちらすような勢いの猛り狂う炎です。

 再び御幸橋引き返して西詰めの派出所の前にくると、火傷を負った数百人の人々が群がっていました。髪は焼け、顔も焼けただれ、体じゅういたるところが火ぶくれしています。そこが破れ、皮膚がぼろきれのように垂れさがっている人もいます。2人の警察官が食用油を火傷の部分に塗っていました。

 道路から橋の両側をびっしり埋めた負傷者の中には、動く力もなくアスファルトに火ぶくれた体を横たえている人、半死半生で動く力もないらしい母親の体にすがりつく幼児の姿もあります。こどものころに縁日で見た地獄図絵そのまの悲惨な光景でした。
 
 私は写真を撮ろうと何度もカメラに手をかけましたが、生死の境をさまよう何百人の目が私を見ているようです。軽症の私にくらべると、この人たちはあまりにもむごい。そう考えだすとなおさらシャッターは切れません。しかし、私はカメラマン。事態のいかんにかかわらず写さなければならない・・・・。

 30分もためらい、1枚のシャッターを切りました。もっと近づいて2枚目を撮ろうとしたときは、涙があふれてファインダーがくもってしまいました。後になって何人もの人に“なぜ、もっと撮っておかなかったのか”といわれましたが、あの日、あの場所で2枚しか取れなかったのは、こんなわけでした。
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戦争の語り部を探そう。           まもる

2006年08月06日 00時53分09秒 | Weblog
戦争の悲惨を語り平和を説く時、何時も歯痒く感じるのが戦争体験の浅さです。
 実体験が無ければ戦争の酷さを伝えられないとか、平和の尊さを主張出来ない等と考えているわけではありません。しかし 実体験はある意味で質的に違った重みを持っています。事実の前に人は頭を下げない訳にはいきません。
 歴史の資料には一級資料とか二級資料とかが有るそうですが、歴史的な現場に居た人の証言は正に一級の資料でしょう。たとへそれが南京占領の現場に居たとか、広島の被爆体験をしたとかいった事でなくても戦争の時代にその空気を吸っていたという事は戦争の語り手としては、どの人の証言も第一級でしょう。
 またそうした人の戦争についての考えを知る事は、戦争について私たちが考えていく上で、とても大切な事でしょう。
 改憲の考えを持つ人も、護憲の考えを持つ人も、こうした戦争体験のある人の言葉になるべく多く耳を傾け自分の考えを検証し、肉づけをすべきでしょう。戦争体験者の声に答えられないような考えならそれは極めて脆弱で独りよがりな主張でしかありません。

 そこで、私が提案したいのは、今や消滅しかかっている「戦争体験」の語り部を探し体験を聞き取り、記録し、伝える事が必要なのではないかということです。
 六十代の人は幼少までの体験者、七十代の人が小中高の体験者、八十代以上の人が召集・戦地の体験者でしょう。身近に多くの戦争体験者がおみえです。
 そうした多くの老人は、戦争について辛い目に遭い、二度と戦争に出会いたくない、孫子にも体験させたくないと考えてみえます。そして、戦争の辛かった体験を伝えたいとも考えてみえるように思います。我々は、こうした身近にみえる戦争の語り部を探し、そのお話を語り継ごうではありませんか。

 そのために このブログや他の多くのブログが、活用されることを心より期待します。
 また、昭和区九条の会でも、そうした「語り部」のお話を大切に記録し伝えたいと聞きました期待します。
              
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20世紀の戦争に係わった共産主義の謀略と残虐性に(保守系)

2006年08月06日 00時15分28秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
私は、かねてから、日本国内では、大正デモクラシーの中に確実に共産主義の匂いを感じ、更に日本のエリート層に共産主義が浸透していたのではと、感じてきました。
日本史上最大のスパイ事件と言われる、ゾルゲ事件、摘発され死刑になった尾崎秀実など、吉野作造の作った東大新人会にこの尾崎も属していたことも多少理解していました。
また南京事件でも紹介した国民党寄りのアメリカ新聞記者の共産党系の人々、その中のアグネスメドレーが、日本軍が南京で20万人を大虐殺したという宣伝をしたジャーナリストですが、このスメドレーは延安とも関係が深かい人です。詳しくは、正論9月号の「ロシア革命から現代まで日本を呪縛し続けるー悪夢ー中西輝政を、是非お読み下さい。
私は、20世紀の戦争の底流に、この共産主義という狂気のイズムがあったと思ってきました。今もシナや北朝鮮にありますが・・・。
へそ曲がりさん・守るさん・老爺さん達が戦前の日本の戦争責任や戦争の不幸を語るのはまあ仕方ないのですが、この共産主義の狂気についても語ることが大事ではないのでしょうか。現憲法も「GHQ憲法」であり、この論文で紹介されていますが、「ノーマン憲法」更には「コミンテルン憲法」と言われる所以は、占領当初のアメリカの官僚の中に多くの共産党員がいた訳です。
考えてみれば、近衛文麿は、マッカーサーから昭和20年10月に新憲法起草を指示されています。しかし突如、12月に「戦犯」として逮捕命令が出され、16日自殺します。
この背後にアメリカのノーマンというカナダの外交官がいますが、彼はマルクス主義者であり、間違いなくコミンテルン工作員であったも紹介されています。
私は、いまだ朝日・毎日・中日新聞を中心とした東京裁判肯定史観などへの違和感を禁じ得ません。また中西教授が言うように、未だに、日中関係を含めて中国をめぐる国際情勢ではまだ冷戦は終わっていないという主張に賛同します。


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