私の子どもの頃の思い出というと「日の丸」を話さない訳にはいきません。
私が小さかった頃、日の丸を振って、兵隊さん達の行進に「バンザイ、バンザイ」と叫んだものです。その頃は、まだ何も解らずに、誇らしくやっていたものでした。
出征する(赤い紙一枚の命令書で軍隊に入隊すること。)兵隊さんの家の前に集まって、訳のわからない軍歌(その頃は軍歌しか唄えなかった。)を唄って「万歳万歳」とやったものでした。
小学生になった頃夏休みに、静岡の親戚のお寺に行っていた時、お寺の前が東海道線で、兵隊さん達が沢山運ばれていきました。そういう列車が停車すると、走っていって、旗を振りながら「万歳、万歳」と叫んだ物です。そうすると大体何時も、カンパン(携帯用の固いビスケット)ゃキャラメルを投げてくれました。
僕たちを残してきた子どもと思ったのかも知れません。
しかし ある日、何時ものように走っていって「万歳」と叫んでふと気がついたのですが、列車の中は白衣の兵士で一杯でした。それでも、キャラメルが飛んで来ました。(白衣=戦場で負傷した兵士)
戦局が進み、戦死した兵隊さん達の遺骨ガ戦友の首にかけられて行進して来るのをよく見かけるようになりました。(十五センチくらいの四角い箱の中の壺に遺骨が入っており、風呂敷ぐらいの白い布でくるみ、両端を結んで兵隊さんが首にかけていたのです。)
その先頭には黒い布が日の丸の上に結んでありました。
祝祭日と毎月八日(開戦が十二月八日だったから。)には必ず「日の丸」を掲げなければなりませんでした。
小学校では大きな講堂で正面にステージ、その中央に大きな日の丸がかけてありました。
全校の児童や先生が集合して、まず、校長先生がそれに最敬礼し、中央の立派な机の前に着くと、教頭先生がうやうやしく、黒塗りのお盆を頭上に捧げて巻物を運んで来ました。
「教育勅語」でした。白い手袋をはめた校長先生がおもむろに紐を解き、巻物を拡げ、拝むようにして読み始めるのでした。
「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ・・・・・」
私たちは、頭を下げ、静かに聞いていなくてはなりませんでした。首はだるいし鼻汁は出てくるし、あちらこちらで鼻をすする音と校長先生の声ばかりが響いていました。
ほんとうに、とても長い時間に感じました。
中学生になって十二三歳の頃、学徒動員で狩り出され、勉強どころではありませんでした。でも、初めの内は、日の丸のついた鉢巻をすると、日の丸の両側に「忠君・愛国」の文字があり、誇らしく嬉しかったものです。 またニュース映画などで上海陸戦隊とか南京占領などの度に日の丸が大きく振られているのを見ました。
大東亜戦争(第二次世界大戦)になって、印度支那・マレイ半島・シンガポールを進軍(侵略)する日の丸を固唾を呑んで見守りました。
その後、戦局が悪くなりだんだん日の丸を見かけなくなりました。墜落したゼロ戦の機体の日の丸ぐらいのものでした。
敗戦の色がますます濃くなってきた頃、良く唄われた歌がありました。日の丸を仰ぎながら唄ったものでした
海行かば水く屍 山行かば草むす屍 天皇(おおきみ)の辺にこそ死なめ
かえり見はせじ
訳 海へ戦いに行けば死体は水につかる、山へ戦に行けば死体は草に覆われる
天皇の為にこそ死のう、後悔はしない
しかし、かつてその日の丸の下で何十万という人々が死傷したことを想う時、感無量です。
つづく
私が小さかった頃、日の丸を振って、兵隊さん達の行進に「バンザイ、バンザイ」と叫んだものです。その頃は、まだ何も解らずに、誇らしくやっていたものでした。
出征する(赤い紙一枚の命令書で軍隊に入隊すること。)兵隊さんの家の前に集まって、訳のわからない軍歌(その頃は軍歌しか唄えなかった。)を唄って「万歳万歳」とやったものでした。
小学生になった頃夏休みに、静岡の親戚のお寺に行っていた時、お寺の前が東海道線で、兵隊さん達が沢山運ばれていきました。そういう列車が停車すると、走っていって、旗を振りながら「万歳、万歳」と叫んだ物です。そうすると大体何時も、カンパン(携帯用の固いビスケット)ゃキャラメルを投げてくれました。
僕たちを残してきた子どもと思ったのかも知れません。
しかし ある日、何時ものように走っていって「万歳」と叫んでふと気がついたのですが、列車の中は白衣の兵士で一杯でした。それでも、キャラメルが飛んで来ました。(白衣=戦場で負傷した兵士)
戦局が進み、戦死した兵隊さん達の遺骨ガ戦友の首にかけられて行進して来るのをよく見かけるようになりました。(十五センチくらいの四角い箱の中の壺に遺骨が入っており、風呂敷ぐらいの白い布でくるみ、両端を結んで兵隊さんが首にかけていたのです。)
その先頭には黒い布が日の丸の上に結んでありました。
祝祭日と毎月八日(開戦が十二月八日だったから。)には必ず「日の丸」を掲げなければなりませんでした。
小学校では大きな講堂で正面にステージ、その中央に大きな日の丸がかけてありました。
全校の児童や先生が集合して、まず、校長先生がそれに最敬礼し、中央の立派な机の前に着くと、教頭先生がうやうやしく、黒塗りのお盆を頭上に捧げて巻物を運んで来ました。
「教育勅語」でした。白い手袋をはめた校長先生がおもむろに紐を解き、巻物を拡げ、拝むようにして読み始めるのでした。
「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ・・・・・」
私たちは、頭を下げ、静かに聞いていなくてはなりませんでした。首はだるいし鼻汁は出てくるし、あちらこちらで鼻をすする音と校長先生の声ばかりが響いていました。
ほんとうに、とても長い時間に感じました。
中学生になって十二三歳の頃、学徒動員で狩り出され、勉強どころではありませんでした。でも、初めの内は、日の丸のついた鉢巻をすると、日の丸の両側に「忠君・愛国」の文字があり、誇らしく嬉しかったものです。 またニュース映画などで上海陸戦隊とか南京占領などの度に日の丸が大きく振られているのを見ました。
大東亜戦争(第二次世界大戦)になって、印度支那・マレイ半島・シンガポールを進軍(侵略)する日の丸を固唾を呑んで見守りました。
その後、戦局が悪くなりだんだん日の丸を見かけなくなりました。墜落したゼロ戦の機体の日の丸ぐらいのものでした。
敗戦の色がますます濃くなってきた頃、良く唄われた歌がありました。日の丸を仰ぎながら唄ったものでした
海行かば水く屍 山行かば草むす屍 天皇(おおきみ)の辺にこそ死なめ
かえり見はせじ
訳 海へ戦いに行けば死体は水につかる、山へ戦に行けば死体は草に覆われる
天皇の為にこそ死のう、後悔はしない
しかし、かつてその日の丸の下で何十万という人々が死傷したことを想う時、感無量です。
つづく