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私の戦争体験 ② 「日の丸」の思い出      爺老

2006年08月04日 17時08分20秒 | Weblog
 私の子どもの頃の思い出というと「日の丸」を話さない訳にはいきません。

 私が小さかった頃、日の丸を振って、兵隊さん達の行進に「バンザイ、バンザイ」と叫んだものです。その頃は、まだ何も解らずに、誇らしくやっていたものでした。
 出征する(赤い紙一枚の命令書で軍隊に入隊すること。)兵隊さんの家の前に集まって、訳のわからない軍歌(その頃は軍歌しか唄えなかった。)を唄って「万歳万歳」とやったものでした。
 小学生になった頃夏休みに、静岡の親戚のお寺に行っていた時、お寺の前が東海道線で、兵隊さん達が沢山運ばれていきました。そういう列車が停車すると、走っていって、旗を振りながら「万歳、万歳」と叫んだ物です。そうすると大体何時も、カンパン(携帯用の固いビスケット)ゃキャラメルを投げてくれました。
 僕たちを残してきた子どもと思ったのかも知れません。
 しかし ある日、何時ものように走っていって「万歳」と叫んでふと気がついたのですが、列車の中は白衣の兵士で一杯でした。それでも、キャラメルが飛んで来ました。(白衣=戦場で負傷した兵士)
 戦局が進み、戦死した兵隊さん達の遺骨ガ戦友の首にかけられて行進して来るのをよく見かけるようになりました。(十五センチくらいの四角い箱の中の壺に遺骨が入っており、風呂敷ぐらいの白い布でくるみ、両端を結んで兵隊さんが首にかけていたのです。)
 その先頭には黒い布が日の丸の上に結んでありました。

 祝祭日と毎月八日(開戦が十二月八日だったから。)には必ず「日の丸」を掲げなければなりませんでした。
 小学校では大きな講堂で正面にステージ、その中央に大きな日の丸がかけてありました。
全校の児童や先生が集合して、まず、校長先生がそれに最敬礼し、中央の立派な机の前に着くと、教頭先生がうやうやしく、黒塗りのお盆を頭上に捧げて巻物を運んで来ました。
 「教育勅語」でした。白い手袋をはめた校長先生がおもむろに紐を解き、巻物を拡げ、拝むようにして読み始めるのでした。

「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ・・・・・」

 私たちは、頭を下げ、静かに聞いていなくてはなりませんでした。首はだるいし鼻汁は出てくるし、あちらこちらで鼻をすする音と校長先生の声ばかりが響いていました。
 ほんとうに、とても長い時間に感じました。

 中学生になって十二三歳の頃、学徒動員で狩り出され、勉強どころではありませんでした。でも、初めの内は、日の丸のついた鉢巻をすると、日の丸の両側に「忠君・愛国」の文字があり、誇らしく嬉しかったものです。 またニュース映画などで上海陸戦隊とか南京占領などの度に日の丸が大きく振られているのを見ました。
 大東亜戦争(第二次世界大戦)になって、印度支那・マレイ半島・シンガポールを進軍(侵略)する日の丸を固唾を呑んで見守りました。
 その後、戦局が悪くなりだんだん日の丸を見かけなくなりました。墜落したゼロ戦の機体の日の丸ぐらいのものでした。
  敗戦の色がますます濃くなってきた頃、良く唄われた歌がありました。日の丸を仰ぎながら唄ったものでした

  海行かば水く屍 山行かば草むす屍 天皇(おおきみ)の辺にこそ死なめ
  かえり見はせじ

訳 海へ戦いに行けば死体は水につかる、山へ戦に行けば死体は草に覆われる
   天皇の為にこそ死のう、後悔はしない

 しかし、かつてその日の丸の下で何十万という人々が死傷したことを想う時、感無量です。
                             つづく
            
コメント (6)
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NHK特集「東京大空襲」  へそ曲がり

2006年08月04日 13時18分54秒 | Weblog
 この放送が最初に放映されたのは、衛星放送が始まる前です。

 番組の前半は、空襲の内容、検証などが続きます。皇居には東京中の消防車が集められ、24時間体制で警戒されていたことも紹介されます。3月10日は「陸軍記念日」、このような日にはこれまでにも大規模な攻撃があったことから、この日も“何かあるんじゃないか?”と言われていたことも紹介されます。
 風の強い日で、ラジオからは国民歌謡の「椰子の実」の歌が流れていたことも紹介されます。

 衝撃を受けたのは番組の後半です。2つありました。

1 なぜ「空襲警報」の発令が遅れたのか?

