「ルドルフの生まれたオーストリア帝国をさして、「ドナウ帝国」という呼び名がある。帝国の都ウィーンが位置するのもドナウ河の畔ならば、帝国が支配していたのもドナウ河流域の様々な地域だった。
現在の国名を挙げただけでも以下のようになる。スロヴァキア、ハンガリー、クロアチア、
セルビア、ブルガリア、ルーマニア、モルドヴァ、ウクライナ。今でもウィーンを出発して終着駅の黒海にまで至るドナウ・クルーズがあるが、一週間あまりもかかる長旅だ。しかもその昔、オーストリア帝国の領土はチェコ、ポーランド、スロヴァニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、イタリア等にまで及んでいたのだから、ため息が出てしまう。
つまりは、いわゆる「多民族国家」という国家形態だ。言語や文化を異にする様々な民族が、強大な支配者の下に結びあわされた恰好で、中世や近世のヨーロッパでは珍しくなかった。また「強大な支配者」とはいっても、実質的な統治力の持ち主というよりは、精神的な権威という側面の方が強かった。国が大きくなればなるほどその隅々まで支配できるわけもなく、結局ある程度は各地方に任せざるを得ないのが実情だった。
ところが19世紀にもなると、多民族国家は時代遅れの産物と見なされるようになる。近代のヨーロッパでは、一民族・一言語・一文化を標榜する「国民国家」が新時代の政治体制として大手を振るい始めた。あるいはそれに触発され、今だ国家を持てずにいる民族は、旧来の支配体制を脱して自分たちで国家を作ろうと運動を起こした。そしてこの民族運動がもっとも盛んになった場所こそ、オーストリア帝国に他ならなかった。
こうした状況を前に、オーストリア帝国はどうしたか。19世紀半ば以降、皇帝の地位にあったフランツ・ヨーゼフは、アメとムチの作戦に出る。ムチとは民族運動の弾圧、ただしこれはあくまで一時的処置であり、ことを根本的に解決できるわけではなかった。弾圧された民族の恨みは倍増し、さらにはオーストリア帝国の弱体化を秘かに目論む他のヨーロッパ列強が彼らの背後で暗躍すれば、事態はいっそう悪化しかねない。
ではアメとは何かといえば、各民族の言い分を聞くことだった。ただしあまりにも甘い顔をすると、帝国そのものの統治が機能不全に陥り、各地で新たな国家が誕生しかねない。また一つの民族を優遇しすぎると、他の民族から文句が出てくる。・・・といった具合に、19世紀半ば以降のオーストリア帝国は、いずれ倒壊しかねない家屋のような状況を呈していた。少なくとも帝国の維持を願うならば、皇帝といえども下手に手出しできなかったのである。その最中の1858年に生を受けたのが、ルドルフだった。」
(2012年公演プログラムより引用。)
エリザベートは登場しないこの舞台のプログラムをこうして読んでみると、マリーは登場しない『エリザベート』で描かれているのはこういうことなのか、と理解が深まるところがあったり、でもルドルフの描かれ方は少し違っているのかなと思ったり。2012年と2015年の現在とでは、世界も日本も、そして私自身も状況が違っていて、たかが三年、されど三年という感じがしています。
フランツとルドルフの対立、ルドルフとステファニーのすれ違い、ルドルフとマリーとの心の通い合い。逃げ場を求めてルドルフがウィーンの酒場で遊びにふける場面、ルドルフが苛立って煙草を吸う場面など、ひとつひとつがおもかったなという印象が残っています。
一幕の終わりは、マリーに背中を押されたルドルフが、世界を変えられるような大きな夢にあふれている希望のある場面だったと思います。
二幕はルドルフとマリーを囲む燭台の灯がひとつひとつ消えていって、二発の銃声が鳴り響くという終わり方だったと思います。
同じこと書いていますが、やっぱり切なすぎて、生きていてほしかったというのが素直な思い。もし彼が生きていたら今世界はどうなっていたでしょうね。
私が自ら人生のピリオドを決めてしまったことを否定するのは、妹の死を否定することになってしまいますが生きていてほしかった。
一生懸命に生きた、熱い命が伝わってくる舞台だったと思います。
カーテンコールで井上さんの、はっ、という掛け声と共にキャスト全員が、そろって客席に向かって歩いて頭を下げてくださいました。
初舞台は大学生だった井上さんが、帝国劇中を背負うまでに成長された姿は感慨深かったです。
生きるってむずかしい。
あっちにうろうろ、こっちにうろうろ、試行錯誤と手探りの連続。
ルドルフが生きた時代も今も変わることなく時間は流れていきます。
悠久の時の流れの中で与えられた命を生きていく。
みんな一人一人大切な命。
その命を生きていくということは、とりとめもなく大変なことなのだとあらためて思うこの頃です。
