九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

ならずもの国家アメリカ 始めに    千里眼

2006年08月24日 22時36分00秒 | Weblog
このブログに始めて投稿する者である。ここで交わされている意見については、私なりにいろいろ思うことが多々あるが、それはさて置きアメリカのネオコンについての見解を記しておきたい。9条問題を考える前提に現在の世界情勢の分析は欠かすことができないし、その世界情勢を大きく動かすアメリカの対外政策を把握しておくことは必要であろう。その分析にはどうしてもブッシュ政権の中枢に食い込んでいるネオコンについての知識を欠かすことはできない。
 この表題は私が勝手に作ったものではない。レーガン政権の商務長官特別補佐官としてたびたび来日し、農産物の市場開放を日本に強く迫ったクライド・プレストウィッツ氏の著作「ROGUE NATION」(2003年11月講談社から翻訳出版)の表題を借用したものである。「ROGUE」とは英和辞典によると「悪党・ごろつき」と訳されている。
彼は2年間日本の大学院に留学した経験を持ち、共和党を支持する穏健な保守主義者である。政府高官となってからは貿易交渉のため世界を駆け巡り、極めて強硬な交渉を展開したことで知られている。
 ブッシュ大統領が議会での演説等で、北朝鮮・イラン・イラクを「ROGUE NATION」と名指し「悪の枢軸」と非難したことを我々は記憶している。
愛する祖国にこのような表題を付けざるをえなかったプレストウィッツ氏の危機感とその心情に深く同情するばかりである。
 この著作でプレストウィッツ氏はブッシュ政権の対外政策全般にわたって分析・批判しているが、2001年の9・11以前に主要部分を書き上げているので、残念ながらイラク戦争については補足的にわずか触れるに留まっている。
 ネオコン(ネオ・コンサーバティブ=新保守主義)の論客で前ブッシュ政権の副大統領首席補佐官を勤めたウィリアム・クリストルは「ネオコンが現政権の知的枠組み(戦略)を用意した。大統領のイラク政策は我々の意見に沿っている」と豪語している。
 そしてその豪語は真実そのとおりなのである。ネオコンの主だった論客の多くが現ブッシュ政権の中枢に登用されているし、国務次官補を経てアメリカ国連大使に任命されたボルトンもその一人である。さらに、ネオコンの中心的論客であり、現ブッシュ政権の国防次官を経て世界銀行の理事長に就任したウォルフォウィッツについては特に後日触れたい。
 次回以降にネオコンについて具体的にその内容を明らかにしていきたい。ここでは参考にした諸文献を紹介しておく。
   民主帝国 アメリカの実像に迫る  毎日新聞取材班       毎日新聞社
   ならずもの国家アメリカ      クライド・プレストウィッツ 講談社
   ユダヤ・エリート         鈴木 輝二         中央公論新社
   アメリカの保守本流        広瀬 隆          集英社
   ネオコンの論理          ロバート・ケーガン     光文社
   ネオコンとは何か         田原 牧          世界書院
   アメリカの経済支配者たち     広瀬 隆          集英社
   アメリカの原理主義        河野 博子         集英社
   アメリカのパワー・エリート    三輪 裕範         筑摩書房
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いつもの閑話休題・中田英寿のこと 文科系

2006年08月24日 11時21分49秒 | スポーツ
まず、彼のジャパン代表登場がどれだけ衝撃的であったかから、始める。
97年、フランスワールドカップ・アジア予選途中で絶望的な苦戦続きから加茂・代表監督解任という窮地が訪れていた。前回の「ドーハの悲劇」を経て、「今回こそは、WC日本初出場!」という国民の期待が崩れかけていた瞬間である。この瞬間に、突如出現した新米の二十歳。チーム危機の中から、実力でレギュラーをもぎ取り、あまたの先輩たちが即座に「チームの司令塔」と自然に認めて、その後数ゲームで日本初出場という結果を出して見せた「日本の救世主」。日本を騒がせたのも当然のことだろう。この20歳の出現がなければ、フランスで、ワールドカップ日本初出場という歴史自身がなかったはずなのだから。クライマックスとして上げられるのが「ジョホールバルの奇跡」、対イラン第3代表決定戦である。得点したのは中山、城、岡野。この3人への最終パス(アシスト)は全て中田が出したものだった。

さて、この彼、その後も日韓、ドイツと三回のワールドカップを引っ張り続け、さらに希有のアスリートであることを証明し続けて見せた。これが、中田の20歳から29歳までの出来事なのである。そもそも「3大会連続出場」は他に川口、小野だけだし、「3大会レギュラー出場」ともなればもちろん、中田以外にはいない。こうした結果からだけでも、日本サッカー界の常識を覆した革命児と表現しても、サッカー界の誰一人反対はできないという選手なのである。