 それに触れる前に、当時の「警報発令」の仕組みについて、私の知っている限りで述べます。
  
 当時のアメリカ軍は日本を空襲する際、「富士山」や「潮岬」を目標に飛来して来ました。「富士山」の場合は東京や名古屋など、「潮岬」の場合は名古屋や大阪などにそれぞれ「警戒警報」が出されました。「東部」・「中部」・「西部」などの地域に分けて知らされました。

 名古屋の場合は「中部」です。“中部軍管区情報、東海道地区 警戒警報発令!”。発令されると、ラジオが直ちに放送します。市のいたるところには監視のための櫓がありました。ここに鐘が吊るされていて、【カーン、カン、カン】という連打で、ラジオを聴いていなかった人に知らされました。米軍機がどちらに向かうかが判明しないからです。

 やがて爆撃機は進路を変えます。どちらへ向かっているかが分かります。ここで警報は「空襲警報」に変わります。“中部軍管区情報、東海道地区 空襲警報発令!”。鐘が乱打されます(私が住んでいたところは鐘ではなく、厚い鉄板を金槌で叩くという方法でした)。
 これを聞いて子どもたちは「防空壕」に入りました。大人たちは決められた配置に従い「消火体制」に入るのです。逃げるなんてことは許されません。
 
 東京の場合も同じです。情報不足だろうなんて思うのはとんでもない間違いです。《東京が空襲される》ことははっきり分かっていたことなのです。
 にもかかわらず、爆撃が始まってから初めて放送することを許可されたのです。爆撃の開始が真夜中であった、この2つのことをまず頭に置いて下さい。

 番組の中では、「今福」(だったと思います。以前は夜7時のニュースに登場していた人で、名前を知らなくても、顔を見ればすぐにも判る人です)元アナウンサーが証言しています。

 彼は当時NHKに配属されていた将校を屋上に連れて行き、将校に抗議します。真っ赤になった空を指して言うのです。“あの空の下で何が起こっているのか、判りますか?なぜ早く警報を出すことを許さなかったのですか?”。
 将校は目を閉じ、口を固く結び、下を向いていただけだったとのことです。涙が流れていたと証言していたようにも記憶しています。

 発令を遅らせた理由は次のことだったのです。【眠っている天皇が目を覚ますといけないから】。頭を殴られたほどの衝撃を受けました。


2 「カーチス・E・ルメイ」についての紹介
 
 衝撃はまだ続きました。番組の最後です。話を続ける前に、「カーチス・E・ルメイ」という名前を頭に置いて下さい。

 彼は日本の各都市への無差別爆撃を考案した人です。木と紙と竹で出来ている日本の家屋を攻撃するには「焼夷弾」の大量投下が良いと考えました。それによって住民を「恐怖」に陥れ、ひいては日本国民を「厭戦気分」にさせることを狙ったということです。


 番組の最後のシーンです。NHKの記者がテレビ・カメラマンを同行させ、アメリカの「ルメイ」の自宅を訪問します。
 インタビューを申し出た記者に彼は激しく拒絶します。顔を写されることも嫌がります。
 その彼がただ1つだけ撮影を許可したものがあります。1枚の表彰状です。

 表彰状が大写しになります。《戦後、航空自衛隊の発展に寄与した》という感謝状です。誰が授与したか?カメラは賞状の左下へとズーム・アップします。授与者の名前が画面いっぱいに出て来ます。
 そこには【裕仁】と書かれています。【御名御璽】の印も押されています。

 この画面が数秒間流れた後、静かに消えます。この間無音声です。ここで番組が終わります。


 呆然としました。“こんな番組をNHKがよく放送したものだ”など、妻と話し合いました。録画を忘れていたことを悔やみました。

 次の日、NHKに電話を入れて尋ねました。いつ再放送する予定か?と。返事は“決まっていない”ということでした。

 やがて、衛星放送が始まり、ここで再放送されました。忘れずに録画しました。大切に保管してあるテープのうち、最も大切なものの1本になっています。


 DVDでも発売されています。ぜひご覧下さい。


 今日の「朝日新聞」の朝刊、1面下の「天声人語」の最後にこんな言葉がありました。

 “およそいかなる平和も、たとえそれがどんなに正しくないものであろうと、最も正しいとされる戦争よりは良いものなのです”(エラスムス)


 

 
コメント (4)
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