あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

信州紀行 軽井沢4 桝形の茶屋

2020-01-09 | 国内・長野

 

  桝形の茶屋

 

分去れ 国道18号との
合流地点にある
「桝形の茶屋」が現存している。

 

説明文には

「史跡追分桝形の茶屋

寛永12年徳川家光の代、
諸大名の参勤交代の
制度が実施され、
ここを往来する諸侯のため、
宿内に問屋、本陣、脇本陣を
設置し、宿の西入口、
この辺に桝形の道と土手
(高さ約2.5m)を
築いて宿愛の警備取締りをした。

今、その面影を見ることは
できないが当時桝形の地域内に
あって茶屋つがるや(桝形の茶屋)
の建築にその昔を
しのぶことができる。」
とある。

 

    つがるやの漆喰看板


信州紀行 軽井沢3 追分宿2

2020-01-08 | 国内・長野

 

 (軽井沢追分宿郷土館
 リーフレットから)

             

 この「浅間山眺望」を見て
小諸馬子唄の歌詞を思い起こすが

江差追分をはじめとする
“追分節”の
発祥の地でもあるという。

♫小諸出てみよ 浅間の山に
 今朝も煙が 三筋立つ                                        

  黒(あお)よ泣くなよ 
   もう家ゃ近い 森の中から
   灯が見える ♪

 

 

 

宿場の長さは
東西5町42間(665m)

今は普通の住宅街の通りに

 

 

宿場の半ばにある「昇進橋」

なかなか縁起の良い名の橋
元は「精進場橋」と言われていたが

追分宿の商業繁栄を願って
「昇進橋」と改名されたという。

また かつては 土橋であったが
平成7年にコンクリートの橋に
付け替えられた。

 

 


信州紀行 軽井沢2 追分宿

2020-01-07 | 国内・長野

 

 

 

軽井沢には 
「軽井沢」「沓掛」「追分」と
三宿あり

追分宿は 中山道69次のうち
江戸から 20番目 40里
約160kmの宿場になる。

参勤交代以降繁栄し
元禄時代には 旅籠屋 71軒
茶屋 18軒、商店 28軒を数え

飯盛女も 最盛期には
200~270人も いたとされる。

 

*飯盛女は
近世日本の宿場に
存在した私娼である。

宿場女郎ともいう。

江戸時代、
娼婦は 江戸の吉原遊廓ほか

為政者が定めた遊廓の中ので
営業が許されていたが

飯盛り女に限っては
「宿場の奉公人」という名目で

半ば 黙認されていた。
      (ウィキペディア)



信州紀行 軽井沢1 追分の分去れ

2020-01-06 | 国内・長野

 

 

左手 追分宿への入口 

 

須坂からの移動途中 
いつも通り過ぎてしまう
軽井沢を訪れてみた。

下調べなしのことなので
ここが ”追分宿の分去れ”
と思ってしまったが
この手前が
実際のところであった。
(下写真)

 

                       

(軽井沢追分宿郷土館資料から)

海野宿(北国街道・東御市)と
和田宿(中山道・長和村)
に向かう分岐点

 

中山道六十九次の20番目の
宿場であり
北国街道との分岐点の
追分宿として栄えた。