さて、サッカー選手としての彼は、そもそもどんな特長をもっていたか。
二十歳の彼のパスは、「『追いつけ!』という不親切この上ないもの」と評論家たちの総スカンを食った。が今やもう、彼のパススピードしか世界には通用しないとは、周知の事実である。
「フィールドを鳥瞰していることを示すようなあの広い視野はどうやって身につけたものなのか?」。こちらは、反対者のいない関係者全員が初めから一致した驚きの声だった。どんなプレー中でも背筋を伸ばし首を前後左右へと回してきょろきょろする彼のスタイルは、その後日本の子ども達の間に広がっていったものだ。正確なロングパスは正確な視野からしか生まれないのだから。
「人のいない所へ走り込まないフォワードにはパスをあげないよ」。これも今や、「フォワードは技術以上に、位置取りが全て」という、日本でも常識となった知恵だ。これについては日本FW陣の大御所、中山雅史のこんな証言がある。
「中田が俺に言うのね。『そんなに敵ディフェンダーをくっつけてちゃ、パスがあげられない。どこでも良いから敵を振り切るように走ってって。そこへパスを出すから。そしたらフリーでシュート打てるでしょう』。俺、思ったね。そんな上手くいくかよ! でもまー、走ってみた。きちんとパスが来たじゃない。フォワードとして『目から鱗』だったよ!」
この出来事が中田20歳の時のことだ。10年上の大先輩によくも言ったり!従ってみた中山もえらい。中山のこの素直さこそ、39歳の今日まで現役を続けられている最大の理由と、僕には思えるほどだ。封建的な日本スポーツ界では、本当に珍しいエピソードなのではないか。
中田はまた、自分個人用のサッカー専用体力トレーニングに二十歳前から毎日欠かさず汗を流し続けている。「走れなければサッカーにはならない」、「外国人には体力負けするなんて、プロとしては言い訳にもならないよ」。自らのプレー実績で示してきたこれらのことの背景こそ、このトレーニングなのである。

さて、これら全ては今でこそ日本でも常識になっているものだ。しかし、中田はこれら全ての「世界水準」を20歳にして、どうやって身につけたのか。「世界から習った」、「例えば16歳で出会ったナイジェリアから」などと彼は述べている。ほとんど世界の相手を観察して得た「知恵」なのである。もの凄い観察力、分析力、練習プログラム構成力、自己規制などなどではないか!この上ない頭脳の持ち主が、観察のチャンスに恵まれたと語りうることだけは、確かだ。

彼はまた、世の全てが媚びを売るがごときマスコミへの反逆者でもある。「嘘ばかり書く」、「下らない質問ばっかり投げてくる」と主張し続け、「こんなものは通さず、自分の大事なことはファンに直接語りたい」と、スポーツマン・ホームページの開拓者にもなったのだった。弱冠21歳、98年のことである。それも、日本語、英語だけでなく、中国語、韓国語版まで備えたサイトである。イタリア語、英語にも通じた国際人というだけではなく、アジアの星にもなっていたということなのだろう。
他方、日本のサッカーマスコミは未だに程度が低い。この劣悪さを象徴的に語るならば、野球の、それも得点やホームランばかりを追いかけているように見えるということだろうか。因みに、野球のようにボールばかりを追いかけるテレビ画面からは、サッカーの神髄は絶対に見えてこないはずだ。


 ありがとう、中田英寿。僕をこれほどのサッカー好きにしてくれて。僕の生活にサッカーの喜びを与えてくれて。
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調査の怪! 1  へそ曲がり

2006年08月24日 10時41分15秒 | Weblog
 長くなるので4~5回に分けます。出しゃばりで申し訳ありません。

 私の体験です。最初に、当時の置かれた状況を述べます。当時、私は大きな事業所に所属していました。事業所はその下に行政区ごとに支所を持っていました。支所の下には多くの現場がありました。ここでは「事業所」・「支所」・「現場」という用語を使って説明します。

 さて、ある「支所」の「現場」でひとりの職員が「年次有給休暇」を行使しました。その結果、彼には「戒告」という処分が下されました。

 当時の事業所では「年次有給休暇」の制度がなく、代わりに天皇から授けられた「賜暇」というものがありました。これ、戦前の話ではありません。現代の話です。他の事業所だけでなく、全国的にも「年次有給休暇」の制度はあり、行使することが当たり前とされていた時代です。しかし実際には休みを取る場合は全てが「病欠」という処理がされました。家族や自分の結婚式や新婚旅行も「病欠」扱いです。
 当時は「特別休暇」も認められていないのですから、家族に不幸があっても「病欠」扱いでした。

 新聞報道も「年休取ったら処分?」とあきれたようなコメントを発表したぐらいです。

 ところで、彼は勝手に権利行使したのではありません。「現場」の労働組合の分会長として支部の会議に臨み、このおかしさを指摘したのでした。結果、支部の決議として「年休権」の行使が決定され、その第1号として行使したのです。その答が「戒告処分」でした。

 この「処分」に対して、労働組合本部の対応は“今後の経過を見守る”といった程度で、なんらの動きも示さないという状況でした。

 私たちは彼を支援ために「守る会」を結成しました。
「会」の抗議を受けた事業所側は次のように言いました。“年休の制度は認めている。彼の行使の仕方が違法であるから処分したのだ”、と。
 このため「会」は事業所を告発しました。人事委員会の公開審査を要求したのでした。

 「審査」が始まりました。事業所側は処分の正しさ?を立証するため、彼の職場の職員を多数、証言台に立たせました。しかし、「守る会」側の代理人や本人の反論の結果、証言内容は全て覆されました。中には、事業所側を弁護していたのに、途中から180度態度を変えた人もいました。また、証言を待つ間にいた「控え室」から逃げ出した人もいたぐらいです。
 
 でも、これだけでは審査は終わりません。今度は事業所側の「ウソ」、“年休権を認めていた”について、これを打ち破る必要があります。
 こんなことで、何人かに白羽の矢が当てられたのですが、その第1号が私でした。これが背景です。

 まだ、「調査の怪!」には入っていませんが、長くなったので、続きは次回にします。


コメント (2)
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