なんか、身の回りだけ見てると、理屈でがっちり構築するようなタイプの人のほうが概してピアノはうまいのかなと思ってしまうが、逆というか感覚でバーーッと行けちゃうタイプのピアノ弾きってのもいて、
←年とっても美人、かわいいアルゲリッチ
まぁヤマハのときの先生は明らかに感覚派。中川P先生もわりとそうかな。
しかし感覚派の最右翼っていったらこの人、アルゲリッチ。
昨日見てきた映画のタイトルは「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」というものだが、そういわれれば「はいはい、そうですね」といって平伏すしかしょうがないみたいなピアニストだ。
もっとも、原題は「BLOODY DAUGHTER」で、ぜんぜん、「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」じゃない。でも映画を見たあとだと原題のほうが中身に沿っているような気はする。
「みかん(←日本のやつね)」を顔に転がして遊んでるアルゲリッチ。ホテルで寝起きのアルゲリッチ。
取材嫌いのアルゲリッチにありえない素の姿、表情大写しがこれでもかと出てくるが、
そんなことができたのは、これはアルゲリッチの娘が撮影したものだから。
アルゲリッチは、出たてのホームビデオを日本から買って帰って、それを使って娘が日常をカメラに収めるようになったらしい。映画の中に使われている、手ぶれ感ありありのシーンには、右下に1986あたりの数字が入っている。その娘はのちに映像作家として仕事をするようになり、今回のこの映画はその作品というわけだ。
「私の母がこの映画の主人公である。母はスターだが、大人になりきれない女性でもあり、常に迷いながら生きている。底なしの井戸のように満足を知らない人なのだ。そして自分の混乱や疑念の渦に他人を巻き込み、巻き込まれた方は迷子になるのに、本人はいつも簡単に出口を見つける。」(「ステファニー・アルゲリッチ監督、自作を語る」冒頭)
そりゃもうこんな偉大すぎるうえにろくに子育てらしいことをしない母がいたら人生はスタートから容易じゃないだろう。娘三人はそれぞれ父親が違う。長女はそもそも母と一緒に暮らしたことがない。下の二人はいちおう母と暮らしていたのだが、娘たちが学校(まだしも「常識」を吸収できそうな場!?)に行くことすら反対だったらしいし。「幼い頃は母のほとんどの演奏旅行に同行した。夜、母が協奏曲を練習するとき、そのピアノの音を聞きながら眠りについた。」(ステファニー)という具合。ある程度大きくなってから、「ベビーシッター」と留守番することも増えたがその「ベビーシッター」はだいたい若い音楽家(男性)で、子どもたちがその人とのつきあいに慣れたころ、アルゲリッチとの関係が壊れていなくなってしまう。
そのような状況から想像すると、娘から母を見れば許せないことのいくつもあったりするのだろうけど、映画に出てくるシーンには特に母娘の確執についてのものはない。むしろ底抜けに仲よさそうにいっしょに踊ったり、遊んだり、しゃべったりしているところばかりが多い。ステファニーによれば「私自身が母親になったことでこの映画が生まれたとも言えます。今こそ何か行動しなくてはという衝動に駆られ、母との関係が変化したと思います。」「これ(映画)は私と母の和解への試みなのです。」ということなので、この映画はいったん距離をとって、客観的に関係を見つめなおしたあとのカタチなのかもしれない。
娘たちはそれぞれ、母だけでなく父も非常に優れた音楽家なので、音楽的才能もたっぷり持っていたのではないかとも思うが、結局、母と暮らした二人は音楽の道に進んでいない。一度もいっしょに暮らしていない長女だけが、音楽家(ビオラ)になって母との共演もしているが、それにはそれぞれの必然があるのだろう。
アマチュアピアノ弾きの興味の観点からこの映画を見に行くと、特に音楽という面に深入りしたものじゃないので、もしかしたらちょっと失望する人もあるかもしれないけれど、この映画はピアノの映画というより家族を描いたものなのだ。緑の中、母と、大人になった娘三人がなごやかにとりとめなく話をしながらペディキュアを塗ったりしているシーンはたいへん印象的だった。
ピアノ関連で特に印象に残ったことはというと…
演奏中は、なんのためらいもなくほとばしるようにごく自然に弾いているアルゲリッチだけど、これから舞台というときのキョドりっぷりはものすごい。頭が痛くて弾けないとか、とにかく最悪だキャンセルするとか、ごちゃごちゃごちゃごちゃ、とにかくずーっとゴネている。周りの人はそっと触らないようにハイハイ、といなしてなんとか舞台に送り出す。送り出しちゃうとちゃんと「私こそ、音楽!」になるんだけどね。
実は上がり症で完璧主義者なのか、この人は!? でも映画中の談話を聞いてるととてもそんな感じはしない。最上級の天然で、何か説明しようとしても理屈としてまとまることはなく、「わかるでしょう?」といって説明頓挫。でもそのあまりにもまっすぐ素のまんまなところに目が離せなくなって、その人間的オーラの強さといったらピアノを弾いてるときはもちろん、弾いていなくってもピカイチ。次々恋人が現れるのもむべなるかな。
この映画をひとにもお奨めするかというと、うーん、びみょう…
あ、私はね。ある意味、ピアノとは別の興味のストライクゾーンど真ん中だったんで、おもしろかったですよ。けど、手振れ映像にすごく弱いんで、気持ち悪くなっちゃって、やばかったです(-_-;; そういうのに弱い人は注意!! けど、目そらしてると字幕が見えないからほんと困るんだよね。全編ほとんどフランス語だから目つぶってたら意味不明です。
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「はじめての中学受験 第一志望合格のためにやってよかった5つのこと~アンダンテのだんだんと中受日記完結編」ダイヤモンド社 ←またろうがイラストを描いた本(^^)
「発達障害グレーゾーン まったり息子の成長日記」ダイヤモンド社
(今回もイラストはまたろう)
←年とっても美人、かわいいアルゲリッチ
まぁヤマハのときの先生は明らかに感覚派。中川P先生もわりとそうかな。
しかし感覚派の最右翼っていったらこの人、アルゲリッチ。
昨日見てきた映画のタイトルは「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」というものだが、そういわれれば「はいはい、そうですね」といって平伏すしかしょうがないみたいなピアニストだ。
もっとも、原題は「BLOODY DAUGHTER」で、ぜんぜん、「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」じゃない。でも映画を見たあとだと原題のほうが中身に沿っているような気はする。
「みかん(←日本のやつね)」を顔に転がして遊んでるアルゲリッチ。ホテルで寝起きのアルゲリッチ。
取材嫌いのアルゲリッチにありえない素の姿、表情大写しがこれでもかと出てくるが、
そんなことができたのは、これはアルゲリッチの娘が撮影したものだから。
アルゲリッチは、出たてのホームビデオを日本から買って帰って、それを使って娘が日常をカメラに収めるようになったらしい。映画の中に使われている、手ぶれ感ありありのシーンには、右下に1986あたりの数字が入っている。その娘はのちに映像作家として仕事をするようになり、今回のこの映画はその作品というわけだ。
「私の母がこの映画の主人公である。母はスターだが、大人になりきれない女性でもあり、常に迷いながら生きている。底なしの井戸のように満足を知らない人なのだ。そして自分の混乱や疑念の渦に他人を巻き込み、巻き込まれた方は迷子になるのに、本人はいつも簡単に出口を見つける。」(「ステファニー・アルゲリッチ監督、自作を語る」冒頭)
そりゃもうこんな偉大すぎるうえにろくに子育てらしいことをしない母がいたら人生はスタートから容易じゃないだろう。娘三人はそれぞれ父親が違う。長女はそもそも母と一緒に暮らしたことがない。下の二人はいちおう母と暮らしていたのだが、娘たちが学校(まだしも「常識」を吸収できそうな場!?)に行くことすら反対だったらしいし。「幼い頃は母のほとんどの演奏旅行に同行した。夜、母が協奏曲を練習するとき、そのピアノの音を聞きながら眠りについた。」(ステファニー)という具合。ある程度大きくなってから、「ベビーシッター」と留守番することも増えたがその「ベビーシッター」はだいたい若い音楽家(男性)で、子どもたちがその人とのつきあいに慣れたころ、アルゲリッチとの関係が壊れていなくなってしまう。
そのような状況から想像すると、娘から母を見れば許せないことのいくつもあったりするのだろうけど、映画に出てくるシーンには特に母娘の確執についてのものはない。むしろ底抜けに仲よさそうにいっしょに踊ったり、遊んだり、しゃべったりしているところばかりが多い。ステファニーによれば「私自身が母親になったことでこの映画が生まれたとも言えます。今こそ何か行動しなくてはという衝動に駆られ、母との関係が変化したと思います。」「これ(映画)は私と母の和解への試みなのです。」ということなので、この映画はいったん距離をとって、客観的に関係を見つめなおしたあとのカタチなのかもしれない。
娘たちはそれぞれ、母だけでなく父も非常に優れた音楽家なので、音楽的才能もたっぷり持っていたのではないかとも思うが、結局、母と暮らした二人は音楽の道に進んでいない。一度もいっしょに暮らしていない長女だけが、音楽家(ビオラ)になって母との共演もしているが、それにはそれぞれの必然があるのだろう。
アマチュアピアノ弾きの興味の観点からこの映画を見に行くと、特に音楽という面に深入りしたものじゃないので、もしかしたらちょっと失望する人もあるかもしれないけれど、この映画はピアノの映画というより家族を描いたものなのだ。緑の中、母と、大人になった娘三人がなごやかにとりとめなく話をしながらペディキュアを塗ったりしているシーンはたいへん印象的だった。
ピアノ関連で特に印象に残ったことはというと…
演奏中は、なんのためらいもなくほとばしるようにごく自然に弾いているアルゲリッチだけど、これから舞台というときのキョドりっぷりはものすごい。頭が痛くて弾けないとか、とにかく最悪だキャンセルするとか、ごちゃごちゃごちゃごちゃ、とにかくずーっとゴネている。周りの人はそっと触らないようにハイハイ、といなしてなんとか舞台に送り出す。送り出しちゃうとちゃんと「私こそ、音楽!」になるんだけどね。
実は上がり症で完璧主義者なのか、この人は!? でも映画中の談話を聞いてるととてもそんな感じはしない。最上級の天然で、何か説明しようとしても理屈としてまとまることはなく、「わかるでしょう?」といって説明頓挫。でもそのあまりにもまっすぐ素のまんまなところに目が離せなくなって、その人間的オーラの強さといったらピアノを弾いてるときはもちろん、弾いていなくってもピカイチ。次々恋人が現れるのもむべなるかな。
この映画をひとにもお奨めするかというと、うーん、びみょう…
あ、私はね。ある意味、ピアノとは別の興味のストライクゾーンど真ん中だったんで、おもしろかったですよ。けど、手振れ映像にすごく弱いんで、気持ち悪くなっちゃって、やばかったです(-_-;; そういうのに弱い人は注意!! けど、目そらしてると字幕が見えないからほんと困るんだよね。全編ほとんどフランス語だから目つぶってたら意味不明です。
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(今回もイラストはまたろう)