「橘井堂医院」の跡地
森鴎外が千住に暮らした時期がある。
その跡地の碑文には
「 翁は病人を見ている間は、
全幅の精神を以って病人を見ている。
(中略)
花房はそれを見て、父の平生を考えて見ると、
自分が遠い向うに或物を望んで、
目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、
父はつまらない日常の事にも全幅の精神を
傾注しているということに気が附いた。
宿場の医者たるに安んじている
父の レジニアションの態度が、
有道者の面目に近いということが、
朧気ながら見えて来た。
そして其時から遽(にわか)に
父を尊敬する念を生じた。 」
とある。
*レジニアション(resignation=諦観)
*この碑文は短編小説「カズイスチカ」
(1911年・casuistica=臨床記録)からの引用
千住での経緯
1878(M11)年11月 父・静男は
東京府から南足立郡の郡医を委託される。
翌年 千住に橘井堂医院(きっせいどう)を開業した。
1881(M14)年7月 林太郎は大学を卒業し
下宿を引き払って千住に住み、
医師として父とともに医療活動に従事した。
*この頃の様子は小説「カズイスチカ」にある。
1884(M17)年8月 ドイツへ留学
1888(M21)年9月 帰国して千住の実家に戻る。
1889(M22)年3月 林太郎は結婚して根岸に移り、
1892(M25)年1月 両親も千駄木・観潮楼に移った。
鴎外の妹 小金井喜美子
(1870-1956)の「鴎外の思い出」(1956)に
11歳から3年余千住で暮らした様子が描かれている。
「鴎外」のペンネームは
鴎外のペンネームは
本郷下宿時代からの書き物にあるが
1880(M13)年に千住の父の医院に
移り住んでからと思われる。
「鴎外」という号は諸説ある
現隅田川の白髭橋付近にあった
「鴎の渡しの外」
(かもめのわたしのそと)という意味で、
遊興の地に近寄らず
遠く離れた千住を意味しているとか。
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