『アンナ・カレーニナ(中)』-第五篇-20死より
「カレーニンは孤児として成長した人であった。ふたり兄弟のひとりであった。ふたりとも父親の顔を知らず、母親は彼が10歳のときに死んだ。財産もたいしてなかった。政府の高官で、先帝の寵臣だった伯父のカレーニンが、ふたりを養育したのである。
レーニンは中学と大学を優等で卒業すると、伯父のひきで、ただちに、華々しい官吏生活にはいり、それ以来、もっぱら栄達の道にはげんだ。彼は中学でも、大学でも、またその後、勤務についてからでも、だれとも親しい関係を結ばなかった。ひとりの兄だけは、もっとも近しい心の友であったが、外務省に勤めて、いつも外国に暮していたが、彼が結婚してまもなく、勤務先の外国で死んでしまった。
彼が県知事のときに、その地方の富裕な貴婦人であったアンナの伯母が、もう年こそ若くはなかったが、知事としては若手のほうであった彼に、自分の姪をひきあわせて、彼が結婚の意思を表明するか、その町を立ち去るかしなければならぬ羽目に追いこんでしまった。カレーニンは長いこときめかねていた。当時、その決断を下すにあたっては、それを是とする理由と、非とする理由とが、同程度であったし、疑わしい場合にはさしひかえるという、彼の原則にそむくほどの、確固たる根拠も見いだせなかった。ところが、アンナの伯母は知人を通じて、彼はもう若い娘の名誉を傷つけたも同然だから、名誉を重んずる義務として、彼は結婚の申し込みをしなければならないと思いこませた。彼は結婚を申し込み、許嫁として、また妻としてのアンナに、できるかぎりの愛情をささげたのであった。
彼がアンナに対して覚えた親愛の情は、他人と心の底から親密な関係を結ぼうという最後の望みを、彼の心から追いだしてしまった。今でも彼の知人の中には、ひとりとして親しい人間はいなかった。いわゆる縁故と称する連中はたくさんいたが、親友と呼べる者はひとちとしていなかった。カレーニンは自宅へ食事に招いたり、自分が関心をもっている仕事に協力を求めたり、請願者に対する保護を依頼したり、他人の行為や政府の施策について、ざっくばらんに論じあったりするような人は、かなりたくさんいたけれども、こうした人びとに対する関係は、習慣や風習によって、はっきりきめられた一定の枠に限られていて、そこから一歩も踏みだすことはなかった。ひとり、大学時代の友だちで、卒業してから親しくなり、個人的な不幸についても、語りあえる間がらの男がいたが、今は遠い地方で学区主任を勤めていた。ペテルブルグにいる人びとの中で、もっとも親しくしていて、打ち明け話のできそうなのは、専務主任と医師とであった。
専務主任のスリュージンは、気さくで、聡明で、善良で、道義心の強い男だったし、カレーニンは、相手が自分に対して個人的な好意をよせているのを感じていた。ところが、5年間の役人生活はふたりのあいだに、心を打ち明けて話のできない壁をきずいてしまった。
カレーニンは書類の署名を終えると、スリュージンをながめながら、長いことおし黙っていた。である。幾度も口をきこうとしたが、どうしてもいいだせなかった。彼はもう心の中で、『きみも私の不幸について聞いただろうね?』という文句まで用意していた。しかし、結局のところ、いつものように「じゃ、それをやっといてくれたまえ」といって、そのまま、帰してしまった。
もうひとりは医者で、これまた彼に好感をもっていた。ところが、ふたりのあいだには、とうの昔から、お互いに忙しい身だから、ぐずぐずしちゃいられない、といった気持が暗黙のうちに承認されていた。
女友だちについては、なかでもいちばん親しいリジャ伯爵夫人については、カレーニンもまるっきり考えてみなかった。すべての女は、単に女であるという理由だけで、彼にとっては恐ろしく、忌まわしい存在であったからである。」
(トルストイ『アンナ・カレーニナ(中)』昭和47年2月20日発行、昭和55年5月25日第16刷、新潮文庫、496-498頁より)