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3.ネオコンの理論と政策の形成過程 その1   千里眼

2006年08月29日 19時09分47秒 | Weblog
1.1992年「防衛計画要綱」
 ネオコンの最強の論客であるウォルフォッツ(現世界銀行理事長)は、パパブッシュ政権のときネオコンとして始めて政府高官に登用され、国防次官補に任命された。このとき、数名のネオコン人脈の人材が国防省入りを果たしている。この間にネオコンは軍需産業との結びつきを強めたと言われている。
 湾岸戦争でフセイン政権を追い詰めなかった大統領の姿勢に不満を持ったウォルフォッツはこの提言をまとめ大統領に提出するが、大統領に無視される。
 さすがに前稿に触れたシュトラウスの門下生である。彼の政治哲学を見事に昇華させ、先制攻撃戦略を世に始めて送り出すことになった。この提言の真髄を示す一節を次に引用する。
「ドイツや日本を含め、潜在的なライバルが地域的、世界的な影響力をひろげようとすることを阻止しなくてはならない。米国に直接関わりのない紛争でも、米国は核兵器などを先制的にもちいるべきである。米国の一極的な新秩序を打ちたて、それを防衛せよ」と、先制攻撃論を提唱したのである。アメリカを頂点とするアメリカ的な民主主義・自由主義の世界を、そういう新秩序を世界に打ち立てること、そのためには先制攻撃も辞さないという提言である。
 この見解が軍需産業界から歓迎されたのは当然のことである。国防族に取り立てられたネオコン人材が軍需企業に迎え入れられ重役におさまっていくきっかけとなった。

2.1995年「完全な断絶 イスラエルの領土保全のための新戦略」
 イスラエルのラビン首相が凶弾に倒れネフタニヤフ氏が首相に就任する直前に、ネオコンのシンクタンク「先端政治戦略研究所」が新首相になる彼へ提言を呈したのが、この表題の非公開文書である。これが後にイラク戦争とそれに続く中東の混乱をかもし出す源になることになろうとは。
 これはイスラエルの取るべき政策を建策する内容であるが、ネオコンの論客がアメリカ国籍を有しながらイスラエルを心情的祖国としていることをはしなくも露呈している。
 その内容を箇条書き風に整理する。
  ① パレスチナ解放機構が治安維持の約束を果たしていない以上、イスラエル   はオスロ合意を守る必要はない。
  ② われわれの土地への望みは高貴であり、‥‥アラブがわれわれの権利、特   に領土にかかわる要求を完全に受け入れる『平和のための平和』こそ、イス   ラエルの未来の強固な土台となるのだ。
  ③ そのために、イラクでサダム・フセインに代わる親イスラエル政権を樹立   せよ。そのためにヨルダンのハーシム王家にイラクの統治権を与える。
  ④ イラク掌握後、ヨルダン川西岸のパレスチナ人をヨルダンに追放し、現在   のヨルダンにパレスチナ国家を作らせる。イラクのシーア派を懐柔して、レ   バノン・シリアのシーア派勢力を穏健化する。
 「完全な断絶」というタイトルは和平という「幻想」を完全に絶ち切れという意味である。オスロ合意を受けて、人々のなかに中東の和平に対する希望がとにもかくにも生まれているなかでの提言である。
 この提言は、イラクのフセイン政権を倒し、親米・親イスラエル政権を作るのを皮切りにアラブ諸国を彼らの言う「民主化」・「自由化」するという中東全体の改変政策である。形を変えた「ドミノ理論」である。ここで強調したいのは、この段階でネオコンがはっきりとイラク戦争を意識していたということである。
 この提言に名を連ねたのは、リチャード・パール、グラス・ファイス、デービッド・ウァムザー、ジェームス・ユルバートンであり、彼らは後にすべて現ブッシュ政権の中枢に登用されることになる。

コメント (3)
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「虎頭要塞」の終戦の事実  へそ曲がり

2006年08月29日 15時54分02秒 | Weblog
「右往左往」さんへ
 14日付の私の投稿「虎頭要塞の終戦」にさっそく「コメント」を頂いたのに、今日まで返事しなかったことをまずお詫びします。
 あそこにも書きましたように、あれは「保守系」さんへの宿題として出した質問です。ほぼ半月過ぎた今日に至るまで答えはありません。
 忙しくて出来なかったり、見忘れたりしたのではないでしょう。他のところへはいっぱい「コメント」を出したり、投稿したりしているのですから。
 そこで、このことについては「今日」で打ち切ることにします。

 ところで、頂いた「コメント」はその日のうちに読みました。すぐの調査、有難う御座いました。少し補足したいと思います。

私の出した問題は下のようになっています。

1 虎頭要塞はどこにあって、いつ作られたのか?
2 作られた目的は何だったか?
3 ここでの終戦日はいつだったか?
4 なぜ、「3」のようなことになったのか?そのわけは?

一方、「右往左往」さんの調査結果は次のようになっています。

① 場所・・ウスリー河南岸 北緯46 東経134
② 対ソ防御要塞
③ 1945年8月26日
④ 僅かな脱出者の西山氏の日記によれば、「玉音放送を聴いたが誰も信じなかった。」と書いています。
 付け加えれば、特に建設の過程で中国・韓国の人々が任務完了のあと薬殺されるなどの蛮行も多く見られたと西山氏は証言している。

補足です。
「1」 「対ソ防御要塞」であったかどうかについては異なった説もあるようです。というのは、あの辺りには他に「東寧」・「勲山」などの要塞もあり、一大要塞群として存在していました。「東洋一」と豪語していたそうです。国境沿いの南北約百十キロ、東西約五十キロの範囲です。「虎頭」もその中の1つです。「対ソ戦」を意識して1934年から4年かけて作られたと言われています。
  あそこに据付けられた大砲は、口径が41センチの巨大榴弾砲です。もともとは戦艦「土佐」や巡洋戦艦「赤城」(後の空母)に据付ける予定であったのが、「ワシントン条約」で制限を加えられたため、転用したと言われています。超長距離の射程距離(一説では50キロ)を持っています。シベリア鉄道迂回線イマン鉄橋を射程におさめていたもので、鉄道を遮断することが目的であったそうです。実際、戦闘でこの鉄橋を破壊しています。
  「日ソ中立条約」の締結が1941年4月、ここに口径41センチの大砲が設置されたのが同じ年の年末から翌年の3~5月ということです。
  「改憲論者」がよく言います。“「日ソ中立条約」はソ連が破った!”、と。要塞の規模、目的、巨大大砲が持ち込まれた時期などなどを合わせると、どんなことが考えられるでしょうか。「関東軍特別大演習」の目的と合わせて考えると、違った答えの出る可能性があります。
「2」 なぜ8月15日に終わらなかったか?「玉音放送を聴いたが誰も信じなかった」というのはその通りですね。では「関東軍司令部」から連絡はなかったのか?ある筈がありません。自分達が家族を連れて真っ先に列車で逃げ出したのですから。その上、後続の避難民が乗った列車を“足手纏い”として爆破することまでやっているのですから・・・。
  「降伏の使者」はあったのです。ソ連軍の捕虜となった日本人が、使者として「戦争が終わったこと」を知らせに来ているのです。この人を切り殺しているのです。
  ここには、最高時8千から1万人の守備兵がいたのですが、殆どが「南方戦線」に引き抜かれ、当時は1,500人の日本兵と、避難して来た民間人500人がいました。その中で生き残ったのは、兵士50人ほどと民間人100人足らずだったということです。
「3」 生き残った兵士として「西山」氏のほかに「岡崎哲夫」氏・「後藤 守」氏がいます。彼らも詳細に証言しています。なお、建設後、殺害された工事関係者はおよそ4千人と言われています。もっと多いという説もあります。
「4」 2000年、ここの入り口に「遺跡博物館」が造られ、私たちも見学出来るそうです。
 
 これが、「改憲論者」が絶対に語ろうとしない「歴史の事実」なのです。「軍隊は国民を守ってくれる?」という実際の姿なのです。これが言いたかったのです。

 いろいろ有難う御座いました。
コメント (1)
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