(写真はげきぴあからの転用で、2012年7月16日のトークショーの様子。)
現在の国名を挙げただけでも以下のようになる。スロヴァキア、ハンガリー、クロアチア、
セルビア、ブルガリア、ルーマニア、モルドヴァ、ウクライナ。今でもウィーンを出発して終着駅の黒海にまで至るドナウ・クルーズがあるが、一週間あまりもかかる長旅だ。しかもその昔、オーストリア帝国の領土はチェコ、ポーランド、スロヴァニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、イタリア等にまで及んでいたのだから、ため息が出てしまう。
つまりは、いわゆる「多民族国家」という国家形態だ。言語や文化を異にする様々な民族が、強大な支配者の下に結びあわされた恰好で、中世や近世のヨーロッパでは珍しくなかった。また「強大な支配者」とはいっても、実質的な統治力の持ち主というよりは、精神的な権威という側面の方が強かった。国が大きくなればなるほどその隅々まで支配できるわけもなく、結局ある程度は各地方に任せざるを得ないのが実情だった。
ところが19世紀にもなると、多民族国家は時代遅れの産物と見なされるようになる。近代のヨーロッパでは、一民族・一言語・一文化を標榜する「国民国家」が新時代の政治体制として大手を振るい始めた。あるいはそれに触発され、今だ国家を持てずにいる民族は、旧来の支配体制を脱して自分たちで国家を作ろうと運動を起こした。そしてこの民族運動がもっとも盛んになった場所こそ、オーストリア帝国に他ならなかった。
こうした状況を前に、オーストリア帝国はどうしたか。19世紀半ば以降、皇帝の地位にあったフランツ・ヨーゼフは、アメとムチの作戦に出る。ムチとは民族運動の弾圧、ただしこれはあくまで一時的処置であり、ことを根本的に解決できるわけではなかった。弾圧された民族の恨みは倍増し、さらにはオーストリア帝国の弱体化を秘かに目論む他のヨーロッパ列強が彼らの背後で暗躍すれば、事態はいっそう悪化しかねない。
ではアメとは何かといえば、各民族の言い分を聞くことだった。ただしあまりにも甘い顔をすると、帝国そのものの統治が機能不全に陥り、各地で新たな国家が誕生しかねない。また一つの民族を優遇しすぎると、他の民族から文句が出てくる。・・・といった具合に、19世紀半ば以降のオーストリア帝国は、いずれ倒壊しかねない家屋のような状況を呈していた。少なくとも帝国の維持を願うならば、皇帝といえども下手に手出しできなかったのである。その最中の1858年に生を受けたのが、ルドルフだった。」
(2012年公演プログラムより引用。)
エリザベートは登場しないこの舞台のプログラムをこうして読んでみると、マリーは登場しない『エリザベート』で描かれているのはこういうことなのか、と理解が深まるところがあったり、でもルドルフの描かれ方は少し違っているのかなと思ったり。2012年と2015年の現在とでは、世界も日本も、そして私自身も状況が違っていて、たかが三年、されど三年という感じがしています。
フランツとルドルフの対立、ルドルフとステファニーのすれ違い、ルドルフとマリーとの心の通い合い。逃げ場を求めてルドルフがウィーンの酒場で遊びにふける場面、ルドルフが苛立って煙草を吸う場面など、ひとつひとつがおもかったなという印象が残っています。
一幕の終わりは、マリーに背中を押されたルドルフが、世界を変えられるような大きな夢にあふれている希望のある場面だったと思います。
二幕はルドルフとマリーを囲む燭台の灯がひとつひとつ消えていって、二発の銃声が鳴り響くという終わり方だったと思います。
同じこと書いていますが、やっぱり切なすぎて、生きていてほしかったというのが素直な思い。もし彼が生きていたら今世界はどうなっていたでしょうね。
私が自ら人生のピリオドを決めてしまったことを否定するのは、妹の死を否定することになってしまいますが生きていてほしかった。
一生懸命に生きた、熱い命が伝わってくる舞台だったと思います。
カーテンコールで井上さんの、はっ、という掛け声と共にキャスト全員が、そろって客席に向かって歩いて頭を下げてくださいました。
初舞台は大学生だった井上さんが、帝国劇中を背負うまでに成長された姿は感慨深かったです。
生きるってむずかしい。
あっちにうろうろ、こっちにうろうろ、試行錯誤と手探りの連続。
ルドルフが生きた時代も今も変わることなく時間は流れていきます。
悠久の時の流れの中で与えられた命を生きていく。
みんな一人一人大切な命。
その命を生きていくということは、とりとめもなく大変なことなのだとあらためて思うこの頃です。
(写真はげきぴあからの転用で、2012年7月16日のトークショーの様子